整理番号 新A66:鉄路に臥す(バフロス貨物線脱線事故13)
カリヤル・エスパノは思いつめていた。それは昨日今日始まったことではない。生まれた瞬間から彼女に常に付きまとった、健常な人間であればおおよそ意識することはないであろう一つの命題が、彼女を苦しませていた。
彼女は、エスパノ家、それも本家にほど近いウサス・エスパノ家の令嬢としてこの世に生を受けた。
彼女はしかし、それを誇りに思ったことは終生なかったであろう。彼女は実に謙虚に、そして朴訥に生きた。
そしてそれはある意味で当然に、そして彼女にとってはあまりにも理不尽に、彼女を苦しめた。
彼女が誰と婚姻を結んでいたかは、定かではない。なぜなら、それが定かでないことがウサス・エスパノ家において、とても強力な武器であったからだ。
ウサス・エスパノ家にとっては幸運なことに、そして彼女にとってはこの上なく不幸なことに、彼女はとても美しかった。
それこそ、彼女がまだ学徒の身になるその前から、彼女はあまりにも美しかった。
彼女の婚姻について駆け引きが始まったのは、彼女が学園に入ってからすぐのことであったとされている。実際には、その以前からすでに話は動いていた。
もっとも、彼女自身がこの大いなる陰謀を知ったのは、彼女が学園に入り、当時においては素晴らしい友人たちを獲得した後の事であったが。
彼女はこの悲惨な陰謀に歯向かっただろう。しかし、抵抗はあまりにも意味を持たなかった。それは、この時代のこの世界においてはあまりにも当然のことであった。
彼女には逃げ場はない。逃げてどこへ行こうというのか。人権の保障など貴族の令嬢であったとしても成されていないこの世界に、いったいどこに逃げ場があるというのか。
友人たちの同情も得られなかったであろう。なぜなら彼女は美しく、なぜなら彼女はエスパノ家という国内最高貴族に名を連ねる者であったからだ。
彼女の苦悩は、彼女より劣る人々にとって、皮肉以外のなにものでもなかった。
そして、彼女が獲得した素晴らしき友人たちは、この皮肉のような嘆きに耐えることはできなかったであろう。
彼女は苦悩を決して黙した。だからこそ彼女は孤高の憧憬として、彼の学園に君臨したのである。
だが、それは彼女の前では例外だった。彼女とは、ハルミンの事である。
彼女は平民、それどころかどこの誰がこの世に生を授けたのかすらわからない者である。そんな彼女は、皮肉にも聞こえる彼女の慟哭を受け止めることができた。
だからカリヤルは、ハルミンに寄りかかった。彼女がこの短い生の中で初めて得ることができた、唯一の支えであったのだ。
だが、社会とは残酷である。皮肉にもその事実が、ハルミンを深く苦しめることになる。
ハルミンは優秀さと努力だけで学園への入学を許された、一介の平民である。そんな彼女が学園の人間にきわめて好意的に迎えられたのは、彼女が謙虚で穏当で人当たりがよかったからではない。貴族出身者たちの便利屋であったからでもない。例えば課題などを肩代わりしてあげていたからでもない。
ひとえに、彼女の存在感が希薄であり、学園の人間たちのちっぽけなプライドを傷つけるに至らない人間だったからに過ぎない。
故に、彼女がどれだけ努力して人間関係に注意を払おうとも、その瞬間はやってきた。
彼女はカリヤルの信頼を勝ち取った。それが、彼らのその未熟なプライドを踏みにじり、そして彼らの精神の中に、すくすくと嫉妬という名の雑草をはぐくんだのである。
端的に言えば、彼女は虐められていた。彼女をいじめるのは、学園の人間にとってあまりにも容易であっただろう。なぜなら、彼女には後ろ盾がなかったから。
彼らの目的は単純であった。”カリヤルの隣”という輝かしい立場を、彼女から奪還することである。そして、悲しいかな、彼らがハルミンを叩きのめせばのめすほど、ハルミンはカリヤルへの依存を強めていき、そして彼女はそれに応えた。
社会においては往々にして発生しうる、あまりにも悲劇的な悪循環である。
そしてこの悪循環は、誰にも止めることができない。止めることは、許されなかったのである。
しかし、それもやがて限界が来た。先に限界が来たのは、カリヤルの方である。彼女はもう年頃の青年へと立派な成長を遂げていた。
それはすなわち、機が熟したということを示していた。
彼女はそれを、身をもって知ったわけである。
