剣閃、フランザー
黒い大地が速度を上げて近付いてくる。
何か大きな物が背から押し込んでくる。
魔法による不意打ち、だが宙空にあって背後からとは何者の仕業か…ベラローズの頭を最初によぎったのはその疑問であったが、次の瞬間にはこの現状を打開する方法を思案していた。
未だ思うように動かぬ左の身体。
地上にて、巨大な剣を手に間合いをはかる敵将。
つまり、右半身をもってコンマ数秒の間で行える最善の手段を見出さねばならない。
「冥蛇顕眼」による石化は、対象との視線の交差が最低条件である。
ベラローズは、落下移動中という視点がぶれ過ぎる状況において、それは悪手と判断した。
ーー斬るか。
腰に帯びていた黒き長剣、その柄に手を添えた。
いっそ、この速度に乗じて一閃を見舞ってやろう、という魔侯の出した答えであり、それがこの時点での彼の最善手であった。
最初の疑問からこの答えまで、ほんの一瞬の思考である。
瞬く間に両者の距離は縮まっていた。
まさに今、二つの剣尖が交わろうとしている。
そしてーー
「うおおお!」
吼えるフランザーの大剣・グランゼルクが、風と共に迫り来る魔侯の首を見事に捕らえた。ーーと見えた。
風塊に乗り、ベラローズが剣を抜くと同時に走った漆黒の閃光が、王国指揮官の胸を裂いた。ーーとも見えた。
当事者にとっては、時空が乱れたような感覚であったろう。
その瞬間まで、互いに「斬った」と確信していた。
だが、両者共に想定していなかった、歯車の狂いが生じたのだ。
グランゼルクの剣筋は僅かにずれ、ベラローズの右耳を落とし、肩の肉を削ぐに留まった。
かたや闇の一閃は、フランザーの左脚大腿部を抉り抜いたのみである。
大地を踏みしめる筋肉を離断されたフランザーは、脚から鮮血を噴き出しその場に崩れたが、何よりも今の"ずれ"は何であったか、という困惑が先であった。
風塊はなくなり、強敵・ベラローズは再び上空へ逃れている。
「…フェルマ!」
風の消滅は、フェルマが力尽きたことを意味していた。
それが、剣が交差するのと同時、正確には僅かに前であったのだ。
それによってベラローズの背を押していた風塊が消え去り、速度が落ちた。その"ずれ"であった。
その"ずれ"によって双方一閃のタイミングが乱れ、予感した未来と異なる結末が訪れたのだ。
周りの魔法兵に支えられたリリシア王国の副将・フェルマは、完全に意識を失っていた。
「フェルマよ、君の働きで魔侯に大きなダメージを残すことができた。討ち取りきれなかったのは私の力不足だ。ゆっくり休め」
フランザーは傍にいた魔法兵から杖をもらうと、それを支えにして立ち上がった。
右手には再び大剣・グランゼルクを把持している。
しかし、リリシア王国軍にとって、フェルマの脱落、そしてフランザーの負傷は、絶望的と言えるディスアドバンテージである。
兵士たちの間に、重苦しい空気が流れた。
残った右足で、地面に転がった魔侯・ベラローズの右耳を踏み潰し、フランザーは大剣の柄を強く握り締めた。
自らを鼓舞するように、呟く。
「リリシアは窮地にこそ輝く」