宍道湖サーキット
二人が加入しておよそ一か月。
この間、所謂裸の状態で、主に宍道湖を周回するコースへ密かに走らせ、テストが行われていた。今では考えられないことだが、この時代、タダでさえクルマが少ない上、山陰はトラックの数も少ないことから、深夜に大っぴらに行われていた。
何より、カミナリ族の騒音には皆慣れていたので、余程のことがない限りは黙認していた、何とも大らかな時代であった。
尚、暴走行為が問題視されるようになるのは、これからおよそ10年後のことであるが、最大の原因は、現在問題となっているアーバンベアの如く、都会で騒音を撒き散らすようになってからである。また、高速道路へ進出したのも問題を深刻化させた。
その上、一般人を意図的に巻き込む犯罪行為も目に余るとなれば、警察による大々的な取締も当然であろう。
決して肯定する訳ではないが、昭和30年代は、そうした戦前からの、ある種の暗黙のマナーやモラルがまだ生きていた時代であった。だからこそ可能だったのである。
話を戻して、所謂裸状態でのテストは比較的順調に進んでいた。因みに、日本のメーカーがまだ本格的なテストコースを持っていなかった時代、そのテストは河川敷か、もしくは公道で極秘に行われることは珍しくなかった。
三次に自動車メーカーとして初の本格的なテストコースが誕生するのは、これよりまだ2年も先だ。それまでは、谷田部がその役目を担っていた。
ルマンプロジェクト発足前から、耕平は宍道湖及隣の中海をテストコースとして使うことを決めていた。その理由は、
『偶然にも、宍道湖の周回道路って、ルマンに似ていると思わないか?』
であった。彼曰く、宍道湖サーキットである。
このことを技術陣に打ち明けると、誰もが唖然としていたという。何てこと考える人なんだと。尤も、彼らも行政や住民からの苦情については何の心配もしてなかった。但し、高度成長期に突入していた当時、山陰も平日はトラックの姿をそれなりに見るため、テストは土曜日の夜のみだった。
また、カミナリ族については、二人からも見られたところで別段問題ないと言われたので、気にしていない。。実は、それなりに飛ばしている彼らが最大の懸念だったのだが、彼女たちがそう言うなら信用することにした。
トラックでスタート地点となる待避所に降ろされた裸状態のマシンは、前後に廃棄されたクルマから部品取りした灯火類を簡易的に取り付けた状態であった。
だが、その構成は一風変わっている。
エントリーするのは所謂に座席スポーツカーであるため、ドライバーが乗り込む左右の区画はバスタブ状のモノコックとし、バックボーンフレームに接続する。素材はアルミハニカムだった。航空機に使われる素材だが、ハニカムコアにダメージが及んだ場合、事実上修理は不可能なため、簡単に交換可能となっている。
モノコックシャシーそのものは既に戦前からあるにはあったが、アルミハニカムを用いたのはこの時点で恐らく世界初であろう。
嘗て航空機産業の下請けもしていた出雲産業にとって、アルミハニカムの製作はそんなに難しいことではなかった。
その前後には同じくアルミハニカムの仕切り板が装着され、強固な構造を形成しているのだが、接合には全てリベットを用いた。こうする方が、修理が容易なのと、剛性を保ちつつバックボーンに蓄積型のダメージが及ばない。実は、蓄積型のダメージは、突如予告もなしに牙を剥くので、非常に恐い。
そのモノコックの前後には、当時主流だったマルチチューブラーフレームが伸びており、これは素材に鍛造アルミを用いた。接合には溶接ではなく構造接着剤を用いている。
実は、出雲産業では工業用接着剤などの消耗品も生産しており、勿論自社製品であった。
後方の仕切り板は燃料タンクを兼ねており、内部にゴム製の袋が搭載されている。エンジン及びスーパーチャージャー、8速プリセレクターミッションが、サブフレーム内に収められていた。
足回りはフロントがダブルウィッシュボーンとコイルスプリングの組み合わせ、リアがマクファーソンストラットとコイルスプリングの組み合わせであった。スプリング/ダンパーユニットをインボードに収容するアイデアもあったが、タイヤハウス内に、敢えて乱気流を起こすことを狙った。その狙いは、後に明らかとなる。
