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それは、麒麟の雄叫び

 いよいよ、その日がやって来た。


 誰もが、いつになくテンションが高い。無理もあるまい。きちんと体裁を整えた状態での初試走なのである。


「開発から半年が過ぎた。これから、一年を掛けて問題点の洗い出しが必要だが、今日が一つの節目なのも確かだな」

 体裁の整ったマシンを前に、耕平は独白する。


 それにしても、美しいマシンだ。側面は、前輪のフェンダーはタイヤ上面に蔽いかぶさり、後輪はカウルと一体になったスパッツが完全に蔽っている。

 これによるメリットは、タイヤは上端が最も抵抗が大きいため、それを封じ込めダウンフォースとなるのと、後輪に関しては、スムーズに空気を後部へ誘導する意図があった。


 季節は冬。新年も迫り、周囲は吐息でしばしば白くぼやける中、ドライバーを務める渦海と風也は早く乗りたくてうずうずしていたが、実は寒さも原因だったりする。何しろヘタに下に厚着をすると、動きにくくて危険だから仕方がない。

「そ、それより、まだ暖まらないのかなあ」

 風也は特に寒さが身に染みる。晴れの国の一年は冬も比較的穏やかなので、山陰の冬は彼女には厳しかった。


 現在、マシンの方は暖機中で、この間も計測員がデータ取りの真只中であった。当初、6本マフラーとなる予定が、あのSSDの排気管を応用し、最終的に縦型にした45度スラッシュカットの二本出しに変更となり、その排気口から、自分も寒いと主張するかのように、不規則に白い排気が周囲をぼんやりと蔽う。

 尚、レーシングマシンにとって暖機は非常に重要で、水温が80℃にならないと、基本的に走行許可は降ろせない。

 尤も、この時代、市販車と言えども暖機はエンジンの損傷防止のためには欠かせない儀式だった。


 これは余談だが、当時あのフォルクスワーゲンビートルが日本にも多数輸入されており、特に医師にとっては欠かせない相棒であった。というのも、現在と異なり訪問診療も普通だったので、暖機せずともすぐに出掛けられるビートルは、まさに命綱だったのである。

 このため、世間ではお医者さんのクルマの代名詞でもあった。それから10年余り後、一部の裕福な開業医の間では、BMWも人気となるが。


「社長、暖機完了です!!」

 計測員の一人が告げると、風也が真先に向かった。もう寒くていてもたってもいられなかったのだ。 

「ああ~、寒い寒い。うなぎでも食べてくればよかった~」

 この時代、宍道湖はシジミもだが、うなぎが有名であった。その上、冬の現在が旬であり、関西風の焼きだけで仕上げた味わいは絶品且つ、脂のお陰で身も心も暖まる。ただ、当時からうなぎは高価なのが問題であったが。

 その上、巫女の生活は質素が建前であるため、そうそう口にはできない事情もある。尤も、渦海は違ったが。彼女は丸顔の上、プニプニしているのが外見上の特徴だが、一説にはうなぎをいつも口にしているからとの噂があった。何しろ週一の頻度で自ら宍道湖まで釣りに行って捌くくらいなので、案外事実かもしれない。

 それに、彼女の焼き加減はプロ並みだ。


 バタフライドアを開けて乗り込み、四点式シートベルトを締める。尚、当初ガルウイング且つ開口部は強度上の都合から、ウインド部分だけにする予定であった。要は嘗ての戦闘機のように。

 だが、耕平が安全上の観点から却下したのに加え、バタフライ式にする方がメリットが大きかった。というのも、蝶番を前に設けることで、そこに生じる空気の渦が、境界剥離防止を果たすことが分かったからである。


 マシン上面の境界剥離は、アップフォースを減じてハンドリングが低下するのと、直進時も不安定になる。後に登場するウイングを使えばそんな問題は簡単に解決するのだが、当時そんな発想はなかったし、仮にあったとしても、航空工学を修めている耕平がノーを突きつけた可能性が高い。

 というのも、かなり後のことになるが、耕平にしても友人の仁八にしても、それに過度に依存する危険性を知ったからである。一番恐ろしいのは、ウイングが何等かの理由で脱落すれば、一瞬にしてコントロール不能に陥ることだ。

 このため、こういった諸問題は、あくまで空力付加物ではなく、空力で解決すべきだ、というのが耕平の持論である。


 何度か空ぶかしをしてレスポンスを確かめた後、ギャラリーが見守る中、マシンは静かに走り出す。尚、アイドリング時のOHVのエンジン音は、レース用と言えども大変大人しく、プッシュロッドのカタカタ音が目立つくらいだ。

