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ステラ・マリスに願いを〜ロンドンお別れ屋譚〜

作者: イシクロ

「そんな……アデラ、俺たちあんなに愛し合っていたじゃないか!」


 ロンドンのとある街角でそんな悲鳴が聞こえてきて、道行く人々はそちらを振り返った。


 雪がちらつく寒い年の暮れだ。

 外套に半ば鼻を埋めていた彼らは足をゆるめて、状況を確認した。


 騒ぎはガス灯の下で行われているらしい。

 取り乱しているのは、シルクハットを被った三十歳ほどの男だ。


「もう一度話し合おうアデラ!」


 彼は目の前にいる美しい女性の肩を掴んだ。


 彼女の長い金髪が風でふわりと揺れる。

 その目は、雪曇りのロンドンでは久しく見ない青空の色。きめ細かい肌はガス灯の明かりを反射して輝き、数人が思わず感嘆の息をこぼした。


「やめて」


 綺麗な貴族英語が女性の唇から出た。すがる手を払い、ゆったりとしたコートを着た彼女は自分の金髪を耳にかけた。


「数度デートしたくらいで何を言っているのかしら。あなたとは遊びよ、勘違いしないで」

「アデラ、待ってくれ俺の女神! アデラ!」


 絶望の悲鳴を背に、アデラは振り返りもせずに雑踏の中へ消える。男はがっくりと肩を落として地面に手をついた。


 恋人の別れ話だ。


 それなりに地位のありそうな男を袖にして一切躊躇がない美女に、現場を目撃した市民たちは好奇の目を向けた。


 おそらく男は実業家、そして女は名のあるマダムか大女優か。まぁ珍しい組み合わせではない、この大都市ロンドンではよくある話である。


 打ちひしがれる男から人々は徐々に興味を失い、足早に己の家路に急いだ。




***


 ヒールが手入れのされていない石畳を打つ。後ろから悲痛な叫びが聞こえなくなるまで距離をとって、メイはそっと角を曲がった。


 ロンドンには無数の路地が張り巡らされている。

 ガス灯の明かりも届かない物陰に隠れて、ドキドキする心臓を押さえた。


 男が追ってくる気配はないことにほっとして、かぶっていた鬘を取る。

 ネットでまとめていた髪がほどければ、星のような銀色がメイの背中に落ちた。


「ふぅ……」


 息を吐いたメイはその場にしゃがみこんだ。


(ご、ごめんなさいごめんなさいぃ……!)


 ガタガタ震えて手を組む。


(すみません、私なんぞがフッて……っ)

