91.現実は、非情だった
「卑怯者! いつまで逃げ回るつもりだ!!」
「追って来なきゃ、逃げない! そっちこそ、その魔法を解除してから言え!」
俺を追いかけてくる吸血鬼は、完全に逆上していた。まあ、無理もないだろう。相手が悪かったと諦めてもらうしかない。
こいつと真っ向からぶつかっていては、勝ち目はない。だから、俺は、時間稼ぎをすることにしたのだ。奴は、「霊子崩壊刃」の攻撃を受けている。このまま時間さえ稼げれば、いずれは倒せるはずだ。それに、オシアーナたちも、もうすぐ到着するだろう。もう、隠れている必要もない。ここは、一気に攻勢に出るべきだ。
……まあ、今の俺には、そんな余裕はなかったのだが。
吸血鬼は、想像以上に手強い相手だった。驚異的な再生能力はもちろんだが、他の種族なら、とっくに塵になっていてもおかしくないほどの攻撃を受けても、まだピンピンしている。それどころか、大型魔法まで撃ってくる始末だ。奴を倒すには、まだ時間がかかりそうだ。
一番厄介なのは、奴らの特殊能力だ。
吸血鬼は、血を操ることができる。それも、自分の血だけでなく、他人の血まで操ることができるのだ。つまり、奴らに接近を許せば、文字通り、血を抜かれてしまう。どんなに強い相手でも、血を抜かれてしまえば、それまでだ。
それに、血を自在に操り、様々な武器を作り出すこともできる。たとえ破壊されても、何度でも再生するのだ。さらに、血を使った魔法陣で、相手の血液を凝固させたり、沸騰させたりすることもできる。その上、奴らは、闇の力まで使ってくる。こんな連中とまともに戦えるわけがない。
だから、俺は、事前にティファニーに、避難経路を確保させておいたのだ。この下水道で、まともに戦えるのは、俺とオシアーナ、そして聖女様くらいだろう。他のメンバーには、あくまで、サポートに徹してもらうつもりだった。
奴は、俺が進む先へと、またしても魔法陣を展開した。見ただけでわかる。あれは、危険だ。俺は、とっさに右へ進路を変えると、懐から小さな球を取り出し、地面に投げつけた。
球は、地面に落ちると同時に、大量の煙を噴き出した。奴は、不意を突かれたようで、煙を吸い込んでしまい、激しく咳き込んでいる。その隙に、俺は、さらに距離を離した。
「ごほっ、ごほっ……! 貴様……覚えていろ……!」
背後から、怒りに満ちた声が聞こえてきた。だが、今の俺には、そんな脅しは効かない。
一見、俺が優勢に見えるかもしれないが、実際は、かなり厳しい状況だった。俺は、時間稼ぎをしている。奴を、疲弊死させるために。
しかし、時間稼ぎをしているのは、俺だけではない。奴もまた、時間を稼いでいるのだ。
ここは、奴らの本拠地である下水道だ。しかも、辺りは、闇に包まれている。そんな場所で、本気を出すまでもなく、人間一人を捕まえられないはずがない。俺は、自分の逃走術には、それなりに自信がある。だが、それでも、だ。明らかに、奴は、手を抜いている。俺を捕まえる気など、さらさらないのだ。ただ、時間を稼いでいるだけ。
奴が、何を考えているのかはわからない。だが、ろくなことを考えているとは思えない。肝心の黒幕は、まだ姿を現さない。奴の行動は、黒幕の時間を稼ぐためのものかもしれない。そう考えると、奴は、自分が囮だとわかっていながら、ここまで冷静に立ち回っていることになる。
「オシアーナ、聞こえるか? そっちは、黒幕の居場所を探してくれ。合流地点は、この先の三叉路だ……危ねえ!!」
俺は、脳内でオシアーナに話しかけた。下水道に入る前、俺たちは、連絡手段について話し合っていた。
彼女によると、ある秘術を使うことで、お互いの意識を共有することができるらしい。
ただし、その秘術には、副作用がある。それは、お互いの思考が、全て筒抜けになってしまうことだ。つまり、プライバシーは、全くないに等しい。
まあ、俺は、特に抵抗はなかった。そもそも、彼女が、俺の過去を詮索するような真似をするとは思えないし、こんな状況で、そんなことを気にしてる場合でもない。
「わかったわ。あなたは、大丈夫?」
「ああ、なんとかやってる。だが、これ以上長引くと、まずいかもしれない。そっちの調査が終わったら、すぐに合流してくれ。……それと、聖女様に、この下水道を、燃やすことはできないか、聞いてみてくれ」
「それは、ちょっと難しいと思うけど……。とりあえず、聞いてみるわ」
オシアーナとの通信が途絶えた。彼女が今、どこにいるのかはわからない。不用意に動いて、敵をおびき寄せてしまうわけにはいかない。俺は、できるだけ、この場から動かないように、敵を引きつけようと試みた。
奴も、俺の考えを読んでいるのか、こちらに向かってくる気配はない。しかし、油断はできない。いつ、どこから攻撃されるかわからないのだ。
まずい……。このままでは、こちらが先に限界を迎えてしまうかもしれない。だが、「霊子崩壊刃」の効果は、まだ出ていないのか……?
俺は、ちらりと後ろを振り返った。奴の体に、目立った変化はない。「霊子崩壊刃」の効果が出ていないのか!? しかし、地面には、青い粒子が散らばっている。奴の体は、確かに、崩壊しているのだ。なのに、なぜ……?
考えられるのは、一つしかない。奴の再生速度が、さらに上がっているのだ。
その理由はわからない。もしかしたら、奴は、まだ奥の手を隠しているのかもしれない。あるいは――。
「……誰かが、奴を回復させている……?」
その可能性の方が、高いだろう。ここは、敵の拠点なのだ。回復系の能力を持った仲間がいても、おかしくはない。
しかし、今、そいつを探す余裕はない。オシアーナたちも、まだだろう。
「……仕方ない。ティファニー、聞こえるか?」
俺は、遠く離れた場所にいる、ロボットメイドに、助けを求めることにした。
しかし、現実は、非情だった。
「ご主人様、頑張ってください! こんな時、私にできることは、何もございませんわ!」




