遣らずの白い雨の下②
私は今までの短い人生で、一度も恋というものをしたことがない。
早い人だと幼稚園生の頃から「あのこがすき」だなんて言い出すのに。
「まだ本当に好きな人に出会えてないだけだよ」
「自分が気付いてないだけじゃない?」
恋をしたことがない、と言うと必ずと言っていいほど言われた言葉。
確かにそうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれないじゃないか。
小学校六年生の時、クラスの女子の間で、ある少女漫画が流行った。それまでいわゆる少女漫画とジャンル分けされるものの類を一切読んだことのなかった私は、ほとんど押し付けられる様に借りたその漫画を読んで「よく分からないな」と思った。
週明け、借りた漫画を「ありがとう」と返すと何人かに囲まれた。
「どうだった? すっごくキュンキュンしたでしょ!」
「黒髪と金髪、どっちの男の子のほうが好き?」
「あんなセリフ言われてみたいよねー!」
「あー! ヒロインになりたーい!」
「やっぱりファーストキスは好きな人とじゃなきゃ!」
あの漫画のどこがそんなに面白いのか正直私には全く分からなかったが、母にそのことを言うと「流花はまだまだおこちゃまね」と言われたので、なるほどそういうことかと深く考えることはしなかった。
しかし中学生になると、私と周りとの違いが顕著に現れ出した。入学してすぐに付き合いだした子たちが「デートをした」、「手を繋いだ」、「ハグをした」などと口々に言うのを、みんなは「きゃー」とか「いいなー」とか言って興味津々な様子で聞いているのに、私にはそれの何が羨ましいのかが理解できなかった。
「隣のクラスのカップルがキスをしたらしい」と噂が流れた時、学年は暫くその話で持ちきりだった。どこでしたのか、どんな状況だったのか、といった生々しい情報がすぐに広まり、何人かの男子が面白がって教室の後ろで固まりその再現をしていて、何人かの女子がそんな男子たちを「やめなよー」と止める様子を微塵も見せずに笑っていた。
それの何が楽しいのか、私にはやっぱり分からなかった。
それから何度か告白というものをされた。ある人には呼び出しを受けギャラリーが見守る中で、ある人には勝手に携帯の連絡先を追加されて社交辞令の挨拶を返した後に、ある人には放課後の帰り道を待ち伏せされて。
似たような表情をした違う人たちに同じような言葉で好意を押し付けられるたび、「ごめんなさい」しか言えない私の心は端から徐々に酸化して錆び付き、赤茶のそれがポロポロと剥がれ落ちていくような感覚があった。
「好きって言われて嬉しくない人なんていないよ!」
好きな人に想いを伝えたいと泣きそうな顔で言う女の子を励ます女の子たち。それ、今まさに励ましているその子に「好き」って言われても心の底から嬉しいって思える?
「言いたかっただけだから」
私が「ごめんなさい」と言うと、そう言って傷ついたように笑う人。私だって痛いんだよ。言いたいだけなら言わないでよ。そっちは言えてスッキリするんだろうけど錆びて劣化していく私の心はどうなるの?
高校一年生の時の卒業式の日のことだ。早々に帰り支度を済ませて、おそらく自分と同じくどこの部活にも所属していないだろう人たちの中に混ざり、沸き立つ校内から離脱するため昇降口でローファーに履き替えていると、胸に造花をつけた見知った顔に呼び止められ、告白された。
その人はたまに学校の中で会うと笑顔で話しかけてくれる感じの良い先輩、というような認識だった。
いつも通り「ごめんなさい」と私が言うと「今、付き合ってる奴いないよな。じゃあいいだろ」と食い下がってきた。今までとは違うその返しに動揺して、「好きな人がいるんです」とどこかで聞いた断り文句で返すと、その先輩は「お前、好きでもない男にもベタベタしてんのかよ。そうやって勘違いさせて告白させてフッて、内心楽しんでるんだろ。このくそビッチが」と吐き捨てるように言い、真っ赤な顔で私を突き飛ばし去っていった。
私は呆気にとられ少しの間その場に立ち尽くし、周りのざわざわとした嫌な声にハッとして生徒玄関から逃げるように走った。駐輪場まで一目散に走り、自分の自転車の横で立ち止まると軽く息切れを起こしていた。
