整理番号 新A11:起点【0キロポスト】
まどろみから目を覚ますと、暖かい朝日が眼に入る。未だ慣れないベッドの感触で、ここが屋敷の中だと理解した。
―――そういえば、昨日は疲れてそのまま寝てしまったんだったか―――
体を包むふわふわとした感触に身じろぎしていると、誰かがエドワードに声を掛けた。
「お目覚めですか? エドワード様」
エドワードはびっくりして飛び起きた。妻を亡くして以来、寝起きの自室に人がいるというのは経験がない。
「あら、随分とお元気のよい起床でございますね」
「アンタ、なにもんだい」
つい、そんなつっけんどんな言葉が口から零れ落ちる。
その女性はフリフリのフリルを身にまとっていた。エドワードにとってあまりに現実感のない姿に、その目を瞬かせる。
「私は貴方様のお世話係を仰せつかっている、クリス・マックレーでございます。どうぞお見知りおきを」
―――ラッセルの次はマックレーか……―――
と心の中で毒づきながら、目の前の端正な女性をまじまじと見つめる。その姿は、エドワードが教養として読んだ小説に出てくる、西洋の女中のようだった。唯一違うところは、小説の中にはこんなに美人な女中はほとんど出てこなかったということである。
エドワードは、身体中がなんだかむず痒くなっていくような感覚に襲われる。
「どうかされましたか? エドワード様」
彼女のその慇懃な言葉で、その不愉快さはピークに達した。それと同時に、そのわけをエドワードははっきりと理解した。
「ああ、その仰々しい言い方をやめてくれ。まるでブルジョアにでも成ったみたいだ」
エドワードが苦々し気な顔をすると、クリスはプっと吹き出して、コロコロ笑い出した。
「ブルジョアに成ったみたいもなにも、貴方の今の御立場は貴族そのものよ。エドワード・サ・マ」
クリスのわざとらしい物言いに、エドワードは身震いした。が、そのうちに彼も笑い出した。
「ねえ、それじゃあ私は貴方に気を使わなくても良いかしら? 私、こういうの苦手なのよね」
「構わんよ。女は三つ指ついて男の後ろを歩くよりも、あっけらかんとしたオテンバの方がいい。ああ、自分のことは自分で面倒を見るから、世話は焼かなくていいぞ」
そう言ってエドワードは肩をすくめた。そしてクリスの手を煩わせることなく自分で着替え、身だしなみを整え、そして食事を……。というところで、エドワードはあることに気が付いた。
「そうか、そうすると君のやることが無くなるな。ただムサイ男の着替えを覗いているだけというのも、気の毒だろう」
エドワードが身だしなみを整えている間、エドワードがそう願ったこととはいえ、クリスは後ろでぬぼーっと立っていただけだ。
それはそれで辛かろうとエドワードは考えるのである。
「そうだ、じゃあこうしよう」
なので、無表情にこちらを見ていたクリスに、エドワードはひとつの提案をすることにした。
「私はまだこの国に来て日が浅いので、この国のことを色々と教えてもらおう。なに、ちょっとしたことで構わん。例えば……」
エドワードはクリスが用意してくれていた朝食に目を落とす。するとそこにスプーンのようなものがあった。エドワードはそれを拾い上げる。
「これは何という名前のものだ?」
その問いかけに、クリスは変な顔一つせず答えてくれた。
「それはシャクシよ」
彼女がシャクシと呼んだそれは、だいたい親指から小指までの長さがあった。それを指差して、エドワードはサイド問いかける。
「では、これはどのくらいの長さだ?」
この質問にはさすがにクリスの顔が怪訝なものになったが、嫌がることなく答えてくれた。
「それはだいたい一セルよ。それは一セルシャクシって言うの」
エドワードはこのやり取りから、この世界の単位系というものを明らかにしようとした。その試みははたして上手くいっていた。
「なるほど。じゃあ、セルで君の伸長を表すといくつくらいになる?」
「一〇四セルかしら。でも、普通は二と五分の三メーラーって言うわ」
「メーラー?」
だがここで耳がつっかえる。急に五分の三などと出てきて、エドワードの頭がびっくりしてしまう。だが、クリスは冷静だった。
「ええそうよ。〇.二五メーラーで一セル。簡単でしょう?」
それを聞いて、エドワードは心の中で頭を抱える。
―――なんだこのヤードポンドのような単位系は! こんな単位、滅ぼしてやりたい!―――
そんなことはおくびにも出さず、エドワードはひたすら無表情だった。クリスは心配になってきたのか、エドワードを問い質す。
「ねえ、これに何の意味があるの?」
「いや、基礎事項の確認さ。こうした確認から全ては始まるということだ」
エドワードの要領を得ない答えにクリスは怪訝な顔を隠そうとはしないが、それでも彼女はエドワードの質問攻めに答えてくれた。
