マン島TT
日本を発っておよそ二日後、ロンドンヒースロー空港に降り立つと、そこから何とリムジンに乗ってリヴァプールへ。
行く先々では大いに歓迎され、有り得ないようなお持て成しに、二人を除く一行は、緊張しっ放しであった。それにしてもこの二人、底知れぬ何かを感じずにはいられない。
それにしても、ほんの三年前、日本選手団が上陸した際は、冷遇くらいならまだマシな方で、あちこちで侮蔑の視線を浴びたものだ。それが、世界を制して以降、この変わりようである。
欧米人が、如何に力の信奉者であるかの好例と言えよう。
ダグラスに向かうフェリーでも、日本人と見るや、気さくに話しかけてくる地元民も多かった。
この時期、ダグラスはまさにお祭り状態。何しろ二輪の祭典、マン島TTを控えており、所謂マッド・ジューンであった。そして、ホテルの予約が取れないライダーの多くはテント持参なのだが、フェリーでも乗り付けているバイクの大半が、ホンダ、ヤマハといった日本のロゴが目立つ。
前年、マン島及びWMGP制覇以降、日本のメーカーは生産が追い付かない程だったという。そして、多くのディーラーから、一瞬にして日本のバイクだけが消えたという逸話も。
「これこそが、我々が目指すべき光景だ。今度はバイクだけじゃない、自動車もまた、日本のメーカーのロゴが世界中で見られるようにせねばならない」
耕平も、何だかんだで考えてるスケールは大きかった。そのためには、耐久の世界で頂点に立つことが絶対必要だと考えていたのである。
当初、F1も考えはした。だが、耕平の理想とするマシンを世に送るには、あまりにも問題が多すぎた。オープンホイールでは、タイヤ周りにダウンフォースを生むのは困難だし、イヤでも空力付加物に依存せざるをえない構造になることを既に予見していた。
そして、F1マシンの持つ構造に、ある種の危険性が潜んでいたことも、耕平が嫌った理由である。実は、F1に限らず、フォーミュラーマシンは、安全性の面で不利な点が非常に多い。
特に、オープンホイールは、不確実性の塊なのである。何故ならタイヤ周辺を流れる空気は、非常に不安定なのだ。タイヤは一回転毎に磨り減っていく以上、当然である。
F1で時折発生する不可解な事故に於いて、これが大きく関係しているのではと、耕平はみていた。
せめて、タイヤ周りにバイクのように簡単で良いからフェンダーで被うことが認められているだけでもかなり違うのに、と思わずにはいられないが、何しろ20世紀初頭、ゴードン・ベネット・レース頃からの伝統である。
半世紀以上積み重ねられた慣習が、そう簡単に変わる筈もない。
だからこそ、ドライバーの安全面を考えると、F1に参戦する気にはなれなかった。それに、F1は無名のメーカーが参戦できるような甘い世界ではない。日本の場合、猶更難しいだろう。
なので、耕平の掴んだ情報が確かなら、日本でF1に参戦可能なのは、ホンダだけということになる。
そして、耕平には確信があった。
耐久を制して得られるものが、如何に多いかを。21世紀現在、F1以上に耐久が盛り上がっているのは、レギュレーションが厳しくなってメーカーにとり技術的な発展余地が狭まっているのもあるが、耐久で得られる物の多さに気付いたからではないだろうか。
フェラーリが50年振りにカムバックしたのも、レギュレーションで予算上限が規制された結果、開発費や技術陣が一部浮く形となり、それならば別のジャンルで活動してもらった方がメリットが大きいので、それまでF1と同じく、嘗て勇名を馳せた耐久の世界にカムバックを決めた訳だが、果たしてそれだけだろうか?とてもそうは思えない。
何故なら今、世界的に自動車業界は人手不足であり、それはフェラーリでも例外とは思えないからだ。
尚、カムバックしたその年、2023年のルマン制覇は、ルマン24時間100周年であると同時に、フェラーリにとっては58年振りにして記念すべき10回目のルマン制覇であり、今尚議論の余地はあるとはいえ、見事には違いなく、神に祝福されているのではと思いたくなる。
やがて、ダグラスの港が見えて来た。
とある最高級ホテルにチェックインを済ませると、一行は早速レースが行われるコースに出る。
「うわっ、何てうるさいんだ!!」
耕平たちは、一瞬耳を塞いだ。何しろマッド・ジューンの最中だけあり、世界中から訪れたライダーがビュンビュン飛ばしていく。
その一方、興奮気味にその光景を眺めていたのは、勿論渦海と風也。
「ああ……どうしてでしょう、血が騒ぐわ」
「だよねえ。どっかで借りて飛ばしたくてしょうがないし」
正直、命知らずな巫女である。
「やれやれ、もう興奮を抑えきれないってか」
耕平は、二人の反応に呆れてしまうが、同時に安心感を覚えてもいた。そもそもマン島観戦は予定に含まれてなかったのだが、二人がどうしても観たいというので、予定を早めて渡航することにしたのである。
何より危惧したのは、世界は国内とは大きくレベルが異なるため、そのスピード感に怖気付いてしまう可能性であった。
しかし、その心配は無用だった。
(これなら、ルマンを観ても二人は釘付け間違いないな……)




