空蝉①
「先輩昨日、死にたくなったことがない人は珍しい、みたいに言ったじゃないですか。わたし、思うんですよ」
ほどほどにうるさくにぎわうラーメン屋で、私は味噌ラーメン、彼女は醤油ラーメンを頼んだあと、コップに入った水を一口飲んで、平淡な口調で彼女は言う。
「死にたい人の大体は本当に死にたいわけじゃなくて、生きるのが辛いだけなんじゃないのかなって」
「……その二つは、何か違うの?」
分かったような気もするし、分からないような気もする。いや、やっぱり分からない気がする。この子は何を言いたいんだろう。生きるのが辛いから死にたくなるんじゃないのか。ほとんど同じ意味に思える。
彼女の言葉の意味を考えながらリュックサックからペットボトルのレモンティーを取り出した。
飲みながらちらりと見やると、目の前の少女は言葉を練るように眉をひそめ、くっつけた唇をしきりに左右に動かしている。閉じたままの口の中から「んー」と音を出してから口を開いた。
「ええと……、何て言えばいいんだろう。……死にたいって、何かしらの原因があっての欲じゃないですか。生きるのが辛いっていうのはまさにその原因そのもので、だから、その二つはイコールじゃなくて……」
左の手のひらをおでこにくっつけたまま唸る彼女の細められた目には一体何が見えているというのだろう。
「何か悪いことがあったとして、真っ先に思うのって『死にたい』じゃないと思うんです。でも、他に方法がないから結果『死にたい』になるんだと思うんですよ」
「……方法?」
「何かがあって、じゃあどうしようかってなった時に、一番最初に思うのって『消したい』じゃないですかね? その事実ごと。でも、出来ないじゃないですか、そんなの。どう足掻いたって。だから、その対処法のうちの一つとして死を選択肢の中に加えている人が結構多い。だって、自分の意識をなくすことがその状況から逃げるのに一番手っ取り早いから」
「……そうだね」
「その人が死んでから『逃げれば良かったのに』なんて言う人もいますけど。……きっと、わたしも思っちゃうんだろうなって思いますけど。それは自分の逃げ道がどこにあるのか、なんとなくでも分かってる人じゃないと言えないと思うんです。だって、本気で死のうとしてる人って『逃げる』なんて選択肢、きっと自分から捨ててる」
私は「ん」と相槌にもならない相槌以外は何も言えずに、ただ頷いた。
「でも、実際に死ぬ人ばかりじゃないよ。みんな、どこかで押さえてる」
「ですね。死ぬことよりも、その状況で生き続けることの方がずっとしんどいのに、それでも生きてる人はえらいと思います。かなり」
そう言うと彼女は、無糖のコーヒーかと思って飲んだら砂糖もミルクもがっつり入っていたときのように眉と口角を片方ずつ僅かに上げた。
「わかんないよ。ただの惰性かも。死ぬ勇気がないだけじゃない?」
「それでも、えらいです」
あすかの言葉に瞬間的に詰まり、ほんの数秒沈黙が下りたとき、タイミングよく店員が両手に丼を持って「お待たせしました」とテーブルの脇に立った。
「醤油ラーメンのお客様」
私たちを交互に見ながら店員が右手の丼を少し上げた。彼女が軽く手を挙げて「はい」と零すように言う。
店員はにこりと笑って頷くと、右手の丼を彼女の前に、左手の丼を「味噌ラーメンになります」と私の前に躊躇なく置き、滑らかに言葉を発した。
「以上で注文はお揃いでしょうか?」
「あ、はい」
三つは年上であろう、ハッキリとしたメイクが似合う女性に向かって同時に頭を下げる。
「ごゆっくりどうぞ」
伝票を裏返しで置いた女性は少し前に店から出た客のテーブルをまわり、空になった丼を慣れた手つきで回収していく。
「……食べよっか」
「そうですね」
麺が伸びる前に食べてしまおう。割り箸を二膳取り、一方を彼女へ渡した。ありがとうございます、と小さく頭を下げる彼女の声はどこか上の空のようだった。
レンゲを使い、スープを啜る。水で冷やされた口内の温度が一気に上がって体中から汗が噴き出す準備を始めたようだった。
両手で引っ張って割った箸で掬った中太麺に息を吹きかけて、冷ます途中に正面を見ると、彼女は上手く割れなかった割り箸でメンマを掴んでいた。
黙々と食べ進める二人の間にはほとんど会話はなく、そのせいか隣のテーブルに座る男子高校生たちが再生している動画の音がよく聞こえた。音量はかなり控えめだが、店内のテレビに映る野球中継に負けないくらいの盛り上がりだった。
鼻をズッとすする。ラーメンを食べているせいだ。顔に湯気がかかって熱い。リュックサックからタオルを取り出し、拭いた。
「あーつーいー!」
そんな私を見て彼女が笑う。昨日の放課後に見たそれと同じ、じんわりと柔らかくて
あたたかい笑顔だった。
***
ラーメン屋を出てからもなかなか汗が引かないので自転車に乗っていつもの公園へと走ることにした。道中、照りつく太陽からの逃げ道はないけれど着いてしまえば木陰で涼める。
蝉の声がまだまだ轟く公園の入り口に自転車を停め、二人並んでベンチに腰掛けた。
溜め息に似た深い呼気が二人分聞こえた。
ふと思い出したように、あすかが視界の外に駆けだしていった。糸で繋がれているような気持ちになりながら、つられてそちらを向く。
彼女は自動販売機の前で真剣な顔をしていた。横顔でもわかるくらい口がへの字になっている。
顎に手をあて、吟味している姿を見ていると、なんだか小学生に戻ったような気分になってくる。
しばらく悩んでいた彼女がおもむろに光るボタンを押し、ガコンと音がした。制服のスカートの端をふわりと浮かせてしゃがみこんだその手に握られていたのは強炭酸のソーダだった。
「先輩も何か飲みますー?」
振り返りざまに聞かれて、僅かに腰を上げる。だけどすぐに鞄の中のレモンティーを思い出した。
「んーん。大丈夫!」
片手をひらりと首あたりで振る。彼女は軽く首を傾げたあと、ゆったりと戻ってきた。
プシュッと炭酸が抜ける音が隣で鳴る。夏にこの音を聞くと、なんだか脳が溶けていくようだ。気持ちいい、と思い目を瞑った。
木陰のベンチはひんやりと冷たくて思わず手を滑らせる。近くの林を抜けた風が体を撫でた。彼女の口からぽつりぽつりと零れる小さな歌声をずっと聞いていたいと思った。
実際にはほんの短い時間だったのだろう。いつのまにか蝉の声が耳の奥に遠ざかり、聞こえなくなった。彼女のメロディーだけがするりと体の奥まで染み込んでいき、じわりと何かを溶かした。