一通りに質問を終えると、クリスはこうつぶやいた。
「本当に変なことを聞く人ね。でも、私にとっても良い訓練になったわ。これ、覚えるの少し大変だったから」
エドワードは違和感を覚え、つい聞き返す。
「覚えるのが大変だった?」
そう聞くと、クリスは少し慌てたような様子を見せながらも、自分も異邦人だという事を教えてくれた。
「異国の地に一人いると、心細いでしょう? いつでも話し相手になるから、異国人同士お話でもしましょ?」
彼女はそう言って微笑んでくれた。
その微笑みが、エドワードにとってはなぜだか心強かった。
朝食を終えると、シグナレスの部屋に通された。いつも通りに部屋に入ると、しかしシグナレスの様子はいつもと少し違っていた。
彼女はエドワードと机に背を向け、まっすぐ窓の外を眺めていた。そしてそのまま、彼女は語り始める。
「まずは昨日のこと。見事でした。貴方を紹介した私としてもとても誇り高いわ。そして、シ=ク鉄道は正式にあなたを迎え入れることを決めました。今日からあなたはシ=ク鉄道の技術顧問として任に就いていただきます」
彼女はそれを一息で言うと、いったん息を入れた。そして、意を決したように振り返る。
「そしてもう一つ。ダクター保護約定に基づく王令第 42784 号 に拠り、サン・ロード皇国ラッセル子爵家は貴方を家に迎え入れます。よって、ミタケアツシさんは直ちに、ラッセル家が指定する籍と名によって保護されることになります」
そう言うとともに、シグナレスは帽子と、何らかの装飾具と、そして便箋を机の上に出した。
「よって、あなたには今この場で、貴方の名前と、そしてこの世界に来た理由を封印していただきます」
そう言われて、エドワードは少し不快感をにじませる。その表情を察し取ったシグナレスは、柔和な笑みを浮かべた。
「安心して。別に魔法であなたの記憶を消そうってことじゃない。これは儀式だから、あまり気負わないで」
そう言われて、エドワードは渋々それを引き受けた。
「心の整理が付いたら、いつでもいいわ」
シグナレスが椅子に腰かけ、ペンを手に取る。エドワードはきりりと表情を正した。
シグナレスは目でエドワードを促す。エドワードは、きちんとした敬礼でそれに応えた。
「日本国有鉄道常総鉄道管理局、千景機関区主任機関士、御岳篤志。この世界へは、亡き妻への贖罪の為にやってきた」
自分で、その言葉を噛み締める。
妻、瑠璃へ、どこにいるとも知れない彼女へ罪を贖う為。それが今生における、エドワードの生きる意味だ。
エドワードのその決意を、シグナレスは柔らかい表情で受け止めてくれた。
そして、そのまま何も言わず、その便箋をしまい込むと、彼女はその優しい顔を目いっぱいに難しい表情に作った。
「さて、そんな貴方に言わなければならないことが一つあります」
エドワードもつられて口をとんがらせる。
「ほう。それは何事だい」
シグナレスは更に顔を険しくさせて、子どもに言い聞かせるようにしはじめた。
「この世界には、あなたの知らないことや思いもよらないことがきっと起きる。だから、自分を過信しないこと。そして……」
シグナレスはエドワードの方へ歩み寄ると、ビシっとひとつ指を立てた。
「何が起きても、決して自身を、そして自信を失わないこと」
できる? と目線で問われる。エドワードは目を閉じると、悪戯っ子の様に口角を上げた。
「俺が凡人だということは、俺自身が一番よく知っている。自分の非力さも、至らなさも。だが……」
エドワードは刮目する。自信たっぷりの目で、しっかりとシグナレスを見据えた。
「だが、俺を育て、支えてくれた日本国鉄百年の歴史は、決して裏切らない。それだけはこの胸を張って誇れる」
エドワードの眼は、いつも通り挑戦的だった。その眼を見て、シグナレスは破顔した。
「よろしい!」
そう言うと、シグナレスはエドワードに帽子をかぶせた。
「これはシ=ク鉄道の制帽。そしてこっちが……」
エドワードの胸に、宝石で出来た小さな装飾具が付けられる。それはまるで、国鉄員の胸に咲く動輪のように誇らしげな、良く輝くエンブレムだった。
「これがラッセル家のバッジ」
彼女はそれを取り付け終わると、ただ一言「似合ってるわ」と言った。
エドワードはこういう貴族趣味は嫌いだった。だが、いざそう言われてしまうと、なんだか少しだけ誇らしく思えてきてしまった。
―――彼女の顔を立てるためだ。付けておこう―――
自分の気持ちにそう言い訳しながらも、エドワードの顔はほころんでいた。
エドワードは荷馬車に乗って、機関区へと降り立った。
今日から新しい人生が始まる。その喜びで、エドワードの心は一杯だった。
「ああ、丁度いいところに来た! エドワードさん、こっちへ!」
そんな彼を、新たな荒波が迎えようとしていた。
波乱の人生の、幕開けである。