幻蛇巨眼(バジラギガント)
寧ろ、窮地に立たされているのはベラローズの方である。
左腕を失い、その半身は言うことを聞かない。
更にまた、右耳と肩を捥がれたのだ。
旧魔領に住む魔族に退却の道はなく、味方の使い魔もその殆どが既に玉砕している。
守備が偏っていた北門が突破されるのも、もはや時間の問題とみえた。
そして、北を攻めてくる将軍が、この討伐軍の総大将であろうということを魔侯は察していた。
どす黒い雲が緩やかに流れてゆく。
生温い大気の中、魔侯・ベラローズは懐からイービルスプラウトの煙草を取り出し咥えると、右の人差し指から火を付けた。
「やはり、旨い」
ふうっ、と煙を吹くと、遠くに聳える山々を眺めながら呟いた。
「ここらが潮時であろうの」
口に煙草を噛んだままの緩慢な動作である。
おもむろに右手を左の目元にやると、躊躇いもなく眼窩に指を突っ込み、その眼球を取り出した。
時折、不意をついているつもりであろうか、火炎球や氷弾が飛んでくる。
己の終焉を愉しむベラローズは、それを実に無風流だと感じていた。
「さて、どれだけ冥府への道連れにできるか」
眼球をしばらく掌中で弄んだ後、ぱっと上へ、垂直に投げた。
左の眼窩からはどろどろと血が溢れ出ている。
重力を無視するように魔侯の眼球は宙空で静止していた。
ベラローズは、右掌を真上に翳すと、もわっと口から煙を吐き出しながら呻いた。
「人間共よ、見るがよい。…幻蛇巨眼」
地上ではフランザーを始めとするリリシア王国兵士らが歯噛みしながら上空を見上げていたが、彼らには、宙に浮遊する眼球が巨大化したように見えた。
そう見えたのは数秒である。
次の瞬間には、それを見ていた目を始点として、無機物化が広がっていた。
魔侯・ベラローズは膨大な魔力を消費することで、冥蛇顕眼の巨大な幻影を創り出していたのだ。
見た者を石化させる。
連邦の雷将・ハイブワーフが石像と化した様を目の当たりにしていたフランザーは、これがその上位の技であると直感的に察し、咄嗟に目を背けた。
「ダメだ!見るな!」
大声で叫ぶと軍勢の方を振り返り、そして愕然とした。
自ら率いて祖国を出発した精鋭軍が、既に兵馬俑の如き石像の整列と化していたのである。
「おおお…」
ここに、リリシア王国・魔侯討伐軍は実質的に全滅した。
指揮官・フランザーの目から光が消え、どさっと、くずおれた。
やがて、幻蛇巨眼は徐々に薄れて消えた。
幻影は収縮し、干涸びた眼球が地上に落ちてゆく。
魔力を使い果たし、王国軍をほとんど全滅に追い込んだベラローズだが、意外なことにその顔には驚愕の色を浮かべていた。
いつの間にか煙草も口からなくなっている。
顔に残った右目をかっと開いて、リリシアの石像群を見つめていた。
「あれは、あの方は…」
整然と並んだ石の像に紛れて、一人の王国兵が茫然と周囲を眺めている。
決して勘違いではない。間違えようもない。
見た目こそ人間に成り果てているがーー
「生きておった…!まだ、生き長らえられておった!」
魔侯の表情に、徐々に笑みが混ざってきたかと思うと、何かが弾けたように、切れたように、突如として大笑した。
左の眼窩からどばっと血が噴き出す。
「かっかっかっ、終わらん!魔の血脈、まだ終わらんぞ!我ももう少し生きたくなったわ」
味方の全軍が自分だけを残して突然石像と化し、王国の若者は狼狽の極みといった様相である。
リリシア王国兵・アースバルであった。