月は綺麗ですか?②
「ほい、どっちがいい? ミルクティーとココア」
ふいに頭の上から声が聞こえた。条件反射で見上げると声の主はわたしの目をまっすぐに覗き込んできた。その姿を見て全身の力が抜けた。抜けたということは今まで気を張り詰めていたということだ。彼女の顔を見るまでは。
「んで、どっち?」
ハッとして目の前に差し出されているものを見る。ペットボトルが二つ、彼女の右手と左手にそれぞれ一つずつ納まっていた。
「え! や、でも……」
「いや私二つも飲めんし」
そういって苦笑した先輩はわたしにミルクティーを押し付ける。
「こっちあげる。今の私はココアの気分」
ありがとうございます、と言い終わる前に彼女がココアの蓋を開ける。パキッと小さい音がした。手首を僅かに傾けて中身を一口飲み込んだ。んーん、とゆるりと首を左右に振った。
「……なんで、来てくれたんですか? こんな夜に、わざわざ」
ふ、と柔らかく口角をあげて彼女が微笑む。先ほどから目が合わないのは、彼女がわざと逸らしてくれていたのかもしれない。ベンチをペットボトルで指して、移動しながら彼女は答えた。その後に私も続く。彼女とわたしの間の数歩の距離がなんだかものすごく遠いもののように感じた。わたしが隣に落ち着くのを待ってから彼女の口がゆっくりと開いた。
「来て欲しかったんじゃないのー?」
「……別に、声が聞けたら充分だったのに」
その言葉に嘘はない。声だけでも聞けたら本当に満足だったのだ。眠れる気がした。何でもないくだらない雑談の最後に「おやすみ」と言って欲しいだけだった。それならいつもの調子でねだれる気がした。
「でも、会えてよかったでしょ?」
言われて、喉が締まった。口を開けば涙が零れてしまいそうで何も答えられなかった。ああ、でも何か、何でもいいから返さないと。そう思うのに。なんにも上手く出来ない自分が不甲斐なくて、情けなくて、気が付いたときには遅かった。
一粒零れ落ちるともう止まらなかった。「めんどくさい」って思われたくなくて口を噤んだのに、これじゃあ意味がないじゃないか。
流した涙が乾いたばかりで引きつっていた頬に、再び涙が筋になって目から溢れた。背中に、触れるように添えられた手が嬉しかった。
そうやってしばらく泣いて、でも涙が止まらなくて、彼女がミルクティーをわたしの手から取り蓋を開けてくれた。頷いて口に含むと砂糖の甘さがいっぱいに広がり喉の奥が痛んだ。
そんなわたしの様子を横で見ていた彼女が首を傾けて、しっかりとわたしの目を覗き込む。体中から飛び出そうとする抑えきれない感情をどこに吐き出したらいいか分からなくて、目の前の彼女に抱き着いた。いつもより強い彼女の香りが胸の中を一杯に満たし、さらに目頭を熱くした。
ゆっくりと上下する手のひらのあたたかさが、汗で冷えた背中の強張りを順々に解いてくれるようだった。
「ねぇ、先輩。星が、綺麗ですよ」
聞こえなくてもいい、と思いながら掠れた鼻声で零した。
ほんの少し間が開いて、彼女が空を見上げた様子があった。フフッと短い笑い声が聞こえたあと、女性にしては低く柔らかい声が耳に届いた。
「何言ってんの。月も綺麗でしょ」
思わず頬が緩む。そう来るか。ずるいなぁ。でも、そうか。伝わらなくていいと思ったのが嘘みたいだ。相手に届くとこんなに嬉しいものなのか。隠しきれないにやけ顔をそのまま隣に向けた。
「……先輩こそ、何言ってるんすかぁ」
「……知ってたんだ。まぁ、あんたと私じゃ恋愛には発展しそうにないけど」
からかうような明るい声。……いつもの、先輩の喋り方だ。
この焦燥感が恋だというならわたしは今この瞬間に失恋したはずだけれど、残念ながら直前の言葉は胸に痛みをもたらさなかったので、もっと面倒くさい感情なのかもしれない。そう思うと。
「……恋ならよかった」
「……何が?」
「わたしの、先輩への、きもち」
「……ふふっ、ちょっ、恥ずかしいんだけど。なになに急にどした?」
「だって、だってさぁ……、恋なら諦めきれるじゃん。痛いのは今だけかも。もし次がなくても、あるって言い聞かせられるじゃん」
……あれ? 返事がない。さっきまでのテンポのいいやり取りが崩れた。不思議に思ってちらと隣に視線をずらす。学校とは違う、結っていないつやつやの色素の薄い髪が彼女の横顔をほとんど隠してしまっているので表情は分からない。
「はぁ? 本気で言ってる?」
突然彼女の顔が視界から消えた。立ち上がったからだ。そしてその勢いのまま罵られた。……正直、かなり驚いてしまった。
「なに? あんたは私と縁切りたかったの?」
呆気に取られて固まっていると、先輩の目に涙が滲み、でも瞬きをすると最初からなかったみたいに消えた。
