プロローグ
「わたし、死にたいって思ったこと、多分、ないんですよね」
二人きりの空き教室、自分の言葉じゃないのならそれは彼女のものだったのだろう。
「……っあぁ、そうなの?」
全く予想していなかった突然の発言にヒュッと心臓が跳ねて、言葉がつっかえてしまった。
面と向かって「死にたい」だなんて言葉が使われたことに素直に動揺する。
そして、それを使ったのは自分の身近な人間であり、そのうえ、「そうしたい」と吐露されたわけではなく、「その考えに囚われている」から助けてほしいと期待されたわけでもなく、だからと言って、「そうしてしまいそう」な人を侮辱するようなものでもなく、ただそれを考えたことがないのだという、一方的な意見の提示だった。
動揺の余韻でまだ少し震える指を使い、なんとかバニラバーの包装を棒側が上になるようにひっくり返して持ち、両側から摘まんで開け、引っ張り出す。
声は震えていなかっただろうか。特段興味もない風を装い、聞いてやるから続きを話せ、とでも言いたげな人の真似をする。口角を上げて教室にいるもう一人と視線を交わした。
目が合うとその少女は思い出したように少しだけ目を伏せて、真ん中の三本をおでこに軽く当てていた左手を、右手に提げたままのビニール袋へと向かわせる。カサカサと頼りない音を鳴らして抵抗する真っ白なビニール袋の中を漁り、お目当てのものを取り出す。
細長い包装の片側一方の端と端を両手の親指と人差し指それぞれで摘まんで、そのうち右手側を手前に引っ張って破る。
右手で取り出したのはいつもの、ソーダ味のシャーベット。それを一舐めして彼女は続ける。
「だって、死んだら死んだで迷惑かかるじゃないですか。色んなところで。死に方にも寄るだろうけど。それに、そのうちどうせ、明日でも来年でも何十年後かでも、いずれは死ぬじゃないですか。だったら別に、今頑張って死ぬこともないかなって」
未だ夏の暑さがしぶとく暦にしがみつく九月、開け放たれた窓のその枠に左手をつき、怠そうに一天を見上げ彼女は言った。
つられて見上げたそれは鬱陶しいほど青く澄み渡り、そのあまりの晴れやかさが目に染みていくのと反比例して自分の胸の奥が暗く、黒く、重くなっていく気がした。
ペイントソフトでバケツ塗りをしたような雲一つない青空に、吹奏楽部の見事にそろった全体練習の音が合わさって、青春を謳歌することが学生の義務だと押し付けられているように感じられる。無意識のうちにため息が漏れてしまう。ただでさえ暑さで体が重いのだ。
「はぁ……。なんだって急にそんな話を?」
最近二人の間で恒例となっている、じゃんけんで負けた方が学校の近くの駄菓子屋で二人分のアイスを買ってくる、で負かした後輩がどうして灼熱地獄からの帰還早々に自分の口内を冷やすよりも先にそんな突拍子もないことを言ったのか分からない。
「でもまぁ、死にたくなったことがない人ってのもなかなかいないもんじゃない?」
本気で死にたいって言ってる人がどれくらいいるのか知らないけど、と要らないことを付け足す。
右側の窓ガラスの向こうに広がる、目が眩むような青空とは対極に位置する教室のドア下に視線を移す。
そうなんすかね、と言ったのだと思う。けれど、その小さい声はツクツク法師のジーッという鳴き声に搔き消されてしまったので私には彼女が本当にそう言ったのかは分からない。
シャリ、とシャーベットを齧る音が聞こえる。私も溶けないうちに自分のアイスを舐め進める。
「さっき、駄菓子屋でおばちゃんがニュース見てたんです。見てたってよりは、ついてたって感じ、か。それで私もちょっと見て。九月一日が一八歳未満の自殺者が一番多いってやつ」
私は目線を床に下げたまま、
「あぁ、聞くね、それ」
アレ、何の染みだろ。墨汁ではなさそうだけど。
「圧倒的らしいです。……今年も、多かったそうです」
「そっか……」
あそこ、ほこりあるな。高校って昼休みに掃除しても放課後にはほこり溜まってるよなぁ。
「コメンテーターのおじさんが『どうして死んじゃうんだろう、これからなのに。もったいない、駄目だよ』って。ゲストの大学教授が『死にたいと思うくらい辛いなら逃げていいんだよ。大人を頼って』って、言ってたんです。でも私、分かんなくって。その人たちが本気でそう思っているのか、どれくらい切実にその問題を取り上げてくれてたのか。申し訳ないけど、薄っぺらい台本のチープなセリフにしか聞こえなくって」
