紫陽花の咲く路の片隅で②
「何飲む?」
「えっ、や、自分で買いますよ!」
「まぁまぁ、良いって良いって」
そう言って彼女は五百円玉を自動販売機に入れて、口元に笑みを湛えたままこちらを見た。
ここで断るのも失礼だろうと「えっと」と言いながら自動販売機のサンプルを見比べる。
「あ、じゃあミルクティーで。冷たいやつ」
「りょうかーい!」
彼女が青く光るボタンを押すとガコンッと音がして小さいペットボトルが落ちてきた。「ありがとうございます」とわたしが取り出すのを確認すると、彼女は続けてレモンスカッシュのボタンを押す。再びガコンッと音がして先ほどミルクティーが落ちてきたのと同じところにアルミボトルが落ちていた。
取り出したアルミボトルの蓋を彼女が捻るとプシュッと炭酸の逃げる音がした。そのまま一口レモンスカッシュを煽る。「はーおいしー」とひとりごとを言う彼女の方からほんのりレモンの香りが漂ってきたような気がする。
わたしはペットボトルをカシャカシャと軽く振って底を確認する。まだ少し沈殿が残っているので再びカシャカシャと振って確認する。溶けたな、よし。
「わたし、この沈殿してるやつを溶かす作業がなんか好きなんですよね」
そう無意識に零して、やってしまった、と思った。
以前クラスメイトにこの話をしたら「めんどくさくない?」と嗤われたのだ。目の前で好きだと言ったのにそんな言葉を返されては笑って誤魔化すしかわたしには能がなかった。
何か別の話題を探そうと周りをキョロキョロしてみる。けれどそんなすぐに話題になりそうなものは見つけられない。先輩を横目で見るとレモンスカッシュを飲んでいる最中だった。
「じゃあさ、アレでしょ。良く振ってからお飲みくださいってやつ、失敗したことあんまりないんじゃない?」
缶から口を離した先輩が私に聞く。
びっくりした。やっぱり色々な人がいるんだなぁ。同じことを言っても返ってくる言葉はこんなにも違うのか。会話が続いたことが嬉しくてわたしは思わず笑ってしまった。
「そうですね。振っても大丈夫そうなのは大体振ってから飲んでるので。振らなきゃいけないやつを振らないで飲んだ記憶はないかもしれないです」
やっぱりー! と先輩が歯を見せる。
花屋から西にしばらく進み、少し入り組んだ道を抜けると林に隠れるように小さい公園がある。
公園とは言っても、ベンチが一つと水飲み場が一つ、そして自動販売機が一つあるだけの公園と呼ぶには寂しいものだ。まだ午後の五時前だというのにベンチしかないこの小さな公園には小学生はいない。どこの中学校からも特段近くはないので中学生もおらず、一番この公園に近い高校であるうちの生徒は、ほとんどが広い県道を使うがその脇の細い道の奥にこんな場所があることを知っている者はほとんどいないだろう。
飲み物を右手に持ち、自動販売機に背を向けベンチへと歩きながら、二人で会話の続きをする。
「あすかちゃんもこっち方面なの?」
うちの高校の生徒は、校門の前に伸びる県道の西から来るか東から来るかでまず二分される。先輩の言った「こっち方面」とは高校の西側に住んでいる人か、ということだ。
「あっ、はい。そうです。ここから北に自転車で二十分くらいです」
「そっかぁ。うちは南なんだぁ」
二人で並んでベンチに座る。二人して飲み物を飲む。……何を話せばいいんだろう。もう少し話そうと誘われた時点で嫌われてはいないと思うけど、この人が何を考えているのかが分からない。
ペットボトルに口をつけたまま、チラッと右隣を見ると青井先輩はぼんやりと前に目を向けていた。
すると突然、「あっ」と思い出したように呟いてレモンスカッシュを置き、先輩はカーディガンのポケットからスマホを取り出して操作し始めた。
「さっき撮ったガクアジサイ見る?」
わたしが口を開こうとするよりも先に、スマホの画面は既にわたしの方へ突きつけられていた。
右手でスマホを持つ先輩の左手はわたしの肩を抱いている。……いつの間に?
