紫陽花の咲く路の片隅で①
幼い頃から、雨が好きだった。どんなに大声を出しても全てが曇天の彼方に吸い込まれていく気がして、それを怖いと思う感覚よりも、それに守られているようなじんわりとした安心感の方がずっと大きかった。
雨の日は、いつ止むかも分からないそれを屋内で待つことしか出来ない自分が、世界にとっていかにちっぽけな存在であるかを再確認させられているようにも感じられた。
わたしはその優しい押し付けが大好きだった。
***
学校からの帰り道、広い道路の左端で自転車を漕いでいると、小さい花屋のすぐそばに停められた黒い自転車と見覚えのある人を前方に発見した。
自転車を歩道の脇に停め、小走りでその人に近づき話しかける。
「青井……るか先輩、ですよね?」
そう確信しているのに、とりあえず確認することって、たまにある。会話を繋ぐための方法の一つだと思う。時間割の変更を把握しているのに、好きな人に「明日の二時限目って数学だよね?」とわざわざ聞くようなアレ。
もっとも今回の相手とは恋人関係になりたいわけではなく、純粋に人として興味があるので友人関係になりたい。叶うのならば、の話だけれど。
突然現れた知らない後輩に自分の名前を出されると、その人は目を丸くして「えっ」と小さく呟いた。
青紫色の花をちらほらとつけたアジサイの前で、スマートフォンを横向きにしてその写真を撮っていた彼女は、わざわざわたしの方に向き直ってくれた。
わたしたちの通っている高校にはもっと花をつけたアジサイがたくさん咲いているのに、どうしてわざわざ学校の外のものを撮っているのだろう。
手にしていた、カメラの付いた電子機器をネイビーのカーディガンの右側のポケットに丁寧に入れる。その重さの分、ほんの少しカーディガンの右側だけが長くなった。
頭の後ろの高い位置で一つにまとめられた、色素の薄い長い髪の毛が肩に垂れている。ネイビーの濃い色に彼女の髪は良く映えていた。
右手をポケットに添えたままわたしの目をじっと見つめる彼女は、ふっと左手であごを軽く触って申し訳なさそうに首を傾げる。
「そうだけど……。えっと……?」
「乙津あすかって言います。先輩とは違う中学ですよ。委員会が一緒だったとかの接点もありません」
そう答えると彼女は肩の力を抜き、少しホッとしたような表情を見せた。本当は顔見知りなのに自分だけが一方的に忘れていた、という可能性が潰えて少し安心したのだろう。
それから「ん?」と眉をひそめて訝し気な表情をつくり、再びわたしに尋ねる。
「接点ないのに、どうして私のこと知ってるの?」
野暮な質問だとは思ったが正直に答えておく。
「以前から気になっていたんです。先輩、綺麗だから」
これは嘘ではない。この青井るかという人物の外見が、世間一般的に恐らく綺麗な人と呼ばれる部類に入るだろうことも、それこそがわたしが彼女を気にしだしたきっかけだということも。
わたしが、綺麗だから、と言った瞬間、彼女がひそめていた眉にほんの少しだけ力が入った。もしかすると容姿についてあれこれ言われるのが苦手なのかもしれない。
他人からすれば褒めるべき長所でも本人にとっては苦痛なこともある。念のためにこの話題はやめておこう。
一年以上も前、高校に入学して間もなくの頃、わたしは校内にその姿を見つけ感動に近いものを感じた。
何度も何度も声を掛けようとはしたのだが、どうやって話かければいいのか分からず遂に今日まで来てしまった。
そんな人が学校の外で一人でいるところを発見したのだ。これは千載一遇のチャンスと思いかなり勇気を出して、現時点で話しかけることにはなんとか成功した。今日はご褒美にコンビニスイーツくらい買ってもいいと思う。
端的に言うと、彼女はわたしの憧れだ。彼女を初めて見た時、その美しさに私は釘付けになった。
綺麗だと思うと近付きたくなるのは人間の定めだと思う。それがどんな感情であろうと。
目を引くその端麗な容姿はさることながら、纏う空気がどこか他人とは違うのだ。誰かとどんなに楽しそうにしていても、彼女の周りの空気だけがどこかぼんやりとしていて、その姿はすぐにでも世界に溶けて消えてしまいそうな気がした。
