黄金色のドレス
工場の最奥にある特別区画で、シャシーへ車体が被せられようとしていた。
「いよいよだな……」
耕平たちが見守る中、シャシーへ慎重に被せられていく。それは、スタイリストがドレスを纏ったモデルの細部を整えるが如しであった。
そして2時間後、遂にマシンが真の姿を現した。それは、朝日に照らされ黄金色に輝く稲穂のようでもあった。シンプルに日の丸が入っただけの出で立ちであったが、誰もが感慨一入である。
そのマシンは、こう命名された。
IZUMO TyapeZERO
つまり、この時点ではまだプロトタイプであり、ここから更なる問題点の洗い出しが行われることを意味していた。しかし、マシンが完成したことは、一つの節目であり、その美しさに、暫く立ち尽くした。
石油系ウェットカーボンをベースに、超々ジュラルミンとの間へ土佐和紙を挟んで、膠で張り付けて構成したマシンのシルエットは、一風変わっていた。
因みに、黄金色の正体は、主に海軍機で使われたワニスを三度塗り重ね水研ぎをした後、クリアラッカーを更に三回吹き付けてコンパウンドで磨き、その上にガラスコートして仕上げており、日の丸は紅花へウレタン塗料を混合している。
裏地には何と、高純度アルミを吹き付けていた。
後にはスポンサーロゴも増えるが、これはシルク印刷で、この程度は問題ない。
尚、クラッシュ時には、このドレスがドライバーを守る仕組みとなっており、僅か10本のボルトで留めている。
当時、既にカムテールといって、後部をスパッと切り落とした大胆な形状がレースの世界で主流となりつつあり、それは当時F1のみならず耐久の世界でも最強の一角を占めていたフェラーリでさえ例外ではなかった。
流線型が主流だったのは、ジャガーが強かった辺りまでで、最早過去のスタイルになりつつあった。
そんな、時代の流れに逆らうどころか、更に遡るかのようなクラシカルなスタイル。
耕平が参考としたのは、1947年9月16日、ボンネビルの速度記録挑戦で、初めて600㎞/hの壁を破った、レイルトン・モービル・スペシャルである。
尚、ジョン・コッブが乗ったこのマシンの出自は恐ろしく古い。何と、1928年製ネイピアの航空機用エンジンを二基搭載し、1939年8月23日、600㎞/hにあと一歩及ばず、その僅か8日後に第二次大戦が勃発。コッブは故国イギリスに戻らずそのままアメリカに滞在、8年越しの悲願であった。
因みに1939年の同時期、ジョージ・アイストンが同じく速度記録に挑戦しているが、この時の総出力は5000馬力を超えていたのに対し、コッブのマシンは半分の2500馬力。
それでアイストンの記録を破ったのは見事という他ないが、それを可能としたのは、極限まで空力を洗練した車体にあった。
極限まで洗練されたシルエットは、誰が見ても文句のつけようがなく、かのエンツォ・フェラーリは、強いマシンは美しいという哲学の持主であったが、恐らく彼とて賞賛を贈らざるを得ない。
耕平が目指した理想が、あのシルエットに凝縮されていた。
垂直且つラウンドしたフロントウインドウは、かなり前より、側面も含め視界は最小限度にされており、これは、視界に入る情報を最小限にすること、更にフロントウインドウを遠目にすることで、馴れは必要だが、慣れればスピードを感じにくくなるためその分疲れが蓄積しにくくなるメリットを狙った。
実は、速度記録挑戦車の多くが視界を最小限度にしていることにヒントを得ており、嘗て1935年、ブルーバード号で初めて300マイル(483㎞/h)の壁を破った、マルコム・キャンベルが遊びに来ていた時、偶然言質を得る機会があり、そこから得られた情報を応用したのだ。
マルコムも速度記録挑戦のみならずレーサーもしていたので、彼曰く、『レースにそんなに視界はいらねえよ』と。『但し、前方の視界はしっかり確保しておけ、そして、スクリーンは真っ直ぐ見て遠目の位置にしろ』と。
参考としては、視力検査であった。無論、耕平は彼の言わんとしたことが、すぐに分かった。
余談だが、その点フォーミュラーマシンや、オープンタイプスポーツカーは、照準を合わせる基準が事実上ないので、細かな制御には向いている反面、非常に疲れやすい。耕平も一時オープン仕様は検討したのだが、耐久では余計な疲労は命とりになるとして、クローズド仕様を選んだ経緯がある。
尚、耐久に於いてオープン仕様もメリットはあり、まず、事故時の脱出が容易であること。何しろ現在に至るまで、マシンに閉じ込められ命を落としたドライバーは数知れない。
そして、意外に思うかもしれないが、空力設計は寧ろオープンの方が楽だし、剛性も得やすい。市販車は逆なのだが、レーシングカーの場合、上の空間を設計する必要がなくなるためである。空間を最小限度に抑えられる方が、剛性が高く軽量に仕上がるのは、自明の理だ。
頭やロールバーが露出することによる空気抵抗の増加は、意外と問題にならない。F1マシンが桁違いの速さと戦闘力を誇るのはこのためで、配慮する要素が減れば減る程、戦闘力を高めるのが容易になる。
前後は絞り込んでいるが、前は急激に、後は緩やかに。そして、フェンダーは、まるで引き締まったアスリートの太腿を連想させるかの如く大きく盛り上がっているが、これはフェンダー内でダウンフォースを生むことを意図すると同時に、フェンダーにアップフォースを生んで相殺するのが目的であった。