「お疲れ。いい演技だったよ」

 そこで、路地の奥から声をかけられた。


 近づいてきたのは金髪の青年だ。年は二十半ば。優しい緑の目にスッと通った鼻筋、薄い唇をした彼はとても整った顔立ちをしている。

 きっちり正装を着こなした彼の姿を見れば、貴族と言って誰も疑わないだろう。


 人当たりのよさそうな表情を浮かべている彼を見て、メイは縮こまりながら聞いた。


「これでいいんだよね、ギルバートさん」

「ああ。あとは神のみぞ知るってやつだ」


 満足そうにうなずく彼――ギルバートに鬘とコートを渡すと、代わりに地味なショールを渡された。


「君の演技の結果、見に行ってみる?」


 ギルバートの言葉に少し考えて、メイはうなずいた。



 雪はいつの間にか止んでいた。うつむき加減で歩く人の中を、ギルバートはしなやかな獣のように進む。

 その少し後ろについて、先ほどのガス灯の近くまで戻った。


 そこには、涙で顔をぐしゃぐしゃにした男と――彼の背中に手を置く一人の女性の姿があった。


「『まぁ、ビリーどうしたのこんなところで』『ああセレン……今、僕は手ひどい失恋をしてね』『私でよかったら話を聞くわよ』」


 ギルバートが芝居がかった口調で話す視線の先で、男が女性に支えられてふらふらと立ち上がる。

 気の毒そうな表情を浮かべた女性が、すぐそこにあるパブを示した。


「『そんな人忘れてしまいなさい、あなたならもっといい相手が見つかるわ』『ああセレン、君はやはりなんて優しいんだ』」


 二人の姿が扉の向こうに見えなくなる。


「『君の魅力に気づかなかった僕が馬鹿だったよ!』」


 すでに姿はないというのにギルバートはわざとらしい演技をやめない。メイが睨むと彼はようやく声真似をやめた。


「そして元恋人の二人は再び相思相愛に。めでたしめでたし」

「……なのかなぁ?」

「まぁ今回の依頼人は、その上で浮気をしまくったビリーをこっぴどくフリたいと言ってたけど」


 なんだその複雑な恋模様は。


 『アデル』という架空の女性になりきり、メイは偶然を装って知り合ったビリーに好意を向けさせ振った。

 その傷心を慰めるのは、そう仕向けるようギルバートに依頼してきた女性。


 そう、すべては依頼人が意中の相手を手に入れるために仕組まれたもの。

 これがメイたち『お別れ屋』の仕事だ。


「おや信じてない? 人の心を操るのに長けた、この天才元詐欺師の言葉を」

「……元詐欺師だから胡散臭いのですけど」

「現詐欺師よりマシでしょ」


 ギルバートはあっさりと言う。

 それはそうだ。そして詐欺師を名乗っているのだから、メイが警戒するのも当たり前である。


「これは詐欺じゃないのよね?」

「ああ。何度も言うけど詐欺というのは相手を騙してお金を巻き上げることだよ。依頼人は正式な手続きの上、納得済みでお金を支払っている。今回の対価は」


 ギルバートが綺麗な顔で微笑んだ。


「自分が手に入れたいと思う相手」


 そこにビリーの意思は入らないのだろうか。

 それとも作為的なものが絡むとはいえ、人間関係とはそうやって作られていくものなのか。


「じゃあ、今回の成功報酬」


 そんな葛藤を見てとったのか、ギルバートがメイの手に硬貨の音がする袋を乗せる。


 ロンドンの下町で身を売った場合の数倍。

 給仕で働く時の十数倍。

 女優で舞台に出るときの数十倍の額を。


 メイの夢のために、どうしても必要なもの。


「次の仕事まではゆっくりして」


 元詐欺師らしく、ギルバートはいい笑顔でメイの頭を撫でた。


 この英国紳士を絵に描いたような男なら結婚詐欺に事業詐欺に、獲物はほいほい釣れただろう。

 メイはその様子がありありと目に浮かんだ。





 田舎の孤児院で育ったメイが大都市ロンドンにやってきたのは五年前、十四歳のときだ。

 理由はひとつ。ここで役者として身を立てるためである。


 華やかな装置、着飾る役者たち、大勢で作り上げる夢のような舞台。小さい頃、ロンドンからやってきた興行一座の劇を見てからずっと憧れていたもの。


 舞台の上に立つ役者は王様や騎士や姫そのもので、皆きらきらと輝いていた。


 彼らが去った後も村の人たちはことあるごとにそのときの話をした。

 こんなふうに人の心に残る劇はなんてすごいものだろう。自分も……と思ったのは自然の流れだったかもしれない。


 毎日歌や踊りを練習し、農作業に子守りになんでもやってようやく貯めたお金でロンドンにやってきた。

 メイの働きぶりに領主が紹介状を書いてくれて、意気揚々と劇団のドアを叩いたものの。


 ――ここは田舎娘がくるところじゃないわよ?