彼女の瓦解と同時に、ハルミンも限界を迎えた。今まで支えであったカリヤルが斃れれば、ハルミンは居場所を喪う。それは、死への恐怖をも上回った。
だから、彼女たちは決意してしまったのである。
二人はその日、東ガリフール駅へ向かった。そこなら、誰にも引き止められることはないと踏んだからである。
彼女たちは線路へ降り立った。そこへ、貨物列車がやってくる。
乗務員は線路上への人立ち入りを確認し、最大限のブレーキをかけた。それは、彼らにとって、人の命を奪いたくない一心で行ったことであろう。
人の世というのはあまりにも残酷で不条理だ。なぜなら、この行動があまりに悲しい悲劇を生んだからだ。
機関車は最大ブレーキの力で急速に速度と運動エネルギーを減じた。だがしかし、このブレーキは機関車にしか作用していない。
後部に連結されている、あまりにも重い荷物を積んだ貨車たちは、その運動エネルギーをほとんど減ずることなく、後ろから機関車を押し出そうとする。
現場は、大きなカーブであった。連結面でせめぎあう力は、列車をカーブの外側へと押し出そうとする力に変わった。
蒸気機関車の後部が浮き上がった。そして、機関車は横転し線路上を滑るように移動する。
彼女たちは、その鉄の塊と運命を共にした。
すべては想像に過ぎない。なぜなら、ここにはいかなる確証もないからである。これはただ単に、真実のかけらを寄せ集めただけであり、それはもはや真実とは呼べない。
だがしかし、これは確固たる証拠から導き出された、限りなく真実に近い想像であることは、もはや疑いようがないのである。
本件事故は単なる脱線事故ではない。
鉄道人身傷害に起因する、重大事故である。
鉄道人身傷害。平易な言葉に言い直せば、それは人身事故と呼ばれるものになる。そしてこれは、鉄道がこの世に生まれた瞬間から存在する。
世界で最初の人身事故は、世界初の鉄道が開業した、その時に起こった。
鉄道というものを知らなかった来賓が不用意に線路内に降り立ち、列車に轢かれた。祝賀ムードのその中で、世界初の犠牲者は生まれてしまった。
日本での人身事故も官営鉄道正式開業のその日に発生している。明治五年十月十四日、日本鉄道の起点である新橋駅でだ。
鉄道はその存在がこの世に生まれたときから、この悲惨な事故とともに歩んできた。そしてそれは、たとえ世界戦を跨ごうとも、決して逃れられない事であった。
エドワードは、絶望にも似た悲しみを覚える。
だからこそ、今目の前でその事実を認めようとしない二人が、あまりにも腹立たしかった。
「何を言い出すかと思えば、バカバカしい!」
エスパノ夫人はそう言って激高した。
「これはあなたの想像に過ぎない。そして、我々が望んでいるのは”真実”だ」
その言葉に沸騰しそうになる身体を押さえつけながら、エドワードは言葉を紡ぐ。
「そうです。これは、真実とは程遠いい。しかし、あなたたちに逃げる隙間を与えるほど、真実から乖離しているわけではない」
「何を根拠に……」
「これが証拠ですよ」
そこに、エスがやってきた。エスは一枚の紙をエスパノ氏に突きつける。
「これが何だか、当然お分かりになるはずだ」
エスパノ氏とエスパノ夫人は、その顔をみるみる青ざめさせた。
なぜならそれは、二人の遺言であったからだ。
「これは、ハルミンさんの自室から発見されたものです。ここには二人のサインがありました。これと同じものが、カリヤルさんのところにもあるはずだ」
エスがそう言うと、エスパノ夫人は小さくつぶやいた。
「まさか、そっちにもあるなんて……っ!」
その言葉を聞き逃せるほど、エドワードは感情的ではなかった。だがその一言で、エドワードの怒りに火が付く。
「エスパノさん。あなた、実は知っていたんだろう。この遺言と同じものが、カリヤルさんの自室にあることを」
彼は声を震わせながらそう問い詰める。彼らは目を背けた。
「あなた方が彼女たちの捜索を始めたのは、事故が起こる直前だった。おかしいと思ったのですよ。あまりにも行動が早すぎると」
エスはまるで探偵であるかのように、それを突きつけた。夫人は崩れ落ち、主人は呆然とその場に尽くした。
「我々の役目は事故の調査だ。事故原因の範疇を超えたことまで、ああだこうだ言うつもりはない。だが、これだけは言わせてもらう」
エドワードは、ただ一言だけ吐き捨てた。
「あんたら、人の命を何だと思ってやがる」