そして、呼吸を整えながらスマートフォンの検索ページで言葉の意味を調べ愕然とした。
その後、ぼんやりとしながら自転車に乗り、だらだらとペダルを漕いでいた時に思い至る。今まで私が「ごめんなさい」と返した人たちこそ被害者ではないのか。同性と同じように異性に近づくのは良くないことだなんて知らなかった。誰も教えてくれなかったじゃないか。被害者面して「押し付けられた」なんて思っていた私の方が加害者だったなんて。
なんとなく家に帰りたくなくて街中を自転車でふらふらとしていると、黄色と青が目立つチェーンの古本屋の看板が目に入った。
その看板に引っ張られるようにして店内に入り、気付くとあの時の少女漫画を手に取っていた。
パラパラとページをめくる。二巻を棚から引っ張り出し、ざっと目を通した一巻を棚に戻す。それを何度か繰り返す。最終巻の六巻を手に取り、左手の親指で本の小口部分をゆっくりと左に向かって撫でていく。
数年前に見た、幸せそうにキスをする女の子と男の子がドアップで描かれた見開きページ。やっぱり、よく分からない。唇と唇を合わせて何がしたいの? 食事と呼吸に使う部位でしょ。
私にもそのうち分かると思っていた。けれど、十二歳で見た時と同じような感想と溜め息しか出なかった。
漫画本を棚に戻して、店を出る。自転車に乗ってさっさと家へ帰り、外側から鍵を使って開けた玄関を内側から指を使って閉め、自分の部屋がある二階へと続く階段を上る。部屋に入ってリュックサックを降ろし、そのままベッドに倒れこんだ。
うつぶせの状態でブレザーのポケットからスマホを取り出し、SNSを開く。
同じ中学校だった女の子の「昨日、彼氏と横浜に行った」。三つ隣のクラスのカップルの「今日は付き合って三ヶ月記念日」。SNS上でしか話したことがない人の知り合いの「こどもが生まれました」。先輩のそのまた先輩の「結婚します」。
写真付きの投稿や文だけの投稿。中には絵文字だけのものもある。それだけでもその人が恋をしていることがありありと分かった。
おめでたい、と思う。だって本当に幸せそうだから。羨ましい、と思う。自分にはないその感情が。知りたい、と思う。その胸のトキメキとやらを。知りたくない、と思う。その胸の痛みを。
私の手の届く小さな範囲でさえ世界はこんなに恋に溢れているのに、いつまでも私だけ馴染めずに世界から取り残されているように感じる。みんなはどんどん前へ進んで行くのに。私だけいつまでたっても動けずにいる。
あの夢のように。
光に溢れる世界の中で、私一人だけがガラスでできた透明な箱に入れられたみたいだなと思うことがある。見えない壁に阻まれて誰とも触れ合うこともできず、分厚いガラスのせいで周りの音がくぐもってよく聞こえない。
「出られない」と大声で叫んでガラスを叩いても、誰にも大事にとって貰えず、ガラスの箱の周りに集まった彼らは私をまじまじと見て不思議そうに首を傾げると、すぐに去って行ってしまう。
まるで世界に「お前は一生独りだ」と嘲笑われているみたいだ。
以前に、「私だって恋愛経験ないもん、同じだよ」と笑い飛ばした人。
――でも、あんたは今、恋をしているじゃないか。全然同じじゃない。
同性愛者だという人の胸が痛くなるようなエッセイ。
――でも、あんたには「好き」が分かるんでしょ。触れたいって思える人がいるんでしょ。
告白されて毎回フるなんて調子乗ってる。と何度も言われた陰口。
――だって、気持ちがないのに付き合うなんてあまりにも相手に失礼じゃないか。それに恋人らしいことなんてしたいと思えないし出来る気がしない。
胸の奥の奥からヘドロのようにぐちゃぐちゃで救いようのない汚い感情ばかりが溢れてきて、体のあちこちに散らばっては堆積していく。
……いいなぁ。私だってみんなと同じような気持ちになってみたいよ。
みんなと同じ話題で盛り上がってみたいよ。だけど分からないんだよ。
恋愛感情の方で好きって、どういうことなの? どんな感情なの? 私はそれを一生知ることなく死んでいくのかな。そのうち分かるって、いつ? どれくらい先の話? ドキドキってなに? キュンってどんな感覚? 好きすぎて辛いって、どこがどんな風に痛むの?