 そこは、美しい女優たちがたった一つの主役の座を競う熾烈な場所だった。


 小領主の招待状はもちろん意味を持たず、やせっぽちの、平凡な顔立ちの、みすぼらしいメイは下働き兼役者見習いとして、座の末席に加わった。


 それで構わなかった。

 舞台のそばで、皆の演技を見るだけで幸せで、下働きをなんでもやった。


 寝る間を惜しんで練習してようやく舞台に立てたときの感動は忘れられない。まばゆいスポットライトと木でできた舞台、劇の仲間、そしてこちらを見る観客。……あまりにも嬉しくてはしゃいでしまい、主役には「やりすぎ」と怒られたけれど。


 劇団の給料は暮らしていくには足りなくていつもお腹を空かせていたが、演じているときは自由になれた。


 ここにいるのはメイではなく英雄がいる国の町娘で、領主の屋敷の召使で、古城の幽霊。


 そんなふうに舞台で演じているときにやけに目につく客がいた。

 右端の一番後ろの席にいつも座っている男だ。

 顔の見えない薄暗い劇場の中でも、彼の鋭い視線が突き刺さった。


 だがファンではない。メイは誰からもファンと言われたことはないから。






 ロンドンの一角、高級店が軒を連ねる通りにある小さなカフェ。そこがギルバートの事務所だ。


「これ、二番テーブルに」

「はい!」


 ギルバートから紅茶を受け取って、メイはそれを煙草を片手に新聞を読んでいる紳士のところに持っていく。


 店は十人ほどしか入れないが静かで落ち着いた雰囲気をしている。

 美味しい紅茶と話術のうまいオーナー(ギルバート)の手腕により固定客も多い。


 ここで、メイは給仕の仕事をしていた。

 制服は足元までの長さの黒いスカートに白いエプロン、頭には白いひらひらしたブリムをつけている。

 貴族のメイドの服で正直恥ずかしいが、給金がいいから文句は言えない。


 カラン、とドアベルが鳴って新しい客が入ってきた。髪に白いものが混ざる彼はきょろきょろと落ち着かなさそうに店内を見回して、カウンターにいるギルバートに近づいた。


「あの、……これの噂を聞いてきたのですが」


 そう言って彼はおずおずとマッチ箱をさしだした。


 それがお別れ屋の依頼の合図だ。

 ギルバートはマッチ箱を受け取り、中を確認してそれを男性に返した。メイはテーブルを拭きながらそっと耳をそばだてた。


「……妻が浮気をしているようなのです」


 困り切った表情の依頼人曰く。奥様が最近何も言わずに外出することが多く、後をつけてみると男と会っていたというのだ。


「それだけで浮気と疑うわけにもいかないのでは?」


 紳士らしい仕草でギルバートは首を傾げた。メイからすれば少しわざとらしく見えるほど、自然に。


「いえ、そいつは妻が結婚する前に付き合っていた相手なのです。縁は切ったと言っていたのに、隠れて会っていたなんて……子どももまだ幼いのに」

「わかりました。奥で詳しく聞かせてください。メイ、後はよろしく」


 カフェの奥には密談用の部屋がある。そこにギルバートは依頼人を招いた。


 店の中で客が思い思いにまったりしているのを見て、紅茶を淹れて奥の部屋に持っていけばすでに商談が始まっていた。


「基本料金でこちら。その他、必要経費は別でいただきます」


 メイからすると目玉が飛び出るほどの大金だ。怯んでいる依頼人にギルバートは言う。


「必ず、お客様の願い通りになりますよ」

「……頼む」


 揺るぎない彼の言葉に依頼人がうなずく。なるほどこれが詐欺師の手口か。

 紅茶と軽食を出して店に戻った。二人が出てきたのは一時間ほどしてから。


「ではまた、ご連絡させていただきます」


 何度も頭を下げる依頼人の気弱そうな背中を見送る。メイはカウンターに戻ったギルバートに話しかけた。


「今回は私の出番はなさそう?」

「そうだね。このイケメンギルバートさんの雄姿をしっかり見ておきなさい」


 胡散臭い元詐欺師はそう言って笑った。

 そして翌日。


「こんな綺麗な女性と知り合えるなんて、僕は幸せ者だ」


 キラキラ輝く笑顔でギルバートは依頼人の妻とカフェにいた。


 お別れ屋の仕事はある意味単純だ。ターゲットの行動範囲や好みを把握したうえで偶然を装って出会う。できればロマンチックなほうがいいとはギルバートの談だが。


