2.会う
目の前に広がる海を見ても、私の心は少しも揺らぐことなく、むしろ安堵の念が湧いてきた。
良かった……もしあの場で殺すつもりだったら、おそらく逃げられなかっただろう。
周囲を見回すと、海に近いこの場所は原始林に囲まれ、鬱蒼とした木々が視界を遮り、周りの状況を把握することさえできない。
どうやらサバイバル生活を強いられるようだ。
ため息をつき、血まみれの刀を手に森へと歩き出した。海に近づく気にはなれないからだ。
海は陸地の十倍以上の面積を持ち、最深部は十万メートルに達する。それでもなお、そんな深淵に怪物が棲息していると言われる。航海できるのは国家の最高級の船のみで、毎回千人規模の集団でなければ対岸の大陸に到達できない。あの大陸については諸説ある——魔法を主とする別の人類が住む地だと言う者もいれば、人類と交流のある異種族の領域だとする者もいる。
いずれにせよ、海は単独行動の私が近づける場所ではない。だから森を選んだ——少なくとも狩りはできる。
夜はあっという間に訪れた。私はすぐに木に登った。この状況では高い場所ほど安全だ。伸びをして眠りにつこうとした瞬間、異変に気づいた。
「月が……赤く?」
空に浮かぶ満月が不気味な赤い光を放ち、偶然にもその光が私を直撃した。同時に、腕が勝手に動き出し、自分の頬に向かうのを感じた。
止められない。右手が左目に突き進み、眼球をえぐり取るのをただ見ているしかなかった。
「あああああ!!」
絶叫と共に木から転落した。驚いたことに、傷口から痛みは全く感じない。よく確認すると、目は無事だった。月も普段通りの銀色に戻っている。今起きたことはまるで夢のようだ。
「おかしい……この場所はおかしい」私はすぐに走り出した。戦争の後遺症などではない。考えられる可能性は一つ——この土地自体が異常なのだ。
三日後。
憔悴しきった私はある村の入口にたどり着いた。もともと華奢な体はさらに弱り切っていた。
三日間、ほとんど休むことなく、一口の食料も口にしていない。
「おかしい……どう考えても不自然だ。こんな原始林に、生き物が一匹もいないなんて?」
戦場をくぐり抜けた私は食にうるさくない。鼠でも虫でも、平気で食べられる。
だが問題は、この広大な森にそのどちらも見当たらないことだ。植物も奇妙で、空を覆う大木ばかりで、実のなる木さえ見つからない。あの赤い月はその後現れず、これが幸いか不幸かもわからない。
激戦の後の体力回復が急務だったが、わずかな水以外何も得られず、三日間の空腹状態でようやく森を抜けた。唯一の幸運は、森を出た途端に村を見つけたことだ。
普通なら周囲を偵察し、万全の準備を整えてから入る所だが、もはや追い詰められている。たとえ人食い人種の集落でも、入るしかない。
傷だらけの服を整え、ゆっくりと中へ進んだ。
「人がいない……?」
予想に反し、村には誰もいない。家屋もわずか二、三軒の粗末な小屋だけだ。
眉間を押さえ、「気」を放出した。周囲に漂わせ、拡散させていく。
「気」の使い方は多岐にわたる——武器に纏わせる、身体能力を高める。私は周囲の探知に使うのが好きだ。気の流れを感じ取り、変化を捉えることで可能になる。
もちろん、これは極めて危険な行為だ。「気」を使える者なら他人の「気」を感知できる。私はまさに敵に居場所を教えているようなものだ。
だがもはや手段がない。この村の規模からして、住人は十人以下だろう。「気」の使用条件は極めて厳しく、才能がなければ一生修得できない。さらに熟練するには長年の訓練と指導が必要だ。つまり、師が必要なのである。
だから「気」を使える者の大半は公的な立場にいる。修得法や各種術式は全て国家が独占しており、独学での習得はほぼ不可能に近い。
そして私は自分の実力に自信がある。多くの修行者と違い、戦場で磨き上げた技だ。毎回無事に帰還できたことも、自信の源となっている。そう、私は自分の実力に絶対の自信を持っている。
10人もいない村に、まさか世にも稀な達人が複数いるなんてことあるはず——
「気」が広がるにつれ、周囲の状況が脳に伝わってきた。
「一人、二人……良かった、三人だけだ」
目を開き、得た情報を整理する。
三人全員が高齢者と見られ、二軒の家は完全に空き家のようだ。問題はなさそうだ。
もちろん、油断は禁物だ。
そう考え、私は堂々と中へ入った。
「ごめんください、どなたかいらっしゃいますか?」
できるだけ友好的な笑顔を作り、ドアを二度叩いた。鍵がかかっていないのを確認し、中へ進む。
中には長いひげを蓄えた老人がいた。ひげは手入れが行き届き、穏やかな顔つきで、まったく害のなさそうな風貌だ。
「おや、珍客だね。こんな所までよくたどり着いた」
そう口にしながらも、彼の顔には驚きの色はない。手元の茶をゆっくりと味わっている。
「先輩、お邪魔いたします。拙者の名はライト。ここはどちらでしょうか」
「うーん……ここは一応、冒険者ギルドと言うことにしようか」
冒険者——王庭と教会に次ぐ第三の勢力。金さえ払えば何でもする連中だ。つまり、賞金稼ぎや傭兵の類いを指す。
ここでは、過去も素性も問題にされない。実力が全てだ。
私にぴったりだ。
「まあそんなことはさておき、あの森を抜けてくるのは大変だったろう。まずは食事をして休むがいい」
硬い黒パン二切れと小さなバターが差し出された。彼は壺を探っているが、出てきたのはかすばかり。
申し訳なさそうに笑う。
「悪いな、食事時じゃないからこれだけしかない。我慢してくれ」
両手で受け取り、礼を言ったが、すぐには口にしなかった。
見知らぬ者から直接もらった物を平気で食べるほど愚かではない。
私の顔を見て、彼はパンを一口食べて見せた。「ほら、毒なんか入ってないよ」
その一片にだけ毒が入ってない可能性だってある。内心でそう呟きつつ、ここまでされて食べないのは失礼だと判断した。
残りのパンを手に取り、大口で頬張った。
どうせ毒なんか効かないさ。