一路フランスへ
あれから、5か月が経った。
耕平以下、渦海、風也、主要技術陣数名のルマンプロジェクト御一行は、羽田で待機していた。乗るのはKLMオランダ航空。当時、日本人にとって、海外旅行で最もお世話になることが多かった航空会社の一つである。
尚、当時はまだ航続性能が低いため、羽田を出発すると、香港、ボンベイ、カイロを経由し、パリではなくロンドンに向かう。
そしてマン島を観戦後、フェリーでフランスへ上陸。ルマン24時間を観戦するスケジュールである。
それにしても、当時の空港に於いて、羽田にあってすら日本人の姿は稀であった。それも無理のない話で、戦後間もない頃の80万円からすれば幾分下がり、そこへ国民の所得向上も重なっているとはいえ、当時海外に向かうだけで70万円が相場だった。これは、現在の価値に換算すると700万円。高卒初任給が2万円前後だった当時、飲まず食わずで3年貯金してやっと片道切符が買えるかどうかである。
尤も、飛行機旅行大衆化前夜の時代で、欧米人ですら航空券を買えるのは富裕層、精々中産層までの時代であったが。庶民層で乗っている方がいれば、それはほぼ出稼ぎか、もしくは出張技術者などとみて間違いなかった。
尚、この時代、飛行機に乗れる客層は知れていたのもあってか、所謂信用のある人ばかりだったのもあり、通関手続は今と比べると呆れるほど緩かったという。
自分たちに至っては、ロクにチェックもされていない。多寡だか農機メーカーの経営者に過ぎないというのに。寧ろこれで大丈夫か?と、反って老婆心が起こる程だった。
そして、くどいようだが、当時日本の旅券はほぼアメリカの管理下にあり、海外旅行そのものが日本人にとっては、カネ以外にも政治的な理由から高嶺の花であった時代である。
現在のように旅券を取得するだけでも難儀であり、加えて渡航申請を役所に提出しなければならない。尤も、仮に何処から見ても文句のない正当な理由であっても、アメリカの政治的都合で降りた許可が取り消されることも多かったという。
その意味では、旅券の申請取得も簡単だし、主として旅行代理店で手配してもらえば、海外にも簡単に行ける21世紀現在、隔世の感ありといったところか。その上、安い場所なら十数万円で行けるのだから、世界は狭くなったものだ。
日本人の海外渡航が政治的に敷居の高かったその理由について、定かではないが、あの戦争で実のところ、日本相手に散々痛い目を見たアメリカである。何かしらの脅威を感じていたのは確かであろう。要は一種の情報封鎖である。
これは余談だが、昭和40年代に入ると、それは徐々に緩和されていくことになる。というのも、ベトナム戦争激化で日本に構っていられなくなっていくのと、国際社会からの圧力もあったのではないかと思われる。
というのも、アメリカが不当に安く設定した通貨相場の所為で、異常なまでの輸出競争力を得たことにより、多くのドルが日本へ流れ込んでおり、それによって欧州ではドルが手に入りにくくなる事態が発生していたという。
このため、日本人に現地でカネを使わせてドルを吐き出させようという思惑もあったのではないか?としか考えられない。
しかし、その頃になると、海外情報が比較的容易に日本へ流れ込んでくるようになり、更に赤色テロの多発などで海外は危険だという認識が強まり、海外旅行へ向かうのは、芸能人のハワイでのお正月か、余程の好事家とビジネスマンくらいと言われていた。
結局、1971年に時のアメリカ大統領ニクソンが、ブレトン・ウッズ体制の終了を発表。1ドル=360円だった相場は一気に200円の円高となると同時に、ドルペッグ制であったのが変動相場制へ移行することになるのだ。
そして、耕平は羽田のロビーを眺めながら、3年前を思い出していた。そう、今から3年前、日本の二輪メーカーが日本選手団を結成し、マン島へと旅立つ際、このロビーには報道陣が殺到していた。
結成式は帝国ホテルで行われているが、それに劣らぬ熱狂と盛況が重なった光景であった。
それに対し、これから自分たちは、密かにとはいえ、ルマン制覇のための事前偵察に向かうのだ。そして、耕平は呟く。
「来年、我々が注目されるかどうかは、何とも言えんな……」
まるで、大して注目されないことを見越しているかのようであった。それが二番煎じの宿命であることを悟っていたのである。当時、F1情報は既に僅かとはいえ入手可能であり、マニアなどの間で盛り上がりを見せていた。
そして、耕平は、ある情報を密かに掴んでいた。
ホンダが近い内に四輪にも進出することをである。その際、レースで世界に勇名を馳せた以上、本田宗一郎の性格からいって、F1への参戦くらいはやりかねないと思っていた。
何事も考えるスケールが大きい。それが彼の性格である。
そしてもう一つ。ルマンへの参戦表明は、既にSSDが行っていることも、注目度が低くならざるをえない理由と考えていた。
SSDは、去年の世界制覇によって、既に世界的なブランドになっている。だからこそ注目されるのだ。
それに対し、自分たちは世間一般に広く認知されているとは言い難い。実際、宣伝広告を打ったことなど、農協や一部の産業関係者にしかない。そもそもが機密にも等しい技術を抱えている関係上、仕方のない面もあるのだが。
それでも、やはり寂しいなとは思う。
気が付けば、もうすぐ搭乗開始だ。それにしても、渦海と風也の二人には、陰ながら世話になってしまった。何処をどうしたものか、旅券発給、渡航許可、更に資金面まで、全て工面してくれたし、その上乗るのは何と、ファーストクラスである。
当時、ファーストクラスともなれば、150万円は下らない。エコノミークラスの倍以上である。このため出発前夜、二人から釘を刺されたものだ。
「取り敢えず、ファーストクラスに乗る以上、相応の振舞を心掛けてください」
と。
そんな二人は、意外な程無邪気であった。
様々な想いを抱えながら、一行を乗せたKLM機は、羽田を飛び立っていった……




