93.闇の神の力
「ぐ、ぐううう……! 貴様ら……! 俺を舐めるなああああ!!!」
さっきまで余裕を見せていた男は、豹変した。体から、禍々しい黒いオーラが立ち込める。オシアーナの【束縛】の鎖は、音を立てて崩れ落ちた。
「ほう、なかなかやるじゃないか。だが、覚悟はいいか? この先、お前を待つのは、想像を絶する苦痛だぞ」
オシアーナは、男の姿を一瞥し、わずかに頷いた。
「な、なぜ貴様に……! これは、我らが御主人様から賜った、神の力だ! 俺はこの力を得るために、あらゆる苦痛を乗り越えてきたのだ!」
男は、狂ったように叫びながら、変貌していく。本来は人間に近い姿をしていたはずの体が、異様なまでに膨れ上がり、巨大な球体と化したかと思うと、今度は逆に収縮し、自身の体ほどの大きさの鋭い爪へと変貌した。
「これが……闇の神の力……! なんという力だ……!」
男の声は、もはや人間のものとは思えない獣のような咆哮へと変わっていた。吸血鬼と怪物、その両方の要素が混ざり合ったような異形と化していく様は、まさに恐怖だった。しかも、その変化はとどまることを知らず、数秒後には、別の場所が膨らみ始めた。
その光景に、聖女は顔面蒼白になった。もし、このまま奴が巨大化し続ければ、この狭い下水道には到底収まりきらない。そうなれば、地上での戦闘は避けられない。市民たちに、怪物が侵入したことを知られてしまえば、教会の権威は地に落ちてしまうだろう。
しかし、オシアーナは落ち着いていた。彼女は、変貌を続ける男の姿を見ながら、静かに祈りを捧げている。
「え、あの……オシアーナ様? なぜ、こんな時に祈りを……?」
オシアーナの行動に、聖女はますます混乱する。祈りは、通常、自分ではどうにもならない事態に直面した時、あるいは、神の導きを求める時に行うものだ。今の状況で祈りを捧げるということは……。
「お願い……どうか、ライトがこんな姿になりませんように……」
「え……?」
オシアーナによると、ライトもまた、闇の神の力を使えるという。つまり、目の前の怪物と同じ力を持っているということだ。
だとすれば、彼もいずれ、この怪物のように……。オシアーナは、愛する人の未来に、言い知れぬ不安を覚えていたのだ。
「……でも、もしも、ライトがこんな姿になっても……私は、彼を受け入れる……」
オシアーナは、独り言のように呟いた。
「あの……オシアーナ様!? そろそろ、何かしないと、まずいんじゃ……」
二人が話している間にも、男の体は進化を続けていた。二本目の腕が生え、まるで巨大なゴリラのような姿になっている。
「ああもう、仕方ないわね……! 【束縛】!」
オシアーナは、先ほどと同じように、杖を使うことなく鎖を放つ。しかし、鎖は男の腕に絡みつくことすらできず、いとも簡単に弾き飛ばされてしまった。
「……思ったより、進化してるみたいね……」
オシアーナは、驚きを見せることなく、今度は傍らに置いてあった杖を手に取った。
「【束縛】」
「無駄だ、無駄だと言っているだろう!! この俺には、そんな低レベルな魔法はもはや通用せん!!」
「そうかな?」
オシアーナの周囲に、再び鎖が出現する。先ほどと同じように見えるが、男の腕に絡みついた瞬間、異変が起きた。
男の動きが、完全に停止したのだ。しかも、進化の途中だった体までもが、変化を止めている。
「な、な、なんだこれはぁぁぁ!!!」
男は、恐怖に歪んだ顔で叫ぶ。【束縛】は、基本的な魔法の中でも強力な部類に入る魔法だが、所詮は基本魔法だ。種族や魔力の強さによって、その効果は大きく変わる。例えば、人間が使えば、せいぜい相手を数秒間拘束するのが関の山だ。吸血鬼であれば、複数の相手を同時に拘束したり、魔力を通すことで、より強力な拘束力を発揮したりすることもできる。
しかし、今の状況は、明らかに異常だった。
闇の神の力を得た自分が、こんな簡単に拘束されてしまうこと自体が信じられない。それ以上に恐ろしいのは、進化が止まってしまったことだ。まるで、時間が止まったかのように。
そして、この異常事態を引き起こした張本人であるオシアーナは、楽しそうに、どこからともなく取り出した本を捲っていた。
「な、なぜだ……! どうやってこんなことを……!!」
「簡単よ。あなたより、ちょっとだけ、魔法の才能があっただけのこと」
オシアーナは、ゆっくりと本を閉じ、異次元ポケットへとしまった。
「【束縛】は、確かに多くの者が使う魔法よ。でも、魔法は、元を辿れば神々が作ったもの。種族によって、その理解度には、大きな差があるの」
オシアーナは、少し息を切らしながら、言葉を続けた。
「つまり、私の魔法の方が、あなたの魔法よりも、ほんの少しだけ、優れている。それだけのことよ」
「ば、馬鹿な……! 我々吸血鬼の魔法は、あらゆる種族の中で、最も強力なはず……! なのに、なぜ……!」
男は、認めたくない現実を突きつけられ、絶叫する。
確かに、この世界では、ドラゴンは最強の肉体を、吸血鬼は最強の魔力を、ドワーフは最強の技術力を持つと言われている。それは紛れもない事実だ。
しかし、世界は広い。
「ええ、あなたの言っていることは、正しいわ。でも、それは、あなたの知っている世界が、狭いだけのこと」
オシアーナは、冷酷なまでに淡々と告げた。
「どういうことだ……まさか、貴様……!」
男は、恐怖に震えることしかできない。オシアーナは、これ以上、言葉を交わすのは無駄だと判断したようだ。再び杖を構え、とどめを刺そうとしている。
その瞬間、男は、幼い頃に聞いたある伝説を思い出していた。それは、はるか昔、神々が地上を支配していた時代から語り継がれる、神話……。
「あ、ああああああ!! そ、そんな……まさか、貴様は……深海の……!」
何かを言いかけた男だったが、オシアーナは容赦なく、氷属性の魔法を放った。
全身を凍てつくような冷気が包み込み、自分の身に何が起きているのかを理解した時、男は、もはや抵抗する気力すら失っていた。ただ、幼い頃に聞いた言葉を、頭の中で反芻していた。
(深海に住まう種族……神々に追放された民……その力は計り知れない……決して敵対してはならない……!)




