足の小指が神様に
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
蛇の道は蛇。よく耳にすることわざのひとつだろう。
「じゃ」は大きな蛇を指し、「へび」は小さな蛇を指す。たとえ前者ほど立派なボディじゃなかったにせよ、その道を志すものには相手のノウハウが分かるものだ。
奥義に到達するには、相応の熟達が必要かもしれない。でも、とっかかりをつかむには、その分野をかじることでもいける……と、このことわざは表しているんじゃないかと、僕は思っているんだ。
そして、同時に危うさも物語っている。
意図したものであろうと、なかろうと、その道に足がかかってしまえば、これまで見られなかったものが、見えてきてしまう。
いかなる道が「じゃ」の道なのか、ド素人にはかえって分からないゆえに、ね。
以前の僕の話なんだが、聞いてみないかい?
「足の小指が神様に」。
僕の地元に伝わる、いましめのようなものだ。
いわく、神様が僕たちの前へ姿を見せないのは、いつも人の進む道とは異なる「はじっこ」へ身を寄せているかららしい。
歩道とかの隅。その隅っこを歩くときは、足を入れないだろう柵の向こう側など、そのときそのときで、人へじかに触れない場所へひそんでいる。
けれど、人の足の小指側は、このときに一番神様のそばを通りかかってしまう。ときおり、神様に惹かれてぐらりと傾いてしまうときがあるのだとか。
そこへ悪い具合に体重がかかったりすると、ねんざとなる。
僕たちの地域じゃ、ねんざは神様がふと、たわむれに僕たちへ触れようとした、その証と認識していたんだ。
そのようなときは、あえて足を引きずる。
疲れなどがあって、いかにも足元がおぼつかなそうなときほど、引きずっていく。
靴の底よ、めくれろといわんばかりに。
僕はそいつを、当初はけがの用心のための方便だと思っていた。つい足の外側へ体重をかけて、ひねってしまう。それを防ぐために、すり足をするとともに、意識を向けろという意味合いのね。
だが、ひょっとしたら違うんじゃないかと、思う時があったのさ。
学校遠足で、現地解散をしたときのことだ。
最寄り駅まで電車で戻ってきて、ロータリーのペデストリアンデッキを下り切ったところで。
ぐりっと、左足が外へねじれる感触。十分に踏ん張れず、手を地面についてしまう。
ころけるところまではいかなかった。すぐに立ってみたが、特に痛みやしびれは感じない。
以前も同じように、足をひねったかと思う瞬間は何度かあった。そばにいたみんなが、すぐ駆け寄ってくることもあったから、はた目にダイナミックだったんだろう。
けれど、そのことごとくがたいしたことない。最初こそ痛みがあるものの、腫れやしびれなどに苦しむことなく、早ければ数時間。長くても数日で、以前と変わりない機動力を発揮できていた。
――自分、けっこう足首とかが柔らかいんじゃないかなあ。
素人判断に、そう思い込んでいた。今回も、同じようにたいしたことないだろう、とも。
あたかもケガしていないかのように、歩くのを再開して。
三回はひねった。
家までの1キロ近い道のりで、普段通りに歩く心地の中でだ。
一度目はたまたまと、まだなめていた。二度目は「んん?」と来て、すり足を意識する。にもかかわらず、家のすぐ手前で三度目のひねりを味わった。
そのいずれも、痛みをちっとも感じない。ぐねりと曲がった感触はあるのに、それは100メートルも先のできごとのように、他人事な違和感だ。
家に帰って、靴も靴下も脱いでみる。ひねった左足は、右足とほとんど同じような白みを帯びていた。
ただ、くるぶしの下あたりに、指二本分くらい赤くなっていたんだ。ぐっと指圧しても、やはり痛みを覚えない。
特に子供は、とことん自分に都合のよい解釈をする。痛くないなら、やはり大したことはないのだと、親にも黙っていた。
それでも冷やすのはいいと聞いたこともあるし、風呂場で適当に冷水をあてがって、その日は眠ってしまったんだ。
翌日。
赤くなっていた部分は、やや黄色に色を変えていた。もとの肌の色に近いこともあって、「いよいよケガが回復してきたか」など前向きに解釈。ようようと学校へ向かったさ。
だけど、クラスメートに会って、時間が経っていくうちにみんなが指摘してくるんだ。
「その余計な一歩は、なんなんだ?」と。
意味が分からなかった。
尋ねてみると、僕が一度歩き始めて、止まる瞬間。余分な足踏みをひとつ挟むんだそうだ。
左足で一歩だけ。その場でタンと足踏みをする。最初のうちはさほど気にならなかったが、ちょっとした移動でも欠かさず行うんで、何か意図があるんじゃないかと思ったのだとか。
そうなのか? と僕は自分で意識してみるが、自覚が難しい。