更に、全体のシルエットは古典的なティアドロップスタイルであり、主なダウンフォースはフェンダー内、そして車体下部内部を流れる空気で得るようにしており、アンダーはテールが僅かに跳ね上がっている程度。ティアドロップはアップフォースを生んで、同じく相殺することを意図していたのだが、ダウンフォースが2%程強くなるよう設計していた。耕平もそうだが、仁八も、ダウンフォースはプラス1.02がベストだと主張している。
これが意図していたのは、限りなく静止状態と同じ環境に近づけることで、安定性とハンドリングの高次元での融合であった。何故なら安定性とハンドリングは、静止状態の方が最も良好だからだ。
それを走行時に再現しようというのである。これについては、この年SSDがWMGPで、全戦表彰台独占という、空前絶後の記録を達成したことで証明された。
この時代、既にウイングに近い物や、スポイラーで押さえつけ、安定性及びコーナリング性能を高めようという動きはあったものの、耕平はそれに対し抵抗があった。
その理由は、彼が仁八と同じく東京大学工学部航空科の出身であることと関係がある。学生時代、彼は早くから自動車についても研究しており、そもそも彼が航空科に入学したのは、自動車へ航空技術の応用を試みるのが目的だった。
その過程で、静止状態が最も良好な数値を示すことに気付いたからで、そりゃ当たり前だろと思うかもしれないが、気付くとはそんなものである。
それを応用することを、家業を引き継ぎつつ、密かに研究していたのだ。無論、その成果は友人に提供し、最高の結果へと繋がったことで確信を得た。
あのSSDは、彼にとっても実験台だったのである。だからこそ、敢えて古典的なティアドロップスタイルを選んだのだ。
メカニズムについても、いくつもの改修が行われた。
まず、ステアリングは当時主流だった9時15分及び30分の位置にスポーツがあるタイプではなく、8時20分とした二本スポークとした。この方が切り始めが重く、且つ切り出すと軽いからである。また、ハンドル径は普通車並に大きく取り、ハンドルも当時最も細かったテントウムシことスバル360並の15㎜とし、滑り止めとして米粒状の突起を付け加えた物に変更した。
というより、スポーツの位置を変更しているのを除けば、ほぼスバル360のステアリングと変わらない。設計を追求した偶然の結果だったが、これを設計した百瀬晋六は同学部の先輩であるため、わざわざ許可を得ている。
但し、ハンドル部分は赤、スポークはニッケルメッキが施されており、これは集中力持続対策及び静電対策で、全くの模倣ではない。
これは余談だが、許可を得るため晋六に会った際、自分はルマンプロジェクトに社運を賭けていると打ち明けたところ、許可どころか寧ろ激励してくれた。
更に、必要とあらばデータ提供と引き換えに協力してもよいとまで。実際、エンジン開発に於いて、スバルが後に参加することになるのだが。
また、二人からの要改善点として、シートが挙げられるが、輿の角度が水平且つ背中の角度が75度となるように要請があり、FRPで成形し、且つ主流だった革やバックスキンを張らず、敢えて素地のままとして所謂サンド塗装を施している。その色は、赤であった。
そして、当時としては珍しく四点式シートベルトを装備しており、これは麻と炭素繊維の混紡で、色は黄色であった。尚、シートベルトは自社製作である。四点を締結する回転式バックルは鍛造アルミ製で、これは旧日本軍の飛行服に装着する縛帯がヒントになっている。
シートベルトも彼女たちの要望で、これがあるとマシンコントロールが格段に楽になるからであった。尚、当時はまだシートベルトを装着しないレーサーが圧倒的多数だったのだが、これには理由がある。
そう、当時のレーシングカーは、クラッシュ即炎上であり、迅速に脱出する方が重要だったのだ。しかし、安全性が向上し、且つ性能向上の過程でマシンから投げ出される事故が増加すると、70年代からシートベルト着用の方が主流になっていく。
但し、耐久ではシートベルト着用は、早くから義務となっていた。なので、上述のシートベルトは珍しいという表現はおかしいのではと思う方もいるだろう。当時、日本ではレーシングカーでさえ、シートベルトの重要性が理解されているとは言い難かったのだ。なので国内向けの表現と思ってほしい。
しかし、三年後に開催されるJAFGPではしっかり義務化されていたのだが。
他にも紹介すべき点が多々あるのだが、これは徐々に明らかにしていこう。
「それにしても、プロジェクトから早半年なんだよな。まさかこんなにも早く完成するとは思ってもなかったよ」
「これも加入した二人のお陰じゃないでしょうかねえ。それにしても、巫女さんとはねえ」
感慨に浸る中、ドライバーの二人が巫女という経歴の持主であることには、今尚一抹の不安もないと言えばウソになる。
しかし、耕平は確信していた。あの走りに、耐久レースに必要な資質が全て凝縮されていたし、何より巫女は、意外と度胸の据わっている者が多いことも。
ともあれ、マシンが完成したことで、プロジェクトには一層拍車が掛かることになる……