特に彼女が一人でいるところを見ると、彼女は確かにここにいるのに、本当はいないのではないか、わたしの幻覚ではないのか、とたまに錯覚してしまいそうにもなることもあった。
妖精みたいだな、と思った。他人にそう思わせるほどのそんな彼女の儚さを。深窓の令嬢ならぬ深窓の妖精だ、と。
関わったら飛んで逃げてしまいそうな、関わらなければいつの間にかいなくなってしまいそうな。
彼女の大きな右目の下で居心地悪そうにちょこんとしている小さな涙ぼくろのせいか、わたしには彼女がいつだって泣いているように思えてならなかった。
実際に彼女が涙を流しているところを見たことはないが、だからと言って笑っている顔を見たことは一度しかない。
わたしはそんな彼女に笑ってほしかった。わたしの目の前で。
「突然話しかけてすみません。乙津あすか。二年四組、帰宅部です。先輩とずっと話してみたかったんです」
ずっと気になっていた人を前にして、嬉しさ由来の興奮が体を包み込んで手足の指の先までが熱い。
わたしの、人生を生きやすくするためのライフハックの一つに、「初対面で少し変わった奴だと思ってもらう」というものがある。ゆっくりその印象を周りに植え付けるのもいいが、初対面で相手にそれをインプットさせてしまう方がずっと手っ取り早い。
初対面で誰に対しても全肯定な態度をとってしまうと、少しでも調和がとれなくなった時、あっという間にその関係は破綻してしまう。
その点、アイツは少し変わっていると思われていれば、うっかり喋った本音が周りに受け入れられなくても「アイツは変わってるから」で済む。したくないことを強制されそうになって逃げても「アイツは変わってるから」で難を逃れられる。どうしても集まりに参加したくなくて有り合わせの適当な理由で家に帰っても「アイツは変わってるから」で終わる。
わたしはこれを覚えてから、以前よりいくらか息をしやすくなった。
「……私、別に面白い人間じゃないと思うけど」
先輩は、突然現れて口説いてきた謎の後輩に若干引きながらも会話を続けてくれた。
「先輩がおもしろくないかどうかは話してからわたしが決めます」
意識的にニッコリと笑って先輩に近づく。ほんの少し彼女が後ずさり、横を向いて小さい溜め息を吐いた。最後まで息を吐きだす前に彼女の口が動く。
「分かった」
妖精と話すお許しをいただけた! やった!
嬉しさを隠しきれず緩む口元を左手の手のひらで隠して先輩に話しかける。
「アジサイ、好きなんですか?」
さっき撮ってたから、とわたしから見て彼女の左側に当たる場所を右手の人差し指で指す。
あぁ、と明るい声を出してから彼女はアジサイに向けて小さく微笑んだ。
あ、笑った。と密かに胸を高鳴らせていると、彼女は先ほどの私の質問に答えてくれた。
「好きだよ。特にアジサイがっていうよりは青い花が好き。かな」
「じゃあ、ピンクのアジサイは好きじゃないんですか?」
彼女の見ているアジサイを見やり、質問を重ねると彼女はまた答えてくれた。
「そうだね。ピンクはそんなに好きじゃないかも」
なんとなく首を右に回すと、彼女もちょうどわたしの方を向くところだったようでバッチリと目が合い、それがなんだか楽しくて笑いだすと、彼女もつられて笑った。
え……。こんなに簡単に笑ってくれるの? こんなに簡単に目標達成出来ちゃっていいの? わたしのイメージ間違いだらけじゃん! なにが深窓の妖精だ!
あまりの呆気なさに行動を起こさなかった自分の一年間を悔やんだが、今、話したい人と話せているのだからまぁいいかと納得させる。
「あ、そういえばこのアジサイ禿げてません?」
学校のそれと比べると随分ボリュームがない。本当にどうしてこんなものを撮っていたのだろう。
わたしが笑いながら再び指さしでアジサイを示すと、彼女は突然吹き出し、お腹を抱えながら大口を開けてアハハッと笑った。
ほんの少し前までは笑顔を見ることが出来たと喜んでいたのに、その対象がいきなり大口を開けて笑うところまで見れてしまった。こんなにツイている日があっていいのか……?