 ギルバートは依頼人の妻が参加するパーティで、ハンカチをわざと落として拾わせて、そこからお礼にとカフェに誘ったのである。


 そこからがまた早かった。

 目論見通り、ギルバートに恋をしたターゲットが不倫相手に別れを告げたのはわずか二週間後のこと。


「ごめんなさい、あなたにもう魅力を感じないの……」


 結婚前からの仲だったという男性と完全に縁が切れたのを確認して、依頼人に報告する。

 ギルバートを新しい恋人と思って燃え上がっているターゲットとは、しばらく今まで通り連絡をとるが徐々に忙しさを理由に会う機会を減らし、最終的に自然消滅させた。


 その一部始終を、メイは助手として見届けた。


(ギルバートさんを見ていると、役者としての自分が揺らぐ!)

「――というかどうしていつもそんなに早いの!」


 依頼を受けてから一か月かかっていない。メイがターゲットと恋人の雰囲気になるのはこの倍はかかるというのに。


「それはまぁ、大人のテクニックです」

「ま、ままままさか身体の関係を……」


 訴えられたときの酌量が違うから絶対にするなとメイには言っておいて。


「まさか。まぁ君にはまだ早いかなぁ」


 カフェでそんな話をしていると件の依頼人がやってきた。前と違って上機嫌だ。


「ありがとうございます! アドバイス通り、落ち込む妻に何も言わず寄り添っています」

「頑張ってください。……ちなみに奥様が贈られて嬉しいものは……」


 ひそひそとアドバイスをするギルバートを見て息を吐いた。

 演じるのは楽しい。けれどこの仕事は人の好意を元に成り立っているものだ。夢のためとはいえ……。


(……こんなこと、続けていていいのかな)


 そんな考えが頭をよぎる。

 けれど、所属していた劇団はしばらく前に解散になっていた。それでなくても、戻る気は無かったけれど。

 いくつかオーディションを受けてみたが、端役しか経歴がなくて書類で軒並み落ちている。


 カラン。軽やかなベルの音がしたのはその時。


 店に入ってきたのは一人の女性だった。厚手のコートを着た彼女が不安そうにきょろきょろと店内を見る。


「あの……お願いがありまして」


 そっとポケットからマッチ箱を取り出したのを見て、お別れ屋の依頼と知る。


 ギルバートにマッチ箱の中を見せた彼女がそっとカウンターに置いたのは一枚の写真だ。

 目の前の女性と、杖をついた少年、そして軍服を着た老人が一緒に写っている。


「私の弟です。こちらは祖父で」


 彼女の祖父は両親が亡くなった姉弟を男手一つで育ててくれたという。

 弟は生まれつき足が悪く、歩行には杖が必要だった。


 心根の優しい少年で、家族を何よりも大事にしていた彼が、数か月前、事故で亡くなった。それからというもの祖父はふさぎこんで、ベッドから起き上がれない日が続いている。


「あまりに急なことで弟にお別れも言えなかったことを祖父は悔いています。このまま、彼も天国に行ってしまわないかと心配で……」


 女性の声に嗚咽が混じった。


「……お別れ、させてあげられませんか」

「どうする?」


 ギルバートがメイに問う。

 今までのような人を恋に誘う誰かではなく、弟になりきってさよならを告げる仕事だ。


「もちろん、する」


 答えれば嬉しそうに彼が笑った。そして写真に涙をこぼす女性の手をとった。

 はっとして顔を上げた彼女にギルバートはいつものように告げた。


「必ずお客様の願い通りになりますよ」


 



 後日、メイは女性の家を訪ねた。


「弟さんの部屋を見せていただけますか」


 今まではギルバートが事前に用意した資料で役をつくっていたけれど、今回は自分で仕込みもさせてほしいとお願いしたのだ。


 祖父は三階の自室で寝ているという。

 彼に見つからないように、二階にある亡くなった依頼人の弟の部屋に入る。


 事故のあった日から整理はしていないという部屋には本がたくさん並んでいた。医学の本も多い。


(学生だったんだよね)


 自分はギルバートのように器用ではない。ひとつひとつ、目で見て感じて考えて、その人物になりきるのだ。

 部屋の壁紙がうすくなったところに手を置く。


(……あなたはどんな人?)