誰かのことを好きになる人がいるのなら、誰のことも好きになれない人がいてもおかしくないんじゃないの? どんな事情にもイレギュラーは付きまとう。百パーセントなんてないでしょう。どんな洗剤だって全ての汚れを落とすことは出来ないし、どんなに優れた機械だって壊れるまで使い続けて一度も誤作動を起こさないなんて方が珍しいでしょう。
だから私が恋をすることが出来ないのだって、おかしいはずはないんだ。あり得ることなんだよ。私自身が「おかしい」ってことも、私のこの性的指向までが「ありえない」ってこともないんだよ。
そう頭では分かっているのに。
私だって好きでこんな風に生まれたわけじゃない。みんなと比べたら私の方が変わってるんだって分かってる。変なのは私の方。分かってるよ。「みんな」と違うのは私の方。分かってはいるけど……。
だけど、ただ同じような人が少ないというだけでイレギュラーなんて言われたくない。
自分が本当に恋をすることがないのか、いつかは恋をすることがあるのか、なんて、今ハッキリさせろと言われても出来ない。自分に恋愛感情と呼ばれるものがないということを誰にも証明することが出来なければ、断言することすら出来ない。
きっと、私がその感情を持たないということは私が死ぬまで証明されないだろうし、死んでからも証明されることはないのかもしれない。
みんなが私のことを理解出来ないように、私もみんなのことを理解出来ないのだから。
だけど、それでも私はみんなと同じ話題で笑ってみたかった。同じ漫画を読んで同じような感想をもってみたかった。恋人の好きなところを友達の前で照れながら言ってみたかった。修学旅行で本当に好きな人の名前を挙げてみんなに「内緒だよ」なんて言ってみたかった。
手を繋ぐとか、キスとか、ハグとか、その先とか、そういうの。
そういう触れ合いをしたいとは全く思わないけど、だからと言ってそんな行為を気持ち悪いとも思わない。ただ、誰かとそういう行為をして幸せそうに笑っている自分の姿が想像できない。それだけ。
だから、私にはとても出来そうにもないそれらを当然のようにやってのける人たちは、いつだって誰だってキラキラしていた。
だけどさぁ、分からないんだよ。教えてよ。誰か。誰か。誰でもいいから。
隣どころか、辺り一面の花が赤くて綺麗で眩しすぎて目を開けていられない。
嫌いだ。
***
「……まぁ、青井なら校内選考通るでしょ。親御さんも納得してるんでしょ?」
志望校を書いた紙を担任に提出すると、その名目だけの面談は進路指導室を使うことすらなく早々と終わりを迎えた。
わざわざ時間まで指定して提出しに来させといてそれだけか。さっさと家に帰れていればあんな夢も見ずに済んだかもしれないのに。
「はい。これでいいって言ってます」
「そうか。じゃあ後はひたすら面接の練習と小論文だな。夏休みもちゃんと勉強しとけよ。もし万が一があったら困るからな」
「はい。分かってます。じゃあ、三者面談よろしくお願いします。」
そう言ってぺこりと頭を下げ担任に背を向けると、「あ、そうだ」と覇気のない声を後ろから掛けられた。
「青井は何がしたいの?」
「え……?」
突然の罵倒に言葉が詰まる。私、何か悪いことしたっけ?
「受験終わったらやりたいこと、一つくらいあるでしょ? 周りよりも終わるの早いんだからさぁ。髪染めるとか、パーマかけるとか、ピアス開けるとかは卒業してからにして欲しいけど。バイトするとか、教習所通うとか。そういうのないの」
「あぁ」、そういうことか。そっちの意味か。
というか、うちの学校は相当な理由がなければ生徒が自動車や原付の免許を取ったり、短期でもバイトをしたり、してはいけないと校則で決まっているはず。それなのにどうして、そんな話をよりにもよって職員室でしてしまうのだろう。ここは進路相談室でも空き教室でもないのに。一日中、どこかに人間が詰め込まれているこんな部屋ではプライバシーも何も守れない。それに、急にそんな大雑把な質問をされても答えなんてすぐには用意できない。
「あー……。今は何も浮かばないですね」
「いやいや、若いんだからさぁ」
そう言って片側だけ口角を上げて、馬鹿にしたように笑う。
「はぁ。まぁ、そのうち出てくるんじゃないですかね」
他人事のように鼻で笑って私は担任に背を向けた。
そのまま職員室の中を出入り口に向かって真っすぐ歩いていると、「青井!」と大きな声に呼び止められた。
声のした前方に反射的に顔を向けてしまった。引き戸の前で、部屋に入ってきたばかりらしいその人は私を通せんぼするように扉の前に仁王立ちしている。確認するまでもなく相手が誰なのかは分かっていたのに。あぁそうだ。昨日、榎本君も捕まったと言っていた。
「お前、指定校受けるんだって? 余裕だなー」
嫌味ったらしい言葉を吐いてきたのは、プライバシーの頭文字のPすらどこかに置いてきたらしい体育教師、田中。私だって例に漏れずこの人のことが苦手だ。
あははと笑って誤魔化し、軽く頭を下げ立ち去ろうとするも扉の前に立った人物はちっとも動く気配がない。
「……あー、すみません。早く帰らないといけなくて」
目も合わせず引き戸に手を伸ばす仕草をしても、まるで分かっていない。
「青井―、つれないこと言うなよ。聞いたぞ。お前、彼氏いないんだって? 美人なのにもったいねぇなー! 受験終わったらつくればいいじゃねぇか! 一、二年の間でもお前結構人気あるって聞いたぞ」
もったいないって何が? 大声で誰の特にもならない情報を公開しないで欲しい。それが事実だとしても何も嬉しくない。むしろ迷惑でしかない。
ほら、顧問にメニューの確認をしに来た野球部の女子マネージャーに睨まれた。どこかで見たことのある男の子が私を見て小さくガッツポーズをした。私の後ろにいた女の子が二人、急にひそひそ話し始めた。全く知らない女の子から舌打ちが聞こえた。
ねぇ、これのどれか一つでも見えていますか?
