整理番号 新A63:鉄路に臥す(バフロス貨物線脱線事故10)
妻を、瑠璃を、殺したのは私だ。
その話をする前に、まずは私の身の上話に付き合ってほしい。
私は昭和五年の東京・柴谷……いわゆる下町で、現在では金居区と呼ばれる所に生まれた。
面倒見の良い兄と、やさしい姉に囲まれて、すくなくとも私の幼少期は幸せだった。
特に姉は優しかった。ガキ大将に殴られてべそ書きながら家へ帰ると、兄は決まって殴り返して来いと言った。
だが姉だけは、たんこぶをこさえた私をかばって、もう頑張ったのだからいいでしょう、と言ってくれた。
そんなやさしい姉は、空襲で死んだ。
あの日、俺は姉にたたき起こされた。見ると、周りはもう真っ赤になっていた。
俺たちは互いに手をつなぎながら走った。
でも、ダメだった。
気が付くと、姉はそこに居なかった。
父は出征し南方で死んだ。兄は動員された工場で銃撃に遭い、それきり行方がわからない。母だけは身体を壊し疎開していたおかげで助かったが、戦争が終わったころにはもう、歩けない体になっていた。
家も、友人も亡くした。だがそれ以上に、あの優しい姉を喪ったという事実に、私は耐えられなかった。
そんな心の隙間を埋めてくれたのが、瑠璃だった。
彼女は物静かながらもはつらつとした人だった。そして、今から思えばずいぶんと惚れっぽかったようにも思う。
私が彼女と出会ったのは、金居駅のホーム上だった。私はその時、入院している母を支えるために国鉄に入り、金居駅で駅員をやっていた。
私はその直前に、お守りを拾った。それはずいぶんと大事にされているようだったので、あとで遺失物として届けようと、ポケットに入れておいた。
すると、彼女が声をかけてきて、「お守りは落ちていなかったですか」と言ってきた。
私はすぐに先ほどのお守りのことだとわかり、彼女にそれを渡した。すると、彼女はたいそう喜んでくれた。
私たちの関係はそこから始まった。
彼女は明るい人だった。そして、ずいぶんと根気の強い人でもあった。顔を見る限りではわからないが、彼女はその笑顔の裏に、ずいぶんとしっかりとした芯を持っている人だった。
私が待ち合わせに遅刻をしてきたときも、彼女は表情一つ変えずに待っていてくれた。今から思えば、私はそのやさしさに甘えていたのかもしれない。
私たちはずいぶんと仲良くなり、そしていつしか将来を誓いあう中になった。
そんなある日、私は瑠璃の姉と会う約束をすることになった。
瑠璃の姉は玻璃という名前で、二人はとても仲が良いらしいということを私は聞いていた。
瑠璃は口を開けばいつも玻璃の話をしていたし、お守りは玻璃が悪い男に引っかからないようにと持たせたものだった。
玻璃は、私が瑠璃と結婚するにふさわしい男であるかを見極めたいと、いいだしたのだ。
そして、彼女への挨拶を翌日に控えた日。事件が起こった。
金居事故という事故がある。
はじまりは、なんてことのない小さな事故だった。
東京行き上り第2228H電車は、次の停車駅である金居駅に差し掛かった。
しかし、運転士は金居駅に電車を停めなかった。運転士はこの駅を通過駅だと思い込んでいたのだ。
電車はプラットホームを百メートルほど行き過ぎたところでやっと停車した。
ここまでは、まだよくある事故である。ここで適切に処理をすれば、そこまでの大事故になることは稀だ。
しかし、状況は最悪の方向へ転がりだした。
電車は本線を不正な形で塞いでしまった。そこへ、ちょうど金居駅を発車しようとしていた貨物列車が横から突っ込んだ。
電車は機関車に弾き飛ばされ、脱線。上り線だけでなく下り線を支障する形で横転した。
電車からは乗客たちが我先にと線路へ飛び出した。辺りは他の貨物列車や電車が所せましと走り回る金居駅である。
乗客たちはパニックになっていて、危険な区域を逃げ惑っていた。
