整理番号 新A02:さようなら、世界
深い深い眠りの中で、御岳は夢のようなものを見ている。
軍国少年だった幼少時代。軍人だった叔父にあこがれて軍隊ごっこをして遊んだ。仲の良く優秀な兄と、面倒見の良く優しかった姉に囲まれ、帝都下町でのびのびと育った。
戦争ですべてを失った青年時代。夜空に禍々しく浮遊する光点。降り注ぐ火の玉。焼夷弾が我が街を焼き尽くす。空襲だ! 近所のおじさんの叫び声が轟音に溶けた。
姉の笑顔が恐怖でゆがむ。二人で明るい闇夜に飛び出した。
共に逃げようと手を固く結んだはずなのに、その指はいつの間にかにほぐれ。目の前で、姉は煌々と燃え盛る炎の中に消えた。
兄は勤労奉仕で工場にでて、空襲に遭った。未だ、行方は分かっていない。
父は南方で死んだ。戻ってきたのは耳の骨と政府が言い張るなにかだけだった。
遺された母の慟哭が胸を刺す。
母の為に働き始めた青春時代。国鉄駅員から始まり、機関助士、そして機関士へと。
並大抵の苦労ではなかった。まだ、鉄道員は高給取りの代わりに寿命が著しく短かった時代である。何度も死線を潜り抜けた。そのたびに、姉の声が聞こえた。
時に大きく斗うこともあった。師匠にげんこつをもらうこともあった。それでも、前に進んだ。それ以外に、選択肢はなかった。
そんな日々に転機が訪れた。それは、亡き妻との出会いだった。
彼女が落としたお守りを私が拾ったところから、この恋路は始まった。鉄道員として当然のことをしただけの私に、彼女はしきりに感謝した。
それから二人で逢瀬を重ねた。初めて通じ合った心にときめき、想いあった喜びに震えた。そして結ばれた嬉しさに身体を揺らした。
そんな人生のシーンの数々が、ぐるぐると脳裏をよぎる。
これが走馬燈か。御岳は一人納得した。
映像は結婚生活へと切り替わる。そしてそれは、始まりからして、二人の浮ついた展望とは真逆の方向へ突き進んでいた。
すれ違う二人。悲しみに暮れる女房。ついぞ、彼女の晴れやかな顔を拝むことはできなかった。
仕事にかまけて妻を放りだす日々。一言も告げず、幾日も家を空けることもあった。
結局、子供は一人ももうけることはできなかった。
そして最期。彼女は、私のために用意した夕飯と共に冷たくなっていた。
その亡骸に縋り付きながら、初めて自分の愚かさを知る……。
映像はそこで途切れた。そのまま、底へ底へと沈んでいくような感覚に陥る。
泣いている。御岳はそう思った。自分の姿さえ見えない、感じ取ることすらできないでいるのに、自分は確かに泣いている。それがなぜだか確かにわかった。
この人生で最も愛したその人を、死なせてしまった。その哀しさが、悔しさが、申し訳なさが、湧き出る泉の様に吹きあがってくる。
御岳はつい、妻の名を呼んだ。
―――瑠璃―――
口から思いが零れる感覚があった。御岳は叫ぶ。
―――瑠璃、許してくれなんて言わない。ただ、一度だけでいいから、君に謝らせてくれ―――
叶わないとわかっていても、御岳の魂はそう叫んでいた。死んで全てのしがらみが身体と一緒にほどけて飛んでいった今、魂にはその思いだけが残っていた。
「……ですか?」
その時、女の声が聞こえた。一瞬、御岳は色めき立った。だが、御岳には分った。それが、御岳の求めた妻、瑠璃の声でないことが。
「何を、謝りたいのですか?」
その言葉と共に、御岳の意識に金色の光が差し込む。その光に向かって、御岳はつぶやくように祈った。
―――妻へ、私の無精を詫びたい―――
そう願った時、目の前に天女のようななにかが舞い降りた。御岳はひどく驚いた。
―――ああ、神様かお釈迦様が存じませんが、どうか一度、一度だけで結構ですから、彼女に、瑠璃に、どうか謝らせてください―――
御岳は目の前の存在に縋りつくように頼み込んだ。その存在は微かに笑うと、静かに、まるで釈迦が説法でもするがのごとく、御岳の魂に語り掛けた。
「それは、次の生での貴方の行い次第です」
リンと張った美しい声に御岳は気圧されながらも、御岳は問い続けた。
―――私は何をしたらよろしいでしょうか。あなたは、私に何を命じますことで―――
妻への想いが、御岳の口を焦らせる。目の前の存在はそんな御岳の尻切れトンボな言葉を、ただ笑って制した。
「よくお勤めを果たされなさい。あなたがやるべきをしなさい。そう、それだけ。決して焦らぬこと、臆せぬこと、驕らぬこと。ただ、よく励み勤めなさい」
期待と不安が入り混じった頭で、御岳は更に問い質す。
―――お釈迦様、それは……―――
しかし、御岳の意識は遠のいていく。
「では、御岳篤志さん。いってらっしゃい。よくお勤めを果たしなさい」
希薄な意識の中で御岳は答えた。
―――お釈迦様の命とあらば……―――
それを最後に、御岳の意識は再び途絶えた。
御岳篤志の葬儀は、彼が天涯孤独の身であったにも関わらず、約三百人の参列者を迎えた。
喪主は岸原一郎、施主と弔辞は男庭努。形式は浄土真宗で行われた。
参列者は御岳の仲間が多かった。彼を慕っていたのは男庭だけではない。共に同じ釜の飯を食った同期の桜が、彼の下で教えを受け一人前になった鉄道員たちが、遠い昔に御岳を可愛がった先輩方が、彼の早すぎる死を悼んだ。
それだけではない。信号所の信号掛、踏切の警手、隣の電車区の運転手、車掌、そして通過駅の駅員まで葬儀にやってきた。
彼は人当たりが良い方ではなかったが、それでも彼はこれだけの人々に慕われていた。
参列者の中には、各組合の人間や、管理職の姿もあった。彼の存在は、立場を超えていた。
男庭努による弔辞の最後は、こう締めくくられている。
「御岳さん。いや、親父。あんたの血は、この日本国鉄が走り続けるその最後の日まで、俺たちの心の中で流れ続ける。そしてあんたが遺した全ては、この日本鉄道のレールをたとえ何が起ころうとも護りきる。
必ず、我が親父に誓う。我々は最後までこの職責と向き合い、そして輸送を完遂する。
日本国鉄に、御岳篤志は不滅である」




