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鳥にでもなりたい  作者: 高場柊
10/14

夜空の華④

 彼女のメッセージに返信した時、彼女は既に自販機とベンチしかない公園に向かっているところだった。


「先輩、今日は勉強しなくていいんですか」


 通う高校の真東にある駅から三十分、ほとんどノンストップでペダルを漕ぎ続けた。息を整えるのにたっぷり時間を取ってから受験生に一応の挨拶をする。


「たまには息抜きも必要なのだよ」


 すると、読み合わせでもしているかの如くテンポのいい決まり文句が右隣りから返ってきた。


「今日、予備校だったんですよね? 終わるの、こんなに早いもんですか?」


 ベンチの横にしゃがみこんで見上げると、彼女は買ったばかりのレモンスカッシュを口に付け、夜空の低いところを睨んでいた。一口飲み下し、わたしの問いにすぐに答えてくれる。


「いーや、クラス担当の先生が『今日はお祭りですね。帰りの時間が客と被ると嫌なので今日はもう終わりにします。行きたい人はどうぞ行ってください』って」


 先輩がわざとらしく肩を竦めてモノマネをした人はわたしの知らない人ではあるけれど、彼女の唇から聞きなれないクセのある喋り方が飛び出してきたことがなんだかおもしろくて笑ってしまう。


 笑い声が空気に溶けきる前に私は自分で買った缶のサイダーのプルタブを開け、一気に半分ほど飲んで深く息を吐いた。


 彼女が「あ」と小さく零し、次いでわたしの目を見て「ほら」と微笑んだ。彼女が指差す方向に首を回して、けれど何も見えないので腰を浮かせた。


「あ」


 無意識に先ほどの彼女と似たような声を上げ、目を細めた。彼女が睨みつけていた夜空には、木々や建物の隙間から小さく打ち上げ花火が見えた。


 綺麗だね、と小さく聞こえた声に上手い返しが見つからなくて無駄に時間をかけてから、そうですね、と小さく返した。


 二人で眺める花火はきっと、スマホで写真に写したとして誰かに自慢できるほどの美しい景色ではないのだろう。まず、見通しが良くない。それでもきっと、いつかこの瞬間を思い出すのだろうなと思った。


 そのあとはお互い無言で、距離を挟んだことで大きさの緩和された花火の音がかなり遅れて聞こえてくるほかは、時々缶ジュースが傾けられる音が聞こえてくるだけだった。


「ていうか、なんで浴衣着てないの?」


 ぼんやりと東の夜空を眺めていたわたしの耳に彼女の声が久しぶりに届いた。なんだか表情を取り繕える気がしなくて、彼女の声を側頭部に聞きながら本音の一歩手前を誇張して語る。


「えぇ……? だって、何気に暑いじゃないですか、あれ。あと、下駄で靴擦れしたら帰るのがだるい」


 自転車で行きましたしね、と付け足した最後の「ね」に少し力が入ってしまった。


「はあぁ~。夢がないねぇ。着ればいいのに」


「先輩だって、着てないくせに」


「予備校に浴衣で行く奴があるか」


 彼女はハハッと乾いた声で短く笑って、レモンスカッシュをまた一口煽る。


「いないことはないとは思いますけど……」


「ま、そりゃそうだ」


 顔を見合わせずに笑い声が重なるのはなんだか不思議な感覚だった。


 下駄で靴擦れしたくないのは本当。帯の下や太もも辺りが特に蒸れるから暑くて嫌なのも本当。だけど、着たかった。本当は着たかった。


 わたしも、あの、キラキラとした街に溶け込めるのならそうしてみたかった。

 だけど、どうしたって勇気が持てない。自分自身に言い訳をしてまで遠慮する相手が誰なのかも分からなかった。


 ジュースを飲みながら打ち上げ花火を見るだけの静かな時間はあっという間に過ぎた。

 一万発の花火の最後の一つが夏の明るい夜空に、乾いたパッという小さな破裂音を引っ張って吸い込まれ、残された白い煙が生暖かい風に流されたのを見届けたあと、彼女の姿をちらと見る。

