遣らずの白い雨の下①
ハッと目を開けると同時に右膝に痛みが走った。組まれた腕と見慣れた木目が視界に入り、ここが学校であることを思い出す。
黒板の上に掛けられた丸い時計を確認する。放課後の教室で勉強をしていて、あまりにも眠かったので広げていた勉強道具を片づけそのまま自分の席で眠ったのだ。それが十分前。不安定な姿勢で眠っていたことで体がビクッと跳ね、はずみで机の下に右膝を打ち付けたのだと理解した。以前、調べたことがあるがジャーキング現象というらしい。
……またこの夢か。
膝をさすりながら溜め息をつく。どうせならもっと楽しい夢が見たい。何が悲しくてこんなに寝覚めの悪い夢を何度も見なければならないのだろう。落下する夢で起きるのは本当に心臓に悪い。
顔を左に向けると真っ青な高い空が広がっていた。寝起きの目にそれは、余計に眩しく感じられすぐに目を逸らす。
机で寝たことにより、寝る前よりも怠くなった体を起こして腕を前に伸ばす。二の腕が引っ張られる感覚が気持ちいい。右腕を左の太ももに、左腕を椅子の背もたれに固定して体を左に捻じると、パキパキと軽い音が鳴った。反対側も捻じろうと左腕を右の太ももに乗せて、右腕を椅子の背もたれに掛けた時、突然、声を掛けられた。
「膝大丈夫? すごいビクッてなってたよ」
榎本くんだ。去年から同じクラスになった男の子で、先月頭の席替えで私の右後ろの席になった。誰にでも分け隔てなく優しく、明るく、物腰が柔らかく、教師からの信頼も厚く、イケメンで、背が高い、元バスケの部長。そして、去年の春頃から今に至るまでずっと私に恋情的な意味の好意を抱いているらしい。
「あぁ、うん。大丈夫。見られたか。恥ずかしいな」
パキパキと腰を鳴らしながら返事をする。この人と話すときはいつも以上に言葉を選んでしまう。
「これから面談だよね?」
「うん、そう。五時半から」
あぁ、ちょっと今のは良くない。素っ気なさ過ぎたかも。
「お疲れさまー。あ! 聞いてよ! 俺昨日大変だったんだよ。面談後に職員室の前でばったり田中と会っちゃってさぁ。なかなか離してくんねぇんだもん」
「うわー。それは災難だったね。田中先生、榎本君のこと気に入ってるから絶対話しかけてくるもんね」
今のは多分、上手く言えた。
「ほんとなー! 俺、アイツにめっちゃ塩だよ! これでもかーってくらい塩対応してんの。なのに話しかけてくんの!」
大げさに肩を竦めて目を見開き、おどけて見せる。こんな風にわざとオーバーなジェスチャーをしてくれると聞いている方は笑いやすい。アハハと私が笑う。
「てかアイツ、教師からも好かれてないしな」
「え、そうなの? 誰情報?」
榎本君は教師からの人気も高いが、決して優等生ではない。教師のいないところでは嫌いな教師を少しだけ悪く言ったりもする。人間は自分と比べてあまりにも綺麗過ぎると感じるとそれを好きにはなれないらしい。榎本君はとても綺麗だが、綺麗過ぎない。だからこそ彼の周りにはいつも人が集まる。
そして私は、一年と少し彼と同じ教室で過ごして、彼が例えばクラスメイトやチームメイト、元恋人、彼に好きだと告白した人たちなど、私を含めた生徒側の人間を悪く言ったり、人の好きなものを馬鹿にしたり、頑張っている人を嗤ったりはしない人だと分かった。
仮に悪く言っている時があったとしても、それが私の耳に入ってこないということは、言う場所と相手を上手く選んでいる聡明な人なのだなと思う。
だから私は彼を、立ち回りが上手で要領が良く人望がある人だと認識していて、そんな部分を持つ彼を人間として尊敬している。
だからこそ、そんな彼の想いに応えることが出来ない自分に負い目を感じて、彼と関わる度に酷い自己嫌悪に陥ってしまう。
「この前の集会の時、田中が何回もマキちゃんに絡んで惨敗してたってハヤトが言ってた」
白い歯を見せて榎本君が笑う。爽やかでかっこいいと思う。この人なんで私のこと好きなんだろう。