ブレーキは何とドラムで、素材はジュラルミンを切削加工しており、フィンにはクロムメッキが施されていた。何故フィンのみかというと、ジュラルミンは全体にすると過冷却になるからだ。
ディスクブレーキがレースでは主流となりつつあった時代、時代遅れに思われるが、これも耕平の意図が隠されていた。
ホイールはイタリアのマルケジーニ、タイヤはイギリスのダンロップで、レースではバイアススリックの予定だったが、テスト段階ではグルービングを使う。
そして、日本のマシンとしては珍しいことに、ドライバーは左に座る。これも、耕平の深慮遠謀があった。
「今日も路面状態、マシンの調子に問題はなし。にしても、このシフト、思った以上に扱い易いわあ」
今回テストを担当する風也は、そのフィーリングに満足していた。耕平から説明を受けていた通り、事前にシフトを入れ替えるこの方式だと、余裕を以て対処可能な上、チェンジも思った以上に速い。尚、チェンジそのものは左足でクラッチペダルならぬチェンジペダルを踏んで行う。
そして、シフトはシーケンシャル式と言い、前後のみに動く。これが、慣れると感覚だけで操作可能だった。
シフトダウンの時、ダブルアクセルのようにアクセルペダルを煽る動作が必要なのは、これまで乗っていたフェラーリと同様だったが、素早く同調するので格段に楽である。
実は、ここに水平対向、厳密には180度V型6気筒を採用した耕平の意図が隠されていた。
3気筒を二基直結にしているのに等しいV型6気筒だと、偶力がバランスしないのだが、二基直結にして偶力を減じつつ、その偶力を利用することで、シンクロナイザーに頼らずともエンジンとミッションの回転が素早く同調するのだ。
シンクロメッシュを搭載しない農機では当たり前の技術であったが、恐らくレース用マシンにこれを応用するのは、史上初であろう。
また、当時普及しつつあったインジェクションではなく、敢えて3キャブとしていたのも、キャブならではの不規則な燃料供給が齎す偶力振動を、敢えて利用したのである。
そして、キャブの方がドライバーにとって、異変などの兆候が掴みやすいことも耕平は掴んでいた。優秀なスペックより、敢えてドライバーの扱いやすさを優先した設計思想が窺える。
だが、これこそが耐久レースに最も必要なことだと、耕平は確信を抱いていた。
しかし、裸状態だから仕方ないとはいえ、6本のマフラーから発する爆音は、想像を絶していた。にも関わらず、今のところ何処からも苦情は来ていない。ルマンプロジェクトは、既に周辺の知る所であったため、寧ろ誰もが協力的だった。これは、昭和30年代当時だからこそであろう。
山陰発のヒーローを、誰もが応援していたのだ。
やがて、一周して戻ってくると、トラックに載せられ本社へ戻っていくのだが、途上では当然耕平から質問攻めが待ち構える。そして、風也は今回ある不満を口にした。
「ステアリングが重いというか何というか、それだけならまだいいけど、切り始めはともかく、そこからもっと素早く切れないかなあって」
風也が言いたいことはこうだ。
ステアリングを切り始めるのは重くて構わない。尤も、重すぎるのはダメだが。しかし、そこからは素早く切れるように軽くならないかと。
実は、ドリフトをするにあたり、この特性が不可欠なのだ。でなければ、タイムは望めないとは、渦海も主張していたことであった。
何とも細かい注文だが、耕平は一字一句メモに書き留める。それは、全てが貴重なデータに他ならないのである。
まだ細部の改修が残っているとはいえ、ステアリング周りに改良を加えれば、シャシーはほぼ完成であると、確信を抱いていた。
その改良のための設計は、僅か一日で完了し、三日後には早くも改良型ステアリング機構が搭載された。
その内容とは、ラックとピニオンをスパイラルベベルとし、且つ青銅のカウンターウエイトをステアリング周りに追加した。効果は覿面であった。
そして、このマシンに被せるドレスが、陽の目を見ようとしていた。
「社長、いよいよですか」
「そうだな。これを見たら、二人も度肝を抜くだろう。その顔を見るのが楽しみだな」
今だ影のベールに包まれている車体は、僅かに黄金色の輝きを放っていた……