どうして笑われたのかが分からず眉を寄せると先輩が肩を小刻みに震わせながら教えてくれる。
「それっ! そういう品種……っ!」
えっ! そうなの? ぽかんと口を開けて先輩とアジサイを交互に二回ほど見る。
そんなわたしを見て、またひとしきり笑ってから息を吐き出し、先輩は続ける。
「ガクアジサイっていうんだよ。私もはじめはそんな風に思ってたなぁって、思い出して」
彼女の笑顔を間近で見て改めて、綺麗だ、と思った。久しぶりにその笑顔を見て、わたしはなんだかあったかい気持ちになった。
「うちの学校にもアジサイはたくさん咲いてるんだけど、ないんだよね。ホンアジサイしか」
種類が違うからわざわざ自転車を停めてまで見ていたのか。新しい知識を頭に染みこませるようにウンウンと頷いていると、ふと彼女の肩越しにいくつかの青い花が見えた。
花屋の店の前に建てられた運動会などでよく見る白いテントの下に、色々な種類の花が置かれている。
わたしはそちらを指さして先輩に尋ねた。
「他の青い花だとどれが好きですか?」
***
テントの中には、思ったよりもたくさんの花が置いてあった。青い花も、思ったよりも置いてあった。
ニゲラ、ネモフィラ、ワスレナグサ、ブルースター、ブルーデージー、デルフィニウム。
「……結構あるんですね」
バラバラに置かれた青い花たちを見渡して先輩に話しかける。
「ねー。私も驚いた。こんなに置いてあるんだね」
てっきり先輩は花に詳しいのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
テントの中で紙に書かれた花の名前を見ては、時々「この花こんな名前なんだー」と言っていた。
「先輩はこのテントの中だと、どれが好きですか?」
そう聞くと彼女は、んー、と小さく唸ってしばし考えこむ。
かなり迷っていたので、先にわたしの気に入った花を言ってしまおうかなと、「わたしはねぇ」と言って人差し指を立てた右手をゆらゆらさせる。
「これ」
わたしがゆらゆらさせていた右手で、目の前の花を指さすと先ほどまで悩んでいた彼女も同じものを指さしていた。
目が合って、彼女が先に口を開く。
「やっぱり、いいよね。デルフィニウム」
フフッと嬉しそうに笑うその人を見て、今までわたしが遠くから見ていた彼女とは別人なのではないかと思えてしまった。それこそ妖精が成り代わっているかのように。
「はい。初めてちゃんと見た気がするけど、わたしも好きです。この花」
頼りない細い茎が枝分かれした先に、いくつかの淡い水色の花がふわっと咲いている。濃い緑色の葉は、手のひらのようにその先が分かれていた。
テントの中でその花を見つけた時、わたしは思わず見惚れてしまった。あぁ、綺麗だなぁ、と。いいなぁ、と。
先輩と二人で少しの間デルフィニウムを眺めていて、つい思ったことをそのまま口に出してしまった。
「この花になりたい……」
ハッとして隣を見ると先輩がぽかんとした顔でこちらを見ていた。そりゃそうだ。今日初めて存在を確認して初めてちゃんと話した後輩が「花になりたい」と突然のたまったのだ。そんな顔をしたくもなるだろう。
「いやっ……! その、何と言うか……。こんなに綺麗なんですよ! そこにあるだけで癒されるというか……! 幸せな気分になるじゃないですか!」
少し変な奴、と思われる分には構わないが、メルヘン電波の不思議ちゃんと思われるのは遠慮したい。誤魔化そうとしたけど、焦って余計に変なことを言ってしまった気がする。
自分の失態に居た堪れなくなって両手のひらを頬に当て上下へ引っ張ったり、左右に伸ばしたりして気を紛らわそうと試みてはみたものの特に成果は得られなさそうだった。
恥ずかしさからそのままの態勢で体を前後に揺らしていると、隣にいた先輩に急に頭を押さえられた。
何だと思い頬から手を離して右を向くと、彼女の細い指先がわたしの頬に触れていた。かと思うとぐりぐりと両手を使い私のほっぺたを触りまくる。
「え! なに! 何ですか!」
突然のことに戸惑うわたしを置いて彼女は「柔らかーい」と言って楽しそうに笑い出した。妖精、人懐っこすぎでは……。
他人にほっぺたを触られているのに全然嫌な気がしない。むしろなんだか心地いい。
「あんた、だいぶ変だね」
いえいえあなたほどでは、と言いたかったが先ほどの自分の発言を思い出し、口を開くことが出来なかった。
ニヤッと歯を見せて笑う彼女は、想像していた深窓の妖精とはかけはなれていたけれど、やっぱりとても綺麗だと思った。
しばらくわたしの頬を弄りまわしたあと、彼女は「あー。楽しかった」と言って満足げに手を離した。
さいですか。
「ねぇ、喉乾かない? もうちょっと話そうよ」
そう言って彼女は少し屈んで首を傾げ、わたしの目を覗き込んできた。