ちなみに、マキちゃんは二十台後半の化学教師、牧原先生。女性。どうでもいいけど田中先生は三十代前半の男性の体育教師。若い女性教師に片っ端からアタックしていると生徒の中ではいい話の種になっている。
「体育教官室とか超寒いよ! 田中が一人でずっと喋ってる時、他の先生の顔死んでるもん」
榎本君は「こうよ、こう!」と言って、死んだ顔でタイピングする他の体育教師の真似をする。けれど爽やかオーラ満載の彼が死んだ目をしても、今一死にきれていなくて、それがちょっと面白かった。
なんてことのない話をしているうちに、真っ白な壁掛け時計の長針が四を過ぎて着々と五へと向かっていた。
「あ、そろそろ行くね」
「うん、分かった。頑張って。また明日」
「また明日。バイバイ」
右手を胸の前に挙げて榎本君に別れを言い、リュックサックを背負って教室を出る。
廊下を歩いて知り合いを見つける度に、相手が教室の中に居ようが外に居ようが勉強していようが誰かと話していようが「バイバイ」と言って軽く手を振る。
挨拶は好きだ。「おはよう」は「今日もがんばろう」、「バイバイ」は「今日もおつかれさま」。そんな意味だと思う。今日をちゃんと乗り切ってみんなえらい! というような労いの意味で私は「バイバイ」を使う。
いくつかの教室の前を通って、足元を見ながら二階へと続く階段を一段ずつゆっくりと下っていく。
「あ、青井さん」
下から聞こえた声に反射的に顔を上げると、声の主と目が合った。
「芳野君」
芳野隼人。元野球部。彼女アリ。榎本君の友達。榎本君が爽やか王子様なのに対し、芳野君はなんというか……チャラい。個人的にはサーフボードがサマになりそうだと思うので機会があればぜひ持ってみて欲しい。
「今帰り?」
「ううん、職員室。夏休みにある三者面談前の進路希望の確認のやつ」
「あぁ、アレか。担任の都合でちょっとズレたってやっちゃんが言ってたな」
やっちゃんとは榎本君のことだ。彼のフルネームは榎本弥一。
「梓ちゃんなら教室にいたよ。今日も一緒に帰るんでしょ」
早く行ってあげな、と付け足して再び足を動かし階段を降り進める。何段か降りたところで芳野君とすれ違う。その時、「あ」と小さく呟いて芳野君がまた話しかけてきた。
「そういえば青井さんって、去年の文法のテキストに付いてたちっちゃい冊子持ってる? 要点まとめましたーみたいなやつ」
「……持ってるけど」
仕方なく立ち止まって会話を続ける。
「やっちゃんが、『どっか行った!』って超焦っててさ。良かったら明日にでも貸してあげてよ」
「今、持ってるよ? 上行くなら芳野君が渡してくれれば今日にでも使えるし、早い方が良いんじゃ……」
リュックサックを降ろそうと肩ひもに手をかけると、芳野君はにんまりしながら少し声を大きくさせて言う。
「いやぁ、俺からより青井さんから直接貰った方がやっちゃん喜ぶし」
こんなようなことを言われ続けても尚、気が付かない人がいたら逆にすごいと思う。
「はぁ、そうすか。じゃあ、急ぐんで。明日渡しとくね」
左手首に巻かれた腕時計をちらと見てから曖昧な返事で会話を切り上げ、右手を軽く上げることでさよならの挨拶とする。芳野君から逃げるようにタンタンタンと階段を駆け下りる。一階まで降りて生徒玄関の前を過ぎ、職員室の入っている特別棟までの渡り廊下を渡っていると、ごく自然にため息が出た。「やっぱり、苦手だ」芳野君。
彼のあんな言動が、本気で私が榎本君の気持ちに気付いていないと思ってのものなのか、どうせ分かってるんだからゴリ押ししてやれと思ってのものなのかは分からない。
彼はどうして榎本君の気持ちを勝手に私にばら撒くのだろう。本人は望んでいるのだろうか。こういう言動が友達としての協力や応援のつもりなら、私にとっては逆効果なことに気付いて欲しい。そんなに何回も彼の「好き」を匂わせなくたって彼の気持ちは本人から直に伝わっているし、そんな状況でも彼に「人間として尊敬する」以外の何かを感じる予感すらないことに滅入っている私の気持ちも、一度でいいから考えてはくれないものか、と少し嫌気がさしてしまう。