整理番号 新A13:シ=ク鉄道線内における重大インシデント(閉塞)その2
信号掛が緑のフラッグを掲げる。それが、進行の合図らしかった。
「出発よし、進行!」
アイリーンが静かに列車を出発させた。その横で、エドワードが釜に発火石をくべている。そして、その様子をヨステンが固唾をのんで見守っていた。
それに気が付いたエドワードが、少しずつ解説しながら作業を進めていく。
「こうやって通風を良くしてだな……」
ミヤやアイリーンに話してやったことと同じことを、ヨステンにも話してやる。ヨステンはしきりに感心しながら頷いていた。
列車は速度を上げる。風を切る音を轟かせながら、トップスピードへと迫ろうとしている。その中で、ヨステンは、参った! と手を上げた。
「やっぱりアンタはただもんじゃねぇな。この列車はかなり重い列車だ。にもかかわらず、もうこんな速度が出てやがる」
「別に俺がすごいんじゃねぇ。これを命がけで発見し、実証し、体系化した俺たちの先人方がすごいのさ」
エドワードは火室とにらめっこしながら、にこりともせずそう言い放った。
「効率化なんてのはやり方だ。それを知れば、だいたい誰でもできる」
エドワードの言葉にヨステンは目を丸くさせていた。エドワードはそんな事に気を留めず、淡々と作業を続ける。
列車はとても快調に走る。トップスピード近くまで速度を増した機関車はとてもよく安定し、アイリーンはもう何もすることがない。快速のこの機関車は、もうすでに彼女の手を離れ、ひとりでに力走を続けていた。
彼女は手持無沙汰とでも言いたげな表情で、手をぶらぶらさせている。
列車は人里離れた単調な荒野を走行している。進路上に障害物や人などが立ち入っている可能性も、限りなく低い。そのうえやることもないとくれば、アイリーンはそれこそ眠気が出てくるほどに緊張が弛緩してくる。
「そういえば、まだ聞いてなかったね。そろそろ教えてくれないかい?」
アイリーンはとうとう、エドワードに無駄話をしはじめた。
「なにをだい」
エドワードは苦笑いしながら、それにこたえてやった。やることのない運転台の殺人的な眠さと退屈さは、エドワードもよく知るところだったからだ。
「発火石に水をかけた理由さ。きっと、なにか訳があるんだろう?」
そう言われて、エドワードははたと気が付く。そういえば、そのことについて未だ何も言っていなかったことに。
ふと隣を見ると、ヨステンが興味津々といった面持ちでエドワードの方を見つめていた。エドワードはつい、悪戯心に火が付いてしまった。
「……聞きたいか?」
エドワードは神妙な顔を作る。ヨステンもアイリーンも、これまた真剣な顔でこくこくと肯いた。
「実はな……」
三人の額が付きかねないぐらいまで近付いた。二人とも、エドワードの声を聞き漏らすまいと、眉間にしわを寄せた神妙な顔で、そしてまっすぐな眼でエドワードを見据えていた。
そんな二人に、エドワードは驚くべきタネを明かしを始めた。
「実は、俺にもよくわからん」
エドワードが言うと、ヨステンはその場ですっ転んだ。アイリーンは叫ぶ。
「なんだよ! もったいぶっちゃってさぁ!」
口をとんがらせる二人に、悪い悪いと謝罪しながらエドワードは訳を話し始めた。
「実は、なぜ発火石に水を撒くといいのか、それはまだ解明されていない。いろんな説があるが、未だ仮説レベルだ」
エドワードの言葉に残念そうな顔を浮かべる二人。そんな二人を見て、まあ待てとエドワードは言う。
「だがしかし、水を撒いた方が機関車の性能が良くなることは、証明されている。実は、俺の元居た国でこれを調べた奴がいる。それによると、雨もしくは人工的に燃料を濡らした場合、約一割程度、燃料の消費が抑えられたらしい」
「燃料の消費が抑えられた?」