 後に登場するフォードGT40のように、7ℓくらいになれば話は別だが、それでもアイドリング時の音はアメリカのマシンとは思えない程気品がある。

 だが、空ぶかしをすると、やはりジェットエンジンのような音を周囲に撒き散らす。そして、その本性は、こんなものではなかった。


「おおお、この吹け上がり。これを聴いてるだけでも身体が温もりそうだわ。それに、ハンドリングも思った以上に素直だし」

 風也は、一つ一つ感触を確かめていたが、その反応には概ね好意的だった。


 漆黒の宍道湖を、左右二つのライトと、アンコウのような開口部に設けられた黄色のフォグランプが照らしだしている。 そこから浮かび上がる正面のフォルムは、当時の耐久レーサーの典型でもあった。


 上面のダブルバブルルーフの間には、小さく突起した吸気口があり、内部は三つに分かれていて、真ん中は上下横置きのルーツ式スーパーチャージャーに吸い込まれ、前方へと吐出した空気は球形の管でスワールとなって左右のベンチュリー形状の管へ吸い込まれ、再び円形になった管で膨張して二基のインタークーラーを通り、真ん中で合流してスワールを起こし直下の三つのキャブへ吸い込まれる。その吸気管は何と鋼製でクロムメッキが施され、これは知り合いの配管業者による入魂の逸品だ。 


 左右はアルミ製の吸気管を通り、そのまま空冷式インタークーラーを冷却した後、下から自然放出され、エンジンルーム内にスワールを起こしながらマフラーと同じく45度にスラッシュカットした後部から放出される。

 この空気がスワールを起こすことで、エンジンルーム内の負圧を下げ、走行抵抗を減じる役目をしていた。そして、後部に放出された空気は上面及び下面の空気と合流してスワールを起こし、マシンを前進させる力ともなる。

 実は、こうした空力の妙により、IZUMOのマシンは僅か3000㏄6気筒、しかもOHVターンフローという不利なメカニズムであっても、後に世界に於いて互角以上の戦いを繰り広げることが可能であった。


 そして、マシンが通過した直後、後になって轟音が響くため、周囲で警戒していたお巡りさんやギャラリーも、軒並耳を塞ぐ。

 実はこのマシン、超音速現象が発生するのだ。

 ルーツ式は、4万回転以上になると、エンジン負荷に打ち勝って寧ろ増速を始める。加えて、ルーツ式は圧縮効果はないもののベンチュリー効果で送り込むため、その過程で空気が超音速に達し、結果、衝撃波が発生する。

 こうなると、発生源は静止状態なのに、マシン自体は移動しているため、概ね60㎞/h以上になると、理屈上超音速と同じことになる。

 それが、超音速現象の正体であった。


 尚、ルーツブロワーの駆動源は、エンジンではなくトランスミッションのプライマリーギアであり、右側から取り出して遊星歯車により、最大18万回転まで回る。ルーツ式は市販車で大体2万回転、戦前のグランプリマシンで4万回転と推測されることを考えると、驚異的という他ない。

 また、プライマリーギアを介するメリットは他にもあり、これによってギアの同調性能が高まるため、3000回転以上になるとチェンジペダルを踏まなくてもシフトアップに限りシフト操作だけでギアが入る。理屈上シームレスミッションと変わらない。

 どちらの方がタイムアップに貢献するかと言えば、シフトアップの方なので、事実上空走時間がゼロになるメリットは明らかであると同時に、理論上チェンジペダルを踏む回数が半分になるため、長時間走る耐久の世界に於いて、疲労軽減による安全性向上のメリットもある。


「それにしても、随分静かね。タコ見てないと分かりにくいわ」

 周囲には轟音を撒き散らしていたが、風也は全く気付いていない。それもそうで、超音速状態と同じであり、音より速く走っているため、コックピット内は文字通り静寂が支配していた。

 タコメーターを見ないと走行状態が把握しずらいという問題はあったが、この静寂もまた疲労軽減に繋がるので、メリットは小さくない。

 なので、これは慣れるしかなかった。尤も、耕平にとっては想定外であったが。

 

 このテスト走行で、最高速度は何と303.71㎞/hをマークした。これは、山陰の主要道の舗装率が高いからこそ可能だったとも言える。

 山陰は、意外にも戦前から全国に先駆けて舗装が進んでいたのだ。


 そして、その時の轟音は、まさに麒麟の雄叫びであった。後にギャラリーの一人がそう証言する。


 やがて、一周したマシンがスタート地点である待避所に戻って来た。マシンを降りた風也は上気しており、その表情は満足げである。

「素晴らしい、実に素晴らしいですわ」

 簡潔だが、これ以上マシンに贈る賛辞は他になかった。


 一旦状態を確かめ、渦海も乗ったが、見解は同じであった。それに技術陣が自信を深めたのは、言うまでもない。


 しかし、次のテスト走行で、このマシンの思わぬ欠陥が、明らかとなる……


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