 視線に気付いた彼女は横目でわたしに微笑みかけた。


 彼女の持つレモンスカッシュはもう空き缶と化したらしい。わたしもサイダーの残りを一気に喉に流し込んだ。


「帰ろうか」


 言うが早いか立ち上がり、腕を前に伸ばして体を回す。


「来年はさ、浴衣着てきなよ」


「……来年は、私が受験生ですよ」


「たまには息抜きしなきゃでしょ」


 眩しいほどの笑顔だった。心臓がきゅうと苦しくなる。


 そうか。来年は一緒に行ってくれるのか。また、二人で花火を見られるんだ。先輩が当然のようにさらりと言ったその一言に目頭が熱くなる。


「でも、だってさ……。私が浴衣なんか着て来たら、きっとみんなに嗤われる」


「そんなことないと思うよ?」


「あるんだよ……」


「当日、一番長く一緒にいるだろう私が見たいって言ってるのに」


「知り合いに会うかも」


「綺麗なあんたを見せつけてやりなよ」


「上から下までじろじろ見られるの、嫌だ」


「急いでるから、って手引っ張って歩くよ」


「それに……」


「……それに?」


「……先輩に恋人できたら、そっち優先しなきゃでしょ」


「できるわけないよ。そんな、存在しない人のこと考えたって意味ない」


 そう呟いた先輩の声はなんだか暗くて重かった。


「なんで断言できるの」


「……きっとそうだろうと思うから」


 私のことよりさ、と声のトーンを無理に引き上げて話を戻された。


「あすかは私よりも他の人に気を遣うんだ?」


「えっ! そういうわけじゃ……」


「じゃあ、どうしてそこまで頑ななの? あすかのこと知ろうともしない他人のこと気にしたってさ……」


 先輩が眉を片方下げて苦い顔をした。それを見て、息が詰まるような心地がした。


 話の途中で割り込むなんて、よくない。自然と目線は足元を漂う。先輩の顔が見られない。どんな目をしているのか分からなくて、怖い。唇を噛んで次の言葉を待つ。待ちたくない。遮ってしまいたい。

 だって、そのあとに続く言葉は、いつも同じだった。


「……しょうがない?」


 先に言われるくらいなら自分から言ってしまった方が辛くない。そんな気がする。だから、聞きたくない言葉を自分の口から放った。


 彼女の顔を見られずに、俯いてアスファルトに視線を落とす。もしも万が一、彼女の口から出る次の言葉が今までわたしに放られたものと同じだったら。その場合にわたしはどんな顔でどんな言葉を返すことが出来るだろう。


「んーん」


 結論から言うと、そんなわたしの心配は季節外れの木枯らしに飛ばされたみたいに物足りなさを少し残してどこかに行ってしまった。


 彼女の口から発された否定の言葉はずいぶん緊張感のないものだった。

 はあ、と小さく溜め息を吐き、その先が紡がれる。


「どうしようもない」


 続いた言葉を、わたしは知らなかった。目が合うと彼女は歯を見せて笑った。生ぬるい風に、一つに括られた長い髪がふわりと揺れた。そのときに一瞬だけ見えた、首筋に張り付いた髪さえも綺麗だと思った。


 冷たく響くその言葉は、わたしにとっては、今まで受け取ったどんな言葉よりも暖かかった。


「……なんかそれ、冷たくないですか? 結構ドライっていうか」


 わたしの口から出た声は、思ったより高かった。彼女の言葉の何かが、どこかが、わたしの心の縁を優しくなぞったのだ。ほっとした。力が抜けた。それまでの自分が馬鹿らしく思えた。


「そうかなぁ」


「そうですよ」


「そうかなー?」


 彼女がふははと笑う。


「そうだよー!」


 彼女の隣でわたしもふははと笑ってみる。心地良いこの空気をガラス瓶に詰めて持ち歩けたらいいのに。


 いつからか、花火を見ると泣きそうになることが増えた。小さい頃は純粋に楽しめたはずなのに、どうしてなんだろう。

 足の裏から胸に響く轟音に心臓を揺さぶられている気分になる。

 焦燥感に駆られて逃げ出したいのに、その美しさから逃れることが出来なくて足が動かない。畏怖、という言葉を初めて知ったとき、真っ先に打ち上げ花火のことだと思った。


 だから、打ち上げ花火は少しだけ苦手だ。


 偶に、先輩と話していると堪らなく泣きそうになることがある。どうして先輩はわたしと居てくれるんだろう。わたしも、この人のように、綺麗でありたい。


「コンビニスイーツくらいなら買ってあげてもいいよ」


 空き缶をゴミ箱に放り込んで黒い自転車に跨った彼女が首を僅かに傾けて、微笑む。

 こころなしか「あげても」が強調されていて、つい笑ってしまった。


 わたしは自転車のハンドルを握り、ブレーキをカチカチとかけてみた。そろそろ油をさした方がいいかもしれない。サイダーで潤った喉を開いて、彼女の目を見つめ返した。


「……じゃあ、アイス食べたいです」


「ええ? 屋台で食べたって言ってたじゃん。二個も食べるとお腹壊すよ?」


「今度はソーダのシャーベットが食べたいの!」


 わざと口を尖らせると、彼女は目を丸くしてからすぐに笑い出した。


 絶対お腹壊すよ、と彼女がペダルを漕ぎだす。冷房の効いたコンビニまでの僅かな距離を、先輩の背中を追ってわたしも自転車を走らせた。この時のわたしの口角は、きっとほんの少し上がっていたのだろうと思う。


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