 ここで過ごしていた人物を想像する。


 窓から入ってくるのはロンドンの喧噪、隣家のバイオリン、そして姉が家事をする音。

 退役軍人だという祖父の家は三階建ての立派なところだ。ここで家族はどう暮らしたのだろう。


 学校までの道のりも歩いてみる。杖をついているならロンドンの石畳は大変だっただろう。

 そして事故の現場にやってきた。そこにはたくさんの花が置かれていて、今しも一人の学生が花を手向けた。


(とても、愛されていた人だったんだな)


 メイも近くの花屋で花束を買い、供えた。




 作戦は夜に行われることになった。必要なものをギルバートに伝えて、すでに準備してもらっている。依頼人の家につく時にはすでにメイは変装を終えていた。

 ドアを開けた依頼人がメイを見て息を呑む。


「姉さん?」

「っ、アレン、え、まさか、生き返っ」


 たくさんの写真を見て練習した笑顔を向けると依頼人がおろおろと周りを見た。


「入るよ」


 杖をついて中に入る。杖は室内では使いづらい。壁に手をついて歩く。


「その歩き方、……どうして」


 そこで手を離して依頼人と向き合った。


「似ていますか?」

「……とても」

「ならよかった。作戦のときは窓から入るので、おじいさんが寝たら合図をお願いします」


 それだけ伝えて庭に移動する。

 今回は助手役のギルバートも、準備を整えて待っていた。


「……本当、なんでも化けるんだな」


 化粧と鬘で弟の姿になったメイに彼が言う。


「ギルバートさんもできるんじゃない?」

「ものには限度がある」


 なぜかため息をつかれた。


 窓から合図のランプが揺れるのが見えたのはしばらくしてから。お願いして窓は開けてもらっているので、そこから侵入する予定だ。壁に梯子を立てかけ、踏板に足を乗せるとギルバートが顔を顰めた。


「……ドアから入ればいいじゃないか」

「ロマンは大事って、いつも自分で言っているじゃない」

「そうだよ、そうだけど落ちるなよ」


 こういうときのギルバートは妙に過保護だ。

 舞台では軽業のようなこともしていたから梯子を登るくらいわけはない。開いた窓から中をのぞくと、ベッドには静かに老人が眠っていた。


 窓枠に腰かけて想像する。ここにいるのは彼の孫のアレンだ。優しい祖父が自分を想って体調を崩している。幼い頃に両親を亡くした自分を姉とともに育ててくれた大事な人。

 アレンはどんな気持ちで、どんな声色でどんなことを話すだろうか。


「……おじいちゃん」


 静かにこぼれた声に、祖父が目を開けた。こちらを見た彼がはっと起き上がる。そのとき、偶然吹き込んだ風が薄いカーテンを揺らした。顔の前にかかるレース越しに祖父と視線を合わせた。


「アレン、アレンなのか!」

「お礼も言えないままでごめん。おじいちゃんと、……姉さんと暮らした日々はとても楽しかった」


 ドアの向こうで気配が揺れた。


「医者になって同じ病気の子を治したかったけど、仕方ないね。いつまでも二人を見守ってるから、ちゃんとご飯も食べて」


 きっと彼ならそう言う。


「ああ、……わかった」

「じゃあ」


 また一際強い風が吹く。そこでためらいなく、メイは外に飛び出した。


「アレン!」


 ベッドからなんとか這い出ようとする祖父を、ドアの外にいた依頼人が止めてくれる。予定通りだ。


(ありがとう姉さん)

 彼らの姿が見えなくなったところで――我に返った。

(わぁああっ)