なにせ踏ん張っている感触はあるのに、左足が勝手に動き、持ち上がっては着地する。
昨日、ひねったときと同じ。感覚がずっと遠くにあって、自分の身が起こしたこととは思えなかったんだ。
他人から見ればおかしな挙動だが、僕自身には大した問題じゃない。自然に治るだろうと、この期に及んで、僕は事態を軽く見ていたんだ。
しかし、おかしな歩みはやむことなく、そのまま10日が立った後。
体育の時間は走り幅跳びで、みんながかわるがわる、砂場へ飛び立っていたんだ。
僕も前の人に続いて走る。この時もやはり、踏み込みの瞬間に余分な左足のステップが混じるらしいんだが、踏切には問題ない。これまでと大差ない記録を出せた。
けれど、そうして砂場の奥深く。校庭を囲うフェンスのほど近くへ降り立ったとき。
その金網ごしに、じっとたたずむ人影が立っていたんだ。
黒ずくめの服を着ているのか、と思ったが、フードやコートの見せる裾や襟などが、みじんも見えない。
体を真っ黒に塗りたくったにしても、そこに顔のパーツや肉付きの輪郭は浮かんでいない。
影だ。影そのものが、僕の真ん前に現れたようにしか思えないんだ。
立ち尽くしてしまった僕に、周りのみんながどくように促してくる。その彼らに、例の影を指さして訴えるも、みんなは口をそろえて「見えない」と答えてきた。
ばかな、と顔を戻しても影はやはりそこにいる。迫るでも、遠ざかるでもない。僕の真ん前のフェンス越しに、仁王立ちしたままなんだ。
気味悪く思いながらも、僕はそいつのわずかな挙動も見逃すまいと、影をにらみつけたまま、カニ歩きのごとくどいて、定位置へ戻っていく。
いきなり見せるあほらしい動きに、かすかな失笑があがるも、僕はおかまいなし。影のわずかな挙動も見逃すまいと、目を凝らした。
そして分かったよ。
僕が足を止めるとき。厳密にはそのとき起こる、意識しがたい余計な一歩を踏む際。
影は動く。ほんの一歩だけ、フェンスに沿って横へ。門のある方向へ向かってだ。
僕が止まるとあいつも止まり、動かない。その不可解な動きを見とがめる者は、そちらへ顔を向けていたはずの先生も含めて、誰もいなかったよ。
どうやら本当に、僕にしか見えていないらしい。
観察をし続けると、そいつは僕が止まるときに踏む、余計な一歩分だけ動けるらしかった。
暇さえあれば窓の外を見ていたよ。影はゆったりと、でも確実に僕へ寄ってきていたよ。誰にも気にされる様子もないままにね。
昼休みに入るころには、もうあいつは校門をわずか入ったところでたたずんでいた。この時間も監視にあてる僕は、窓越しにあいつのそばで遊ぶ子供たちを認めたよ。
ときに重なったりしても、影も子供もぶつかったそぶりを見せない。互いにすり抜けながら、平然としているのを見て、いよいよ僕も鳥肌が立ち始めた。
――きっと、僕が触れたらろくなことにならないんだろうな。
そう察するのは、難しくない。
あいつがただひとつ、アクションするのは、ただひとつ僕のステップによってのみなのだから。
校門は複数ある。しかし、下手に歩いて昇降口から校舎に入ってきて、通り道をふさがれたりすると、厄介だ。
いや、室内に入っても、見つけたルールが適用されるか。屋内へ入ったとたん、期間終了とばかりに、僕へまっしぐらに走ってくる恐れもある。
どうにか、いまのルールに当てはまる、外へとどめておかなくては……。
そう思うとき、ふと例の言葉を思い出したんだ。
「足の小指が神様に」
もしやと、僕はあえてすり足。廊下の窓数枚分を移動して、僕は影の位置を確かめた。
動いていない。
数回、同じ動き方をしても同様。影はみじんも近寄ってこなかった。
――なるほど。あいつは「神」なわけか。
足を引きずるのは、触れようとする神を近づけまいとさせる所作なんだ。
いや、「神」という大仰な名前だから、勘違いする。おそらくお化けとか妖怪とか、人にとって不可解なものを、ひとからげにここでは「神」と呼んでいるのだろう。
なら距離をとるに越したことはない。
方法は悟ったが、階段などの足を離すポイントに関しては、すり足しきれない。
帰る段にはもう、あいつは昇降口の影あたりに来ていたよ。それを確かめながら、僕はひたすらすり足をしていく。
やはりあいつは動かない。いや、数十歩に一歩くらいの頻度で、元来た道をすっと、ホバー移動するように後ずさっていく。
一歩の重さにうんざりしつつ、その日の僕はたっぷり一時間ほど、すり足による道草を食いまくったんだ。家に帰ってからもさんざん意識した。
次の日以降も、学校に行くときも行かないときも、せっせと「すり足」を貯金してね。結果的に、例の影は周りからいなくなったんだよ。
今でも僕は、気のついたときには、すり足貯金をしている。
忙しさにかまけて、その貯金が尽きたとき。ふと現れた「神」が僕をかっさらっていくかもだからね。