というかさっきから距離が近い。以前から気になっていた美人の先輩とこんなに密着していると、同性なのに緊張して少しドキドキしてしまう。なんかいい香りするし……。
「あ、綺麗……」
何回か先輩の指が液晶を右から左へ撫でた時、画面いっぱいに大きく写った青に惹かれた。小さい青の周りに大きく咲いた深い青。所々が紫とのグラデーションになっていたり、青が濃くなっていたり、逆に薄くなっていたり。
「綺麗だよねぇ。丸くてボリュームのあるホンアジサイも好きなんだけど、どっちかって言うと私はこっちの方が好きなんだぁ。なんだろうなぁ、なんか儚いっていうか、脆そうっていうか。そういう感じが好きでさ」
「……なんか、分かる気がします」
わたしは画面を覗き込む先輩の横顔を見つめながら頷いた。
ほんの少しの沈黙のあと、わたしが先に口を開く。
「先輩の好きなものって他に何がありますか?」
好きなものの話は知り合ったばかりの間柄でも、親しい間柄でも鉄板の話題だ。嫌いなものの話をするよりずっとずっと楽しい。相手の好きなものをわたしが知らなくても、その人が楽しそうに話しているのを見ていると、本当にわたしもそれを好きなように思えてくる。実際、その後に調べて好きになったこともある。
「好きなもの、か……」
先輩は画面を黒くしたスマホを太ももの上に置いて腕を組み、うぅんと唸っている。
「……音楽とか、映画とか、小説とか、漫画とか、食べ物とか、動物とか。何かありますか?」
「あ、音楽はねぇ、邦ロックが好きだよ! 本はあんまり読まないんだけど、漫画は熱いバトル物が好き! 読むのは少年漫画が多いかなぁ。あ! そうだ! うちの猫! 本当に可愛いから見て!」
私の質問に順番通り答えてくれた彼女は、「食べ物は味噌ラーメンが好き」と、再びスマホの画面をわたしに向けた。
そこには上目遣いでこちらを見つめる、艶々の真っ黒な毛並みに黄色い目をした猫がいた。
「かっ……!」
あまりの可愛さに顔が歪むのが分かった。無意識に口元を右手で押さえる。その状態のまま先輩の方を向くと、彼女は満面の笑みでこちらを見ていた。
「可愛いでしょ」
そう言ってニコッと笑う目の前の彼女もとてつもなく可愛らしい。わたしが素早く五回ほど頷くと、彼女は満足そうに目を細め、飼い猫の話をしてくれた。
「玄っていうんだ。玄冬の玄。青春、朱夏、白秋、玄冬の。冬に出会った黒猫だから」
猫の名前の由来を聞いて、中学一年生の時、青春という言葉の意味を調べたことがあったなぁと思いだした。
***
中学校に入学したばかりのわたしは、周りの人がやたらと使う「青春」という言葉に飽き飽きしていて、ふと「春が青いなら他の季節にも何か色があるはずでは」と思い、手始めに青春という言葉を辞書で引いた。
しかしそこには、どうして春が青いのかは載っていなかったので、国語の担当教師に授業後、聞きに行ったのだ。
その日の授業には全く関係のないわたしの質問を受けてその人は、陰陽五行説というものがあるのだと教えてくれた。
「古代中国における、万物は五つのものから成る、という説でね」
先生はそう言って、少し大きめの薄いピンクの付箋に黒いボールペンで、木、火、土、金、水と左から右に向かって書いた後、その下にそれぞれ青、朱、黄、白、玄と書き、さらにその下に春、夏、土用、秋、冬と書いた。
「季節とか色だけじゃなくて、方角とか神獣とかがそれぞれに充てられていて、風水とか占いとかにも使われていてね。乙津さんが質問したように、春以外の季節にもそれぞれ色が充てられているんだよ」
春以外はなんて言うんですか? というわたしの二回目の質問にも先生はにこりと微笑んで答えてくれた。
「朱夏、白秋、玄冬。玄は黒色のこと」