ガラッと引き戸が開いたと同時に「わっ」と少し高めの短い声が聞こえた。振り返った田中が慌てて退く。
そして、すぐに私なんて意識の外に追い出して扉を開けた人物にすり寄っていく。田中の巨体で見えてはいなかったが、予想通り牧原先生だったようだ。
田中をあしらいながら職員室の自分の机へと向かうマキちゃんは心底うんざりした顔をしていた。
やっとここから出られる、と安堵の溜め息を一つ吐いてマキちゃんが私のために開けっ放しにした扉から逃げるように職員室を後にした。
廊下を歩いていると、少し苛ついて先ほどよりも大きな溜め息が出てしまった。前からこちらへ歩いてきていた一年生の女の子が少しだけビクッと体を震わせる。他人の、しかも年上の溜め息は基本的にいいものではないだろう。場所も選ばず申し訳ないことをしたなぁ。
「ごめんね」とすれ違いざまに呟き、先へと足を進める。
渡り廊下を渡り始めると、先ほど通った時よりも空気が少しだけ冷えているような気がした。足元に向けていた視線をパッと上げると、灰色を孕んだ白い雲が青かった空にひしめき合っていた。
吹奏楽部のパート練習のバラバラな楽器の音。演劇部の支離滅裂な文章での発声練習。野球部員すら元が分からない謎の掛け声。バスケ部がシューズで床を擦る音。
同じ学校の中で行われている別世界の青春の音をぼんやりと聞きながら、私は私のやりたいことについて考えていた。
渡り廊下と生徒玄関を隔てるガラス扉を抜けると、後ろからポツポツと雨がトタンを軽く叩く音が聞こえてきた。何の気なしに振り返った瞬間、私の目にはバケツをひっくり返したような夕立が我先にと乾いたアスファルトへぶつかっていくのが見えた。
乾いた灰色のそれは雨で濡れてすぐに黒く染まり、空から落ちてきて染み込み切れずに路面を揺蕩う多量の水を、せっせとどこかへ運び始めた。
その雨音は、つい先ほどまで私の鼓膜を支配していた幾つもの青春の音を一瞬で掻き消す。
「……カッパ、忘れた」
誰に言うでもなくひとりごとが零れた。
雨が止むまで帰れないな。図書室でも行くか。せっかく下駄箱まで来たのになぁ。
開け放たれたままの大きな生徒玄関から勢いよく吹き込む風を右半身に受けながら、何の抵抗もできず着々と濡れていく玄関のタイルを見ていると、何も面白くないはずなのになぜか笑えてしまった。
濡れていくタイルを見るでもなく見ていると、なぜだか随分体が軽い気がした。そして階段を下りてこちらに腕を組んで歩いてくる男女の姿を見て、納得して「あぁ」と呟いた。
職員室の前に荷物を置いたままにしていた。
「青井さんじゃん!」
「あ、るかちゃんだぁ!」
芳野君と彼女の梓ちゃん。お似合いだと思う。私は芳野君が苦手だが、彼が彼女である梓ちゃんのことをとても大切にしていることは見ていて分かる。そんなところは好感が持てる。そしてそれと同じくらい、梓ちゃんも芳野君のことを大切にしているのだろうということも二人を見ていると容易に感じ取れた。
さっきバイバイしたのにねー、なんてにこやかに笑いかけてくる彼女は、生徒玄関の酷い有様を見て「こんなん車にたどり着くころにはびしょ濡れじゃん!」と笑い出した。梓ちゃんのお母さんが芳野君もついでに乗っけて行ってくれるらしい。
二人と再び別れの挨拶をする。一つの傘の下で「せまい!」と笑いながら身を寄せ合い、楽しそうに大雨の中に飛び出して行った彼らの姿が見えなくなると、私はその場に膝を抱えてしゃがみこんだ。
――やりたいこと、一つくらいあるでしょ。
見下すような担任の顔がちらつく。
うるさいなぁ。やりたいことならずっと前からあるよ。一つだけ。
膝の上で組んだ腕に額を乗せて、小さく溜め息を吐く。荷物を持っていないからと軽く感じたはずなのに、今になって体が随分と重たい。
「ほんと、何してんだろ」
遠くに雷鳴が聞こえた。
雨は一向に止む気配がない。