吐き捨てるような彼女の口調が気になった。毒を孕んだような言葉をどんな顔で言っているのかが気になった。死にたいと思ったことがないと言いながら、死んだ人間に対してではなく、彼女と同じ今を生きている人間に対しての軽蔑が感じられた。それが気になった。
顔を上げて目に入ってきた目当ての少女は、青空に背中を向けるように窓枠にもたれ掛かって俯いていた。
その姿は逆光のせいか、うなだれているように見える。
角度的に彼女の顔は下半分しか見えなかったが、少なくとも口元は笑っていなかった。それが苦痛に顔を歪めているように思えた。なぜか、今にも泣きだしそうだな、と思った。
残り半分になっていたシャーベットを一気に食べ終わらせて、冷気で少しむせた後、咳払いをしてまた目の前の少女は続けた。先ほどよりも熱を持って。
「まず、どうして死んじゃうんだろうって、本気で思ってたらあの人コメンテーター向いてないと思いますよ! どうしてって、そりゃ死ぬ覚悟がついちゃったからでしょ! って。それがゲームのログインボーナスみたいに着々と溜まるものなのか、ある日突然ふっと来るものなのかは分からないけど。死ぬことへの恐怖よりも生きることへの絶望が勝っちゃったからでしょ! って。」
一度、ぐっと下唇を噛み、再び口を開く。
「それに、もったいないって意味分からないです。所詮他人の命は他人のものです。自分のものを捨てる時に『もったいない』って言われても『そりゃあげられるんならこっちだってあげたいよ!』って感じだと思います。持ってるのがしんどくって重すぎて耐え切れなくなって捨てようとすると『欲しくても手に入らない人がいるんだから捨てちゃ駄目』って言われる。そんなんどうしていいか分かんなくなりますよ。その人が責任取ってメンテナンスしてくれるわけでもないのに。一緒に持ってくれるわけでもないのに。リサイクルショップで売れるわけでもないのに。その人が勇気を出して奇跡的に『捨てたい』って誰かに言えたとして、もし『みんな辛くても持ってる。出来ないならそれはお前の落ち度だ。お前が弱いだけだ』なんて言われたら、わたしだったら力が抜けて落っことしちゃいますよ! 重さなんて誰かのものと比べられるわけがないのに、誰と比べて言ってんのってなります。そんで、周りは言うんですよ、その人が耐え切れなくなって死んだ後に。『そんなに辛かったなら言ってくれれば良かったのに』って!」
そこまで一息でまくし立てた彼女は少し疲れたのだろう、手近な椅子に横向きで勢いよく座り込み机に突っ伏した。体がねじれているけどその体勢辛くないのかな。
「逃げてって伝えたいなら、どこに逃げればいいのかまで教えてくれないと意味ないんだよぉ。大人って誰だよ……。誰なら助けてくれるのか、死にたいくらい追い込まれてる人に判別つくわけないじゃん……」
唸るような低い声。
「言葉にしなきゃ伝わらないってよく言いますけど、頑張って言葉にできたところで聞き手が理解しようとしてくれていなければ、それって『言った』ってことにはならないんですよね。相手にちゃんと自分の方を向いてもらえて、言葉を最初から最後までしっかり聞いてもらえて、それで、例え理解はされなくても納得はしてもらえる。それが成り立って初めて『言った』って言えると思うんです」
何々して「もらえる」って言い方好きじゃないんですけど、と苦笑して左手でうなじを掴み、空を見上げる。
「ねぇ、なんであんた『死にたいって思ったことない』とか言いながら死にたい人の気持ち分かるの?」
素朴な疑問だ。彼女の話を聞いて自然と浮かんだ質問だ。
食べ終わったバニラアイスの棒をひっくり返してみる。
「……んん。分かってますかね。当たってますかね……。それなら、先輩こそどうして私が分かってるって分かったんですか?」
「え! あ、いや……、当たってるっていうか、よく想像できるなぁって、いうか……?」
上手い言葉が見つからず、しどろもどろになりながらとりあえず答える。
んー、と彼女は唸って、机に頭をぐりぐりと擦り付ける。そのせいで彼女の髪の毛はぐしゃぐしゃになっている。