貨物列車の機関士は乗客たちをみてこう言った。
「おい、あぶないぞ! この辺りはまだたくさんの列車が動いているんだ! 不用意に線路へ出ると、轢かれるぞ!」
彼が、こう叫んだ瞬間だった。
第4023列車 急行「荒潮」号。 常総本線が誇る最速急行が、最高速度で現場に差し掛かった。
列車は、線路を塞いでいた第2228H電車に衝突。そしてそのまま、線路上を逃げていた乗客や、非難を誘導していた乗務員などを巻き込んだ。
金居事故。死者154名、行方不明者1名、負傷者501名。
国鉄史上に残る、三重追突事故になってしまった。
不幸なことに、玻璃は事故に遭った第2228H電車に乗車していた。
彼女の遺体は、金居駅のホーム上で見つかった。そこは、私と瑠璃が出会った、まさにその場所だった。
思い出の場所で最愛の姉を喪った瑠璃の想いは、想像してあまりりあるものだ。私も大切な同僚を何人も亡くしたが、それよりも彼女の悲痛な顔が私の心を引き裂いた。
瑠璃は葬儀の時、私に縋り付いて泣いた。
もう二度と、こんな悲しいことはいやだ、と。
その日を境に、我々の関係は変わってしまった。
我々はしばらくしてから籍を入れたが、夫婦らしいことはあまりしなかった。
二人の間に、事故でなくなった彼女の顔がちらついた、ということもあるだろう。あれから瑠璃はめっきり笑わなくなった。
そしてそれ以上に、二人の時間というものが極端に少なくなってしまった。
それは私に原因がある。
私はもう二度と事故が起こらない鉄道をつくりと決めた。しかし、心に決めるだけでは誰にでもできる。
だが、それではいけない。なんとかしてこれを有言実行したかった。
私は、事故の調査と研究にいそしんだ。
仕事が終わっても家に帰らず、過去の事例を調べ尽くした。資料で分からないことは、休日を使って現場に行って調べた。それでもわからないことは、コネを伝って管轄の労組の人間に話を聞きに行ったりもした。
事故を起こした当人に話を聞いたこともある。
最初は現場からも管理職からも疎まれたり妬まれたりしたが、だんだんと理解が広がっていった。
同時に、私の担当だった線区でも、そして国鉄全体を通してでも、だんだんと重大事故は鳴りを潜めてきた。
私はそれで満足だった。私は瑠璃の願いをかなえることができたんだ。そんな満足感があった。
だがそれは、ある意味で私の自己満足でしかなかった。
私は家を空け、瑠璃のそばに帰らず、ただひたすらに仕事に打ち込んでいた。
その日もそうだった。本当ならとっとと仕事を終えて、夕飯前には家に帰るはずだった。
だが私はひとつ気になった事故があって、そのことを調べるため夜を徹した。家に帰ったのは、もう空が白み始めたころだった。
家に帰ると、前日の夕飯が食卓の上にあった。私は嫌な胸騒ぎがして瑠璃を探した。すると彼女は、そのそばで冷たくなっていたんだ。
死因は脳梗塞だった。死亡推定時刻は夜半過ぎ。もし私がきちんと夕飯時に家に帰っていれば、瑠璃を助けることができただろう。
瑠璃を殺したのは私だ。
私が死んだとき、私は瑠璃にそのことを詫びたいと思った。私にそんな資格があるかわからない。だが、私は瑠璃に、地べたに這いつくばり、土に頭をこすりつけ、謝らなければならない。
そして、その願いを知ったお釈迦様はこういった。
すべてはあなたの未来の行い次第。よく勤めよ、と。
それがどういう意味なのか、私はそれを正確に知ることはできない。だが、私は信じて歩くしかない。
きっと、私はこの世界を事故の無いものへと変えなければならない。そうした時、私はきっと彼女に頭を垂れる運命が開かれるのだと、今は信じている。
それ以外に、私はやるべきことというものが見当たらない。
私はつくづく、酷い男だと思う。
だから私は、事故を調査し、事故の再発を防止する。
それが、私にできるただ一つの誠意だから。