ヨステンが不思議な顔をしていると、アイリーンが得心したような顔になった。
「なるほど。その分、燃料が効率よく燃焼したということだね?」
「その通り。水撒きでより燃焼が進むなんて、変な感じがするだろう」
アイリーンは深くうなづいた。その横で、ヨステンは他のことに感心をしていた。
「よくそれに気が付いたものだな、その人は。名は何と言うんだ?」
「いや、記録には残っていない。もしかしたらどこかに記録があるのかもしれないが、定かじゃない。無名火夫が遺したものだ」
ヨステンは驚愕したような顔になる。
「普通、火と水は対極の関係だ。魔法学的にも、非なるものとされている。それを結び付けて考えるなんて、きっと天才的な人間だったのだろうな……」
ぜひ部下に欲しい。ヨステンはそうぽつりと呟いた。
「まあ、燃料を濡らす理由はほかにもある。例えば、この発火石は粉が出るだろう?」
エドワードは自分の顔を人差し指で拭った。すると、小さな赤黒い粒が指に付着していた。
「ああ、石塵だな。これを吸い込んで鉄道員はみんな早死にするんだ……。ん?」
ヨステンは何事かに気が付き、エドワードの手をまじまじと見る。
「いやに石塵の量が少ないな……。まさか?」
「ああそうだ。もともとはこの塵を防ぐために散水が行われたと聞いている。こいつはかなり、てきめんに効くぞ」
ヨステンは今度こそ目を大きく見開いた。
「そこまで考えていたのか。つくづく、とんでもない」
エドワードは偉大な先人をほめられた気がして、少しだけ胸を張った。
列車は快調に走り続ける。そして、そのうちに右前方に何やら町並みのようなものが見えてきた。
「あれが帝都だ。そろそろ複線になる」
ヨステンの言葉通り、しばらくして線路は何条にも分岐し始めた。
「トレビン信号所、通過!」
アイリーンが凛々しく歓呼を行う。
エドワードは手を止めて助士席から前方を注視する。すると、係員が黄色の旗を降っているのが見えた。
「あの旗は?」
「進行旗さ。緑が進め、黄色が通過して進め、白、若しくは黒が停まれだ」
「なるほど……。こういう信号の現示の仕方なのか」
エドワードは、面白い方式だな、と感じた。だが、それと同時にある違和感を覚えた。その違和感が頭から離れず、エドワードは眉間にしわを寄せる。
「トレビン信号所、進路よし。通過!」
アイリーンの声で、エドワードの意識は現実に引き戻された。だが、今のアイリーンの言葉が、エドワードに更なる違和感を抱かせた。
「……なあヨステン。この列車はどのくらい遅れているんだ?」
「ん? ああ、ウエからは議会が始まる前に到着せよ、と言われているから、十一時手前に着けばいいはずだ。だいたい機関区から帝都の間が一時間ぐらいだから、機関区はいつも余裕をもって一時間ちょっと前には出発する。今日はたしか、いつもより早く九時半ごろに出発したはずだ。えーっとだから……」
ヨステンは腕の時計をちらりと見た。そして、その顔を笑顔に変える。
「ああ、今は十時四十分! この速さなら、後二十分で帝都までたどり着けるだろう。いやあ、ありがとうエドワード!」
ヨステンは満面の笑みでエドワードの肩を叩いた。エドワードの顔は、反対にどんどん青ざめていく。
「……ったぞ」
「お、おい! どうした! まさか煙にあてられたか。どこか調子が悪いのか?」
エドワードの顔色を見て、ヨステンは慌ててエドワードの身体を支えようとその肩を持った。エドワードはヨステンに身体を支えられたまま、こうつぶやいた。
「そうか、これだったんだ……。違和感の正体は……」
「え、あんだって?」
半ば放心状態にあるエドワードを心配して、ヨステンがその顔をのぞき込む。
その時エドワードは、刮目してこう叫んだ。
「ダイヤグラムが無いんだ!」
見開かれた目には、驚愕と焦燥がにじんでいた。