何処までも日本的な
二人は、完成をみた翌日、呼び出しを受けた。
そして、初めて完成した姿を見て、息を呑んだ。
「こ、これが……」
「私たちが、これに乗るんだ……」
そのシルエットは、古典的でありながら最先端。何より、シンプルな造形には、一見しただけでは分からない、日本的な緻密さと繊細さが凝縮されていた。
何処までも日本的な。そう表現する以外に表現のしようがない。
まだ洗練には程遠かったが、空力の点はほぼ極めていたと言える。後の実測では、Cd値は何と0.17を記録した。これは、当時フォーミュラマシンで0.6台、スポーツカーで0.3台くらいであったことを考えると、恐ろしく優秀な値である。
因みに、Cd値が大きい=スピードが出ないとは限らない。例えば正面で受け止める面積が大きい場合、仮に値が小さくとも、やはりスピードは出にくい。というより低速でもコントロール性が下がる。トラックなど、正面面積が大きくならざるを得ない車種の場合、垂直部分を減らし、ぶつかってくる空気を受け流せるようにするのが有効だ。
「さあ、乗ってみなさい」
耕平に促され、まずはコックピットに潜り込んでみる。最初に潜り込んだ渦海は、驚きを隠せなかった。
「まるで、マシンと一体になるかのように馴染んでくる」
こんな体験は、無論初めてのことであった。視界についても、これまでより狭いのは確かだが、余計な視覚情報が遮断されるため、反って集中力が高まるのを感じる。
次に乗った風也は、
「黒一色の中に、適度にアクセントカラーがあるお陰で、必要な情報を素早く見られるし、殺風景でないから反って快適に感じるわ。それに、スクリーンに見切り線があるお陰で、素早く車体の感覚も掴める」
そう、これまでレーシングマシンに於いて、快適さを始めとした人間工学的な配慮は微塵もなかった。それも無理からぬ話で、タイムアップに繋がらない物は、極力排除するのが常識であった。
だが、耐久レースを戦うにあたり、その常識を根底から覆そうとしていたのである。というのも、耕平は、マシンの高性能化によるタイムアップは、この先頭打ちになると予測しており、一周辺りの速さより、最大24時間を通じて戦い続けるための持久力を重視する方針を選んだ。
21世紀に入り、その思想は徐々に現実化しつつあるが、出雲では遥か60年以上前から取り入れていたのである。また、敢えてスペックの点で不利なOHV且つ6気筒を選んだのも、全てこの戦略に基いているのだ。
つまり、このパワーユニットでも、トップを狙えるだけの性能が得られると確信していたのである。その意味で、かの仁八と並んで、耕平もまた恐るべき人物と言わざるを得ない。
そして、エントリーを予定していた二座席スポーツカーでは、規定により、純粋なレーシングマシンと言えども市販を前提としたスポーツカーという建前があったため、スターターモーターを搭載しており、自力でのエンジン始動が可能となっていたのだが、耕平がそれだけで終わらせる筈がなく、スターターモーターには、ある役目を持たせていた。
その秘密については、後々明らかとなる。
「何だか、乗っているだけで負ける気がしない。こんなの初めてよ」
共に、このマシンについて抱いた、偽らざる感想であった。そう言ってもらえると、技術陣としては設計者冥利に尽きるというものだ。
「それじゃあ、来週土曜の夜から、本格的なテスト入る。楽しみにしていなさい」
と、そんな時、技術者の一人が真っ青になって訊ねる。
「社長、これはもう、あの時とは性能も桁違いですよ。それに、エンジン音だって、比べ物になりません」
安全面で懸念が、と言いたいのは当然であろう。
だが、耕平は、ニンマリしながら言った。
「なあに、心配は無用だ。既に周囲の有力者には話をつけてある。必要とあらば、警察にも協力を要請することもできるぞ。多分自主的に動くだろうけどな。尤も、建前とケジメというものがあるからな、その節については、オレが正式に所轄警察署へ申請しにいくので、お前たちはテストのことだけ考えればいい」
そう、耕平は、元が室町時代まで遡れる程の、山陰を代表する旧家だし、東大時代のコネもあり、地元のみならず政財界にも顔が利く。二輪業界の無敵振りに触発されてか、産業振興や経済発展にも有効だとして、日本の自動車業界の発展のため、政府も本腰を入れ始めていた。
ルマンプロジェクトは、既に半ば国家プロジェクトの側面を帯び始めていたのである。その影響で、史実ではオープンはまだ6年後となる筈の富士スピードウェイの建設が、密かに始まっており、来年には完成の予定であった。日本に於いて、鈴鹿に続き、二番目の国際格式の公式サーキットとなる。
それが意味するところは、この日本へ国際的なレースを招致することにあったのは、誰の目にも明らかだった。
それは、早くも今から二年後に現実となる。
尚、それが可能だったのは、主な関係者だけでも河野一郎、洋平父子、丸紅の小佐野賢治など、後々国内から批判を浴びることになる面々の想像を超える尽力があった。
確かに様々な政治スキャンダルを引き起こしているのは事実だが、かといって、その功績まで否定する訳にはいかない。それについては、寧ろハメられた被害者と言うべきだろう。
彼らなくして、今日の日本のモータースポーツ及び自動車産業の隆盛は、有り得ないからだ。そして、彼らはそんな熱い思いに対する理解者でもあった。
そして、渦海や風也なども、陰で密かに関わっていたのだが、それについては21世紀現在も沈黙を保っている。
宍道湖で堂々とテストが行えるのも、こうした後ろ盾があったからこそなのだが、時代の空気も大いに関係していた。高度成長期とはいえ、一般国民にその実感はまだ薄く、誰もが夢と希望に飢えていた時代でもある。そうした空気が、これを可能としていたのだ。
その意味では、大らかな時代だったという他ない。
誰もが、来週土曜の夜が待ち遠しかった……