 普通に三階から落ちている。

 浮遊感に青ざめ、流れていく景色の中でふと、半年前のことがメイの脳裏を過ぎった。



『君を次の舞台で準主役にしてやろう』


 そう劇団のオーナーに言われたのは、メイがロンドンで女優としての下積みをして四年ほどが経ったところだった。


『本当ですか!?』

 飛び上がるような心地だった。今までの努力が認めてもらえたのだ。


『――その代わり、……わかっているね?』

 そんな声とともにオーナーに手を取られた。

 ソファに押し倒されて彼が上にのしかかったところで、ようやく状況を理解する。


 役が欲しければ、彼に抱かれろというのだ。


 ブラウスのボタンを外されたところで、咄嗟に拳でオーナーを殴って外に飛び出した。誰かにぶつかった気がしたが気にせず、裏口から出て大道具の横でうずくまる。


『……っ』

 何が起きたかわからなかった。なのに涙がこぼれて、震えが止まらなかった。

(……あ、謝らないと……! すぐに)


 このままだと折角の役の話はなくなるどころか、劇団からも追い出されるかもしれない。孤児院にももう戻れない。


 舞台に立てない人生に何の価値もない。

 役のためにパトロンに抱かれるなんてよく聞く話なのに、男の荒い息とのしかかった重みに怯える身体はなかなか動いてくれなかった。


(大丈夫、少し我慢すれば舞台に立て……)

『君』


 そのとき、大道具越しに声をかけられた。

 よく響く艶のある堂々とした声。メイを見る視線で、彼が右端の一番奥にいた観客だと悟る。


『こんな潰れそうな劇団じゃなく、お別れ屋の俺と手を組まないか』


 明るい陽の下で惚れ惚れするほど紳士然とした彼が、爽やかな笑顔をこちらに向けた。


『君の舞台は、このロンドン全部だ』



「メイ!」

 地面に叩きつけられる直前で、力強い腕に受け止められた。

 見上げれば青ざめたギルバートがいて、彼はすばやく梯子を蹴飛ばして、メイを抱えたまま茂みに身を隠した。


 すぐに窓からアレンの祖父が持つランプが周りを照らす。

 地面に倒れた梯子までは見えないようで、アレンを呼ぶ彼を依頼人がなだめ、窓が閉まるのを見届けた。


 演じるしか能のない自分が、誰かを幸せにできただろうか。そうなればいいなと思って、息を吐く。


「よかった……」

「よくない」


 後ろからメイを抱いたギルバートが不機嫌そうな声で言った。


「いつもの『やりすぎ』だ!」

「ごめんなさい!」

「役に夢中で着地も考えず落ちてくるなんて……」


 ギルバートにそのまま抱きしめられる。


「え、えっと、ギルバートさん……?」


 無言のまま腕に力が入って、苦しい。

 けれど、もがいても彼はなかなか離してくれなかった。ギルバートの爽やかな香水の匂いが近くて、心臓がやけに早く鼓動している。


(……ギルバートさんに聞こえませんように!)


 相手は元詐欺師だ。

 隙を見せて、騙されては堪らない。

 

 劇団をやめて半年。

 ギルバートの予言通り、あの劇団はメイが辞めた後すぐ、オーナーの不祥事が明るみになり解散になっていた。劇場は誰かが買い取ったらしいが、今のところ次の演目が上演される気配はない。


 ギルバートのお別れ屋の誘いに乗った理由はただ一つ。


 誰に遠慮することなく思う存分演じるためにあの劇場を買うのだ。

 一生かかってでも。







***


 没落した貴族の子として生まれたギルバートは、生まれた時から人目を惹き、何もしなくても周りに人が集まった。


 騙されて金を失った両親のためにその相手を騙し返したのが、詐欺師としての初めての仕事だ。


 実家はなんとか持ち直したが法に触れた自分が戻るわけにもいかず、弟に跡を継がせて己の才覚のみで生計を立てることを決意する。


 詐欺業を生業にしたのは単純にそれが得意だったから。甘い声で女性を誘い、女性を使って男を騙す。捕まって殴られたことは数知れず、頭に銃を突きつけられて殺されかけたこともある。