***
青と朱と白は持っていた色鉛筆にあったのに玄だけがなくて、少し寂しい気持ちになったことを覚えている。
それ以来、玄という漢字は寂しい印象が強かったけど、この猫の写真を見ていると、それとは真逆の温かい気持ちが湧いてくる。家族から愛されていて、この子自身も家族のことが大好きなんだなぁとハッキリと見て取れる。そんな写真がたくさんあって、そんな写真しかなかった。
先輩は玄がオスで、中学二年生の冬に母親と行った保護猫の譲渡会で出会ったこと、そこで彼に一目惚れして頑張って猫の飼い方を勉強したこと、どんな名前にするか一週間学校にいる時も悩んでいたこと、水を飲んでもらうために何度も試行錯誤を繰り返したこと、玄についての色々を笑顔で教えてくれた。
「それにしても、あすかもこの公園知ってたなんてねぇ。うちの高校には知ってる人いないと思ってたよ」
「ここらへん、先輩の中学の学区内ですもんね。道も結構入り組んでるし」
「そうそう。ベンチと自販機しかない公園って言ったら、知ってるって言うんだもん。ちょっと驚いたよ」
「まえーに自転車乗りまわしてたら偶然見つけたんですよ。ほんと、たまたま」
二時間も経たない間に先輩とわたしはかなり距離が縮んだと思う。その証拠と言っては何だけど、彼女はわたしのことを既に名前で呼び捨てにすることに決めたらしい。
午後七時を回ったところで先輩が「そろそろ帰ろうか」と腰を浮かせた。「そうですね」とわたしも返し、残りのミルクティーを喉に流す。
自動販売機横のゴミ箱に空になった容器を捨て、公園の入り口に停めていた自転車の方へと歩く。
少し前にレモンスカッシュを飲み終わして缶を捨てていた先輩は、黒い自転車に寄りかかっていた。
「あ、ねぇ。連絡先交換しようよ」
カーディガンのポケットからスマホを取り出して操作し、彼女はSNSのQRコードをわたしの方へ向けた。わたしがそれをスマホのカメラで読み取ると、ポコンと軽快な音がして彼女のアカウントが表示される。アイコンは玄の横顔だった。
「あの、先輩。るかってどんな字ですか? わたし、登録するとき本名フルネームで統一する派で」
尋ねると先輩は快く教えてくれた。
「流れる、に花だよ。草花の方の花」
彼女はわたしが真横に傾けたままのスマホの画面を反対側から覗いて、一緒に確認する。青井に続いて流花、と打つと「そうそれ」と頷いた。
わたしがスマホをリュックサックの中の小さいポケットに入れている間に先輩は自分のスマホをしまい、黒い自転車に跨っていた。わたしも自分の自転車に跨る。
「今日は楽しかったよ。学校でも外でも会ったらいつでも声かけて。私も見かけたら声かける」
「わたしも楽しかったです。でも、もっと早く声かけてみれば良かったです。先輩話すのあんまり好きじゃないのかなって勝手に思ってました」
アジサイに見入る先輩に声をかける前までの彼女のイメージを素直に本人にぶつけると、「私そんなイメージだったの?」と先輩は目を糸のように細め、困ったように笑った。
「じゃあ、また学校でね」
「はい」
「バイバイ、あすか」
「さよなら、先輩。また学校で」
先輩と別れておよそ二十分だらだらと自転車を漕ぎ、自宅の扉を開けて「ただいまー」と言う。返事がないので料理中か、と台所に顔だけ出して二回目の「ただいま」を言うと母から「おかえり」と返ってきた。
洗面所で手首までを石鹸でしっかりと洗い、うがいまでしてから二階へと上がる。
リュックサックを勉強机の上に置き、着ていたブレザーをハンガーに掛ける。暑くなってきたから、もうそろそろブレザーはいらないかもな、とぼんやり考えていると、雨粒が屋根に弾かれる音がした。
「あ」
雨だ。