「……そっちから来たくせに勝手に逃げないでよ。離れないでよ。……やめてよ」
初めて見る表情に思考が止まる。どうしてわたしは大好きな人にこんな顔をさせているんだろう。
「ち、違うっ……」
本当に違うのに、それをどういえば伝わるのかが分からなくて悔しい。言葉に詰まった分だけ涙は溢れ、一秒があっという間に過ぎていく。彼女の代わりなんているわけがない。誰かに務まるはずがない。でも、先輩は私とはあまりに違う。
彼女は大人ともうまく会話をする。大学も推薦でほぼ決まったって言っていたし。私にはできないことばかりだ。持っていないものばかりだ。できそうにないことばかりだ。だけどこんなどうしようもない根暗な私にも、対極にいるような私にも笑顔で話しかけてくれるんだ。二人きりで会って喋ってくれるんだ。「つまらない」って足蹴にされがちな私の話も最後まで聞いて「よかったね」って笑ってくれるんだ。いつも、この人は。
正直、私一人いなくなったって彼女の世界は何も変わることなく綺麗にくるくると回る、ように思う。それが想像できてしまうほど、この人と私との社会を生きる人間としての距離が圧倒的で、この人みたいになりたいのに、一生かかってもなれる気がしなくて、それでも諦めきれなくて、だから、嫌われたくなくて、嫌われるのが嫌だから。この感情が思慕じゃなく恋慕だったら、彼女が求めているのは私じゃなかった、そう言って自分と、自分が知らない彼女の大切な人たちとを勝手に比べて勝手に絶望しなくて済んだのにって。だから……。
「……私は、先輩みたいに、なりたかったの」
あなたの隣に堂々といられるように。
だけど彼女をおざなりにしたように思われてしまっているかもしれないことが嫌で、突き放されるかもしれないと思ったら急に怖くなって、また涙が込み上げてきた。ベンチの上で抱えた膝におでこをつけたまま、なんとかして、絞り出すように言う。
「いっ、いまっも、そう、おもって、るっの……!」
だけど声が裏返ってうまくしゃべれないし、途切れ途切れになってしまって何を言っているのかも伝わらなさそうだし、感情がぐちゃぐちゃで自分のことなのに分からない。伝えられた言葉と口に出す前に自分の中で削ぎ落とされた言葉の区別がつかない。
泣きすぎて目は痛いし、嗚咽が止まらなくて吐きそうだし、最悪だ。特にこの人には迷惑をかけてばかりだ。嫌なところ全部、情けないところ全部、さらしてしまう。この人の前だとボロボロと汚いところが全部出てしまう。嫌われたくない人に限って、汚い自分ばかり見せてしまう。情けなさに逃げ出してしまいたかった。
「誰もあなたにはなれないんだよ」
「……へ?」
なんとまぁ間抜けな声が出てしまった。先輩が急に突拍子もないことを言うからだ。わたしの声には構わず「だから」と彼女は続けた。真剣な表情に背筋が伸びた。
「そんな寂しいこと言わないで」
「小さい頃にね、会った子に言われたんだ。なんか忘れられないんだよね」
にっと歯を見せて笑う先輩は、やっぱりいつも通りに眩しかった。
「馬鹿だなぁ。私は、あすかがあすかだから好きなんだよ。もし私みたいのになっちゃったら友達やめるからね」
そういってわたしの頭をわしゃわしゃと撫でまくる。犬にでもなった気分。言ったことはないけれど、わたしはこの少し乱暴な撫で方が大好きだ。たまに片手でほっぺたをムニムニされるのが大好きだ。満足するまで撫でたあと、普段の、言い合いをしている時の彼女からは想像できないくらいに優しく微笑む、その瞬間が大好きだ。
「ほんっとうに、お馬鹿なんだから! もう、ほんっとうにかわいいなぁ!」
そう言われて強く抱き締められた。
彼女に馬鹿と言われるのが好きだ。きっと彼女は「馬鹿」を「愛しい」の意味で使っている。そんな気がする。そう思う。愛されていると思うのは調子に乗り過ぎだろうか。
わたしの目から溢れた涙が彼女のパーカーに吸い込まれて元の生地の色より何段階も濃い色に染めていく。鼻腔をくすぐるレモンのシャンプーの香りがいつもより強く、けれど優しく感じられた。
嗚咽が止まってわたしから離れるまで、彼女はずっと、ぎゅっと抱きしめてくれていた。
初めて自転車で二人乗りをした。彼女と過ごす夜の空気はなんだか柔らかくて思いっきり肺に取り込んでみたくなった。
実際にそうしてみると、今度は吐き出してしまうのがもったいなくて何だかまた涙が込み上げてきてしまった。視界を流れる街灯がキラキラしていてなんだか綺麗に見えた。両腕に込める力を強めて、彼女の背中に顔をうずめた。
「来てくれてありがと」
聞こえたのか聞こえていないのか分からない生返事が前方から飛んできた。どうせ聞こえているくせに。
二人きりの静かな町。厚い雲が覆う夜の空の下。