 その劇場を訪れたのは偶然だった。


 次の仕事まで時間が空いたので、近くにあるその劇場で適当に時間を潰そうと思ったのだ。


 だが劇が始まってすぐ、彼は端にいる役者の一人に目を奪われた。


 銀の髪をした、決して派手な顔立ちではない少女。けれど誰よりも目がきらきら輝いていて、そして誰よりも『役者』だった。


 その姿から目を離せないまま気づけば劇が終わり、ぼうっとしていて打ち合わせに遅れその案件は流れた。

 それからギルバートは劇場に通い詰める。


 役者の名前はメイ。春の女神のそれを冠する名にふさわしく、踊れば軽業師より身軽に、歌は客を――ギルバートを魅了した。


 恋人役の相手と話すときには、劇とわかっていながら嫉妬した。彼女目当ての客は日々増えていたが、看板女優が手を回してメイに会うことは許可されなかった。

 それでも話してみたくてこっそり楽屋に忍び込んだことがある。


 そこで「役者をやめな」「才能がない」と看板女優がメイに言い寄っているのを見た。

 叱咤が終わると、「ご指導ありがとうございました!」と言って彼女は下働きの仕事につく。舞台上ではないメイは拍子抜けするほど普通な、そして演技しか考えていない子だった。


 後ろ立てのないメイには、どんなに努力しようといい役はこない。

 だがもし、存分に役を演じる彼女を一番そばで見られたらどれだけ幸せだろう、そんな想像をした。


 光を浴びて輝く彼女をもっと見たい。けれどギルバートはあいにく劇場を持っていない。

 そこで伝手を使って、劇団オーナーの醜聞を調べて劇場の買い取りの手はずを整えた。最後通告をしようとするところで、オーナーの部屋で襲われている彼女の声を聞く。


 飛び込もうとしたところで、メイはオーナーを殴って飛び出した。その後を追って、大道具の裏で震えている彼女を見て思った。


 小さな劇場を買い取って、ここで思う存分演じさせて自分はそれで満足だろうか。


(いや)


 彼女は、もっと広い舞台がふさわしい。例えばそう、このロンドンすべてとか。






「ギルバートさん、聞いてる?」


 メイに話しかけられて、はっと我に返る。


 目の前にはメイド姿のメイがいた。場所は一等地に構えた己の所有するカフェ。

 彼女の黒いロングスカートが動くたびに軽やかに翻り、珍しい銀髪が揺れる。その綺麗な青い目がギルバートに向けられた。


(……メイは今日も尊いな!)


 推しにバレないようにカウンターの下で拳を握る。そして何食わぬ顔で返事を返した。


「どうかした?」

「これ、新聞!」


 メイから差し出されたそれには先日彼女が演じたアレンの祖父の話が乗っていた。

 資産家の元大佐が病から回復し、身体の不自由な子のためのチャリティーをすると書いてあった。


「私もよかったらって誘われたんです」


 メイに見惚れている間に来店したのか、カウンターに先日の依頼人がいた。


「祖父もすっかり元気になって。でもびっくりしました、弟が本当にそこにいるみたいで……私も、弟とお別れできた気がします」


 メイの演技のたまものだ。嬉しくて無言で紅茶を差しだすと依頼人がギルバートを見た。


「これ、どういう意味かずっと考えていたのですけど」


 依頼人がマッチ箱を取り出す。お別れ屋の秘密の合図だ。

 空っぽの中箱のところにある暗号を書くのが決まり。


 Stella Maris――ステラ・マリス、と。


 ラテン語のそれを直訳すると『星の海』だが、聖母マリアの古い別名。そして春の女神Mayの語源のひとつ。


「メイさんの宣伝ですね」

「彼女に罪を着せて逃げる気かもよ」


 言うと聡い依頼人は笑った。


「ロンドン一の役者のメイさんが舞台に立つときは、祖父も連れて必ず行きます」

「お待ちしています」


 掃除をしていたメイがこちらに来る。


「ギルバートさん、依頼の人が!」


 次はどんな依頼が来るだろう。メイはどんな演技を見せてくれるのか、この特等席は誰にも譲る気はない。







―終わり―



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