ふいに「先輩」と呼ばれて顔を上げる。
「わたしね、なるべくみんなが笑える世界に生きていたい。一部の人だけがものすごく楽しい世界よりも、みんなが同じくらい楽しくいられるような世界に生きていたい」
彼女が言い終えた瞬間、風がぶわっと吹いて二人の間を勢いよく抜けていく。弄ばれた彼女の髪がその顔を隠してしまう。二人が座るすぐ傍の、中庭に面した窓から入ってきた強風は廊下側の窓を通ってすぐに外へと出て行ってしまった。
ぼさぼさになった髪を手櫛で直すその人は、少し困ったような顔をして見たことのないくらい優しい微笑みを私に向けていた。
こいつ、こんな顔もするのか、と少しびっくりしてしまった。
「綺麗ごとだけどね」
彼女はそう付け足すと、へへっと自虐的に笑って、首を竦める。
「私もそんな世界なら喜んで生きるよ」
彼女の理想の世界についての私の素直な感想が口から出ると、「えっ」という、びっくりしたような声が聞こえたので、つい反射的に「えっ」と同じ反応を返してしまった。
目が合って、同じタイミングで笑い出す。
「え、で、なに?」
ひとしきり笑った後で、眉をひそめて後輩の顔を覗き込み、改めて「えっ」の理由を問う。彼女は私の目をまっすぐ見つめて、また笑う。
「ははっ、なんだぁ。先輩死にたい人なのかと思っちゃった」
眉尻を下げて、焦ったぁ、と俯いてぽつりと呟く。「てっきり鼻で笑われるかと思ったから」と今度は控えめにくすくすと笑う。
「まさかぁ」
やめてよ、と軽く笑って返す。
「……アイス」
「え?」
右手でゆらゆらと弄んでいた細い棒を後輩の目の前に突き出す。
「あたり」
「おおっ!」
この後輩、勢いよく上半身を起こすもんだから彼女の頭のてっぺんが私のあごにクリーンヒットする。
二人して患部を両手で抑え、声にならない声をあげてしばし悶える。打ったところを根気よくさすり続けると少しずつ痛みが和らいでいった。
左手はそのままに棒をくるりと回転させ、「あたり」と書いていない方を後輩に突きつける。
「あげる」
「えっいいですよ。シャーベット派なんで。ていうか、せめて洗ってからくださいよ。いくら先輩のことが大好きなわたしでもさすがにちょっと遠慮しますよ」
あははと笑いながら即行で断られた。確かに私も他人が食べた後のアイスの棒は持ちたくないな。
「せんぱい」
「ん? 何?」
「洗ってから一緒に駄菓子屋行きましょ」
私ももう一本食べたい、とニッと笑う彼女はなぜか随分と大人びて見えた。
「えぇ……それ今日じゃなきゃダメ? 正直もう怠くて」
「ダメ。明日はラーメン行くから」
即答された。別に明日にしようって言ったわけじゃないのに。
「それあんたの事情じゃん」
「明日は『先輩と』ラーメン行くから」
先輩と、をやたら協調してくる。にやにやしちゃって随分と楽しそうだな。というかそんな約束したっけ? してないと思うんだけど……。
「ちなみに明後日は駅ビルのクレープね」
あ、これどっちも約束してないやつだ。こいつ今考えたな。私これでも受験生なんだけどなぁ。ちょっと引っ張りまわしすぎじゃない?
「あんた本当に私のこと好きだね」
ついフッと笑ってしまった。そんな私を見て彼女はさらに笑顔になる。
「先輩だって本当はわたしのこと可愛くてしょうがないくせに!」
そう言って頭を押さえながら歯を見せて笑う彼女を、うるせぇと笑って片肘でど突く。
ふう、と先に息をついたのは私ではない。
「さあ!行きますよ、先輩!」
元気だなぁ、こいつ。あんたが急に体起こすからでしょ、と少し悪態をついておく。
二人して中途半端に起こしていた体を伸ばした後、椅子を机の脚の間に入れる。
再び鳴り出した吹奏楽部の演奏につられて再び真っ青な空をどちらからともなく見上げていたら、太陽の光のせいで空が青いのか白いのか黄色いのか分からなくなってきてしまった。少し見すぎて目が痛い。
輝かしいアイスのあたり棒を左手に持ち替えてリュックサックを右肩に掛け、ほら行くよ、と後輩を促し教室の引き戸に手をかける。
振り返ると、まだ鞄も背負わずに晴天を見上げ続ける彼女の後姿があった。
生ぬるい風に彼女の短い黒髪がさらさらと揺られていた。
monogatary.comに「君の片陰」というタイトルで載せました。お題「明日の予定」