プロローグ
例えばパイやケーキを振舞う時に、大きさを偏らせて切り分けてしまって喧嘩になったことはないだろうか。いや喧嘩、は少し過激すぎるかもしれないけど、気まずかったり、白い目で見られたりしたことがある人なら居ると思う。
とにかくこうなると誰が大きいものと小さいものを取るかで牽制が始まってしまう。これが本当にパイやケーキなら大人の対応をとれるかもしれないけど、富や利権、位階や領土となると、そんな余裕がなくなってしまうのが人間だ。賢いものは取り分を譲って結果的に得をしたり、乱暴者はテーブルごとひっくり返したり、卑怯者が何か劇物を仕込むことがあるけれど、ほとんど誰もが自分が得をするために動くだろう。
俺がいま働いている場所は、そんなものたちが欠片の欠片まで奪い合った後に残った小さなカスだ……って言うと領主様に軽く怒られるだろうな。とにかく、一時は分け合ったもので満足していた奴らはついにそんな小さな領土にまでもフォークを伸ばしてきたのだ。
幸いなのか不幸なのか、四つのフォークは小さなカスの上で同時にぶつかって、勝手に押しあい引き合いを始めた。そのせいで頭上から罵倒や威嚇、皮肉が聞こえてくるが、おかげで猶予ともチャンスとも言えない僅かな間隙も生まれている。
奴らがフォークを突き合わせた勢いで小さなカスを潰さないように、けれど決して一つのフォークに抜け駆けさせないように。俺の仕事は何とかこの間隙を引き延ばしつつ、小さな領土に力を蓄えることだ。
がたん、と馬車が強く揺れる。俺が手慰みに書いた文を眺めていた隣の少女は急な揺れにあわっ!と驚いた後で、手からひらひらと離れていく紙をぐしゃりと掴んだ。恐る恐るこちらに向けられた顔にはあからさまに、しまった、と書かれている。
……別にいいんだ。暇だったから何となく書いただけで、その成果物が少女の小さな手の中でくしゃくしゃに歪められようとも気にはしないさ……。
「あ、あの、ごめんなさい。頂いた紙を軽く丸めてしまいました……」
「大丈夫。自分でもなんかイマイチしっくりこない例えを使ってて、あんまりいい出来じゃなかったし」
半分自虐半分本音を言いつつ、俺は天蓋から外を眺めた。狭い街道から見える光景はかなり牧歌的なものだ。一面の草原に風がさっと吹き抜けると身をくゆらせた草木がさわさわと心地良い音を鳴らし、青空で逞しい翼を羽ばたかせる鳥たちの旅路を邪魔する高い人工物はあたりのどこにもない。遠くから聞こえる魔獣の呻き声は、生存競争に破れた敗者の悲しき生の最期の証だ。
それらは確かに自然の雄大さと残酷さを感じさせる情景だけど、暇な時間のほとんどをこんな光景で明かして来た俺たちに足りないのは強い刺激だ。それこそ魔獣の大群に追いかけられたり、木々を打ち払う大嵐と向かい合ったり、神々の傲慢に刃の光で返答するような――
って行き過ぎた妄想をしてしまうくらい俺たちは暇してる。一時の衝動に中てられて慣れない筆を取ったのも、この暇と言う最大の敵が原因だった。
「それでその……何度も聞いて申し訳ないんですけど、アラーマさんが実質的に治めていると言う領地まではあとどのくらい何でしょうか?」
「さっき、魔術学校に向かうときに見た特徴的な形をした焼け木があったんだ。それからすると」
ごくり、と俺の隣の少女が緊張する様子を見せた。
「……三日くらいかな」
「みぃぃっ!?あ、すみません……」
蝉の断末魔みたいな声を上げた少女の名前はリュッセリンナ・エンスナッツ。俺が少々遠くの国の魔術学校からスカウトした、怪物の卵だ。とある問題を抱えているものの、それさえ修正できればすぐに超一流の魔術師になること請け合いだ。
あぁ、遠くの国ってのは本当に良い。何せ俺が預かる領土と接している四つの国とあまりしがらみがない。わざわざ片道の移動だけで一週間もかかる国を訪れた甲斐があるってもんだ。
そのせいで暇で死にそうな目に遭わせているのは大変申し訳ないのだが。
「あぁ、駄目だぁ……そろそろ苛立ちの地産他消をしたくて堪らなくなってきてます」
「苛立ちの地産他消?それはただの暴力なのでは?」
「ち、違いますよ!毎日最低でも六時間は魔術の訓練をしていたので、こうも訓練できないでいると魔力を持て余してしまうと言いますか……」
「持て余す、ねぇ」
確かに、いつもの習慣が思う通りにこなせないことはストレスになるだろう。馬車の中では緊急時以外に魔術を使うわけにはいかず、彼女が訓練出来るのは休憩時間と夜間がもっぱらで、しかも訓練用の設備はない。エリート中のエリートが集められたかの国の魔術学校の環境と比べれば、いや比べるなよ、と自分自身でツッコミを入れてしまうくらいの雲泥の差で、残念ながらそれは俺が預かる領地に着いても変わらない。
だがこの将来有望な怪物の卵には凪のような退屈が必要だ。何せ魔術学校で初めて会った時の彼女は心体共に見るに堪えないほどボロボロだったのだから。
「ま、かなり退屈な事には全面的に同意だけど、今のうちに休めるだけ休んでおこう。領地に戻ったらとんでもなく忙しくなるからな」
「四つの国から色々せっつかれてるんですよね?私なんかがお役に立てればいいですけど……」
「心配しなくても、君なら出来ると確信したからスカウトさせてもらったんだ。大船に乗らせてくれたまえ」
「私が乗せる側ですか!?出航できるかも分からない非才の身なんですが!?」
「なぁに、少しミスっても四つの国からぶっ潰されるだけだ。気楽に行こう」
「いけないよぉ。気楽ってなんだよぉ。意味わかんないよぉ……!」
「はは……まぁ、大国の勝手に振り回されて滅んだ小国なんて枚挙に暇がない。そうなれば歴史の影として消えて行くだけだ。だが」
だが、そうはさせない。大恩ある領主様のためにも。自分の目的のためにも。
そのための計画の一つに、強力な魔術師は必須だ。いや、強力なだけじゃ足りない。天才、でさえもまだ足りない。それこそ怪物と言われる常軌を逸した類の魔術師が。
俺はこの眼の能力で見極めた怪物の卵の小さな背中が、いつか様々なものを共に背負ってくれるよう努力することを誓うのだった。
血の中に受け継がれてきた恨みは消えることがない。
その土地の領主はそれを体現するかのように、いくつもの激動の中でその小さな土地の独立を周辺国家から保ってきた。特に守りやすい地形と言うわけでもなく。他の国家にない特別な資源に恵まれているわけでもなく。凡人を凌駕する才の頂きに到達した人材が居たわけでもなく。ただ歴代の領主たちは、その土地の独立を守り続けることこそが復讐を結実させるために必要なのだと言う得体の知れない焦燥に駆られて常に全力を尽くしてきた。
かの土地はヴェンデランド。現在、四つの大国と領地を接する希望無き土地である。