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整理番号 新A01:国鉄常総本線499列車脱線転覆事故

 これは、輸送の完遂と安全の確保という使命の為に命を賭したこの男にとっての、たった一つの真実の物語です。


 また、事故調査は、事故及び事故に伴う被害の原因を究明し、事故の防止並びに事故の被害の軽減を目的として行われるものであり、事故の責任を問うために行われるものではありません。





【事故概要】



 昭和五十年八月二二日 十六時五四分頃


 日本国有鉄道 東日本支社 常総鉄道管理局


 第 4981 行路 常総本線上り普通貨物 第 499 列車

 三ノ輪行 通貨65F0


 機関車:8620型蒸気機関車(88642号機) けん引定数:33.5両


 機関士:御岳篤志(みたけあつし) 機関助士:男庭学(だんばまなぶ) (千景機関区所属)

 車掌:神戸和喜雄(かんべかずお) (雲雀車掌区所属)


 備考:急速に発達した非常に勢力の強い低気圧の影響で、十七時頃より順次全線で運転を見合わせる予定であった。




 常総本線上り普通貨物第499列車は、終点三ノ輪駅へ向けて園地~西郷間を走行していた。

 列車は、ほぼ同時刻に日本列島に上陸した発達した非常に勢力の強い低気圧の影響で、約三十秒ほど遅れて運転していた。

 運転台に立つ御岳篤志機関士と男庭学機関助士はそれを認識しており、二人は少なからず焦りを抱えたまま運転を行っていた。


 機関士である御岳篤志は、園地第一閉塞信号機を視認し指差歓呼を行う。


「第一閉塞、進行ーぅ!」


 続いて、機関助士である男庭学が確認の指差歓呼を行った。


「第一閉塞、進行ー!」


 御岳機関士は手元の懐中時計を参照する。すると、時計は十六時五十二分四十三秒を指示していた。御岳の経験則によれば、定刻であれば当地点を五十二分十一秒に通過せねばならない。と彼は認識している。


「御岳さん、遅れは?」


 男庭機関助士が石炭をボイラーに投げ入れながら御岳に問いかける。


「三十秒! 後続の特急がもう迫っている」


 御岳機関士は焦っていた。男庭機関助士の問いかけが御岳機関士を更に焦らせた。

 当該列車の五分後方には特別急行第21列車「荒潮」が迫っており、これ以上遅れが増大すれば特別急行列車の進路をふさぐ可能性があると御岳機関士は認識していた。


 また、次駅の西郷駅は、この第499列車が後続の特急第21列車に追い越される駅であった。御岳機関士は今までの乗務経験から、後続の第21列車は西郷駅での待避に備えて速度を上げていると考えた。そこからこの三十秒程度の遅れが原因で、もうすでに後続の第21列車を支障している可能性に思い至る。


 その結果、御岳機関士はこの三〇秒の遅延を減少させるため、回復運転を行うことを決意した。


「男庭、次の三〇〇票を抜けても絶気せず、第五隧道まで力行!」


 平時の第499列車列車は、三〇〇票、すなわち常総本線一二五.三キロ地点の標識を確認後に加速を止めるが、御岳機関士は今日に限りそこから五〇〇メートル進んだ園花第五隧道(トンネル)入口まで加速を続行することを決定した。

 男庭機関助士は長年の経験から、御岳機関士の意図を正確に汲み取り、その旨を了解した。


「了解! 少し苦しいですがやりましょう」


 男庭機関助士と認識を共有した御岳機関士は、列車の先頭が一二六キロ地点の標識(ポスト)を認めてから線路三本分の長さ(75メートル)を通過した瞬間に力行を開始した。


「クソったれ! また大気圧が下がりやがった! もう気圧がめちゃくちゃですよ!」


「耐えろ男庭! 第五隧道までだ!」


 列車は御岳機関士がそう叫ぶと同時に急こう配を登り始める。そして雨脚が強くなり、前方の視界が急激に悪化する。


「男庭! この雨で第二十一列車(うしろ)は遅れると思うか?」


 この時の御岳機関士の脳裏には、後続の第21列車(とっきゅう)がはたしてこの第499列車の後ろをどのように走っているかという問題があった。つまり、この第499列車のように遅れているのか、それとも通常通りに走っているのか。


 御岳機関士は第21列車はこの列車の行足と関係なく通常通り走っていると考えた。


「いや、後ろは軽いですからね。これぐらいじゃ遅れないと聞いています」


 男庭機関助士もそれを支持する見解を示した。


「ああそうだな。急ぐぞ!」


 大雨で視界が奪われる中、御岳機関士は後続の第21列車に追突される危険性などを鑑み、運転を続行することを決めた。

 そして、列車は三〇〇票地点に差し掛かり勾配が一気に緩やかになった。


「ここから全速だ、ついてこい!」


「はい!」


 列車は登り勾配を終えてみるみる速度を増加させる。付近は見通しの悪いカーブが続く線形で制限速度は六五キロ毎時であった。列車は通常四五キロ毎時ほどで通過するところ、既に五五キロ毎時程度まで増速しており、なおも速度を増していた。


 列車は御岳機関士個人の体感で六〇キロ毎時まで増速した。そして、第五隧道入口が接近したことを示す標識を御岳機関士が視認した。しかし、依然として第五隧道の入口は見えてこない。カーブは急な右カーブで、進行左側にある御岳の機関士席からは前がよく確認できなかった。


「このカーブを抜けたらだ……」


 御岳機関士は力行ハンドルに手をかけ、絶気、すなわち力行を止める準備を行っていた。


 男庭機関助士は絶気に備え、投炭を止める。そして前方を確認するために助士席に着いた。その瞬間、異変に気が付く。


「御岳さん、なんか変です。入口が……」


 男庭機関助士が声を上げた次の瞬間、御岳の眼にも異常が確認できるようになる。異常とは、第五隧道入口が軌道内に流入した土砂によって塞がれているこの状況であった。


「まずい! 男庭!」


 御岳機関士は即座に絶気を行い、非常制動(ブレーキ)を採った。そして男庭機関助士は非常事態を周囲に知らせるために非常警笛を吹鳴する。が、しかし列車は依然として進行を続ける。


「ダメだ、停まれない!」


 列車は石油類ガソリンや木材、一般貨物などを積載した一般貨物列車で列車重量は三〇〇トンを優に越えた。路面上の摩擦係数(ミュー)が極度に低下した状況下においては、最大ブレーキであっても満足な減速を行うことができない。男庭機関助士はなすすべなく立ち尽くしていた。


 その時、御岳機関士は男庭機関助士に声をかけた。


「男庭、今までありがとう」


「御岳さん、何を……っ」


 御岳機関士はこの第499列車が土砂崩れ現場までの間に停車しきれないであろうことを予見し、男庭を運転台から突き飛ばした。男庭は体勢を崩し、線路端へと転落する。


 御岳は彼が無事に落下したことを見届けると、消化器をもってボイラーの火を消した。それからブレーキハンドルを握り締め、最後まで列車を減速させるための手立てを講じる。


 第499列車は運転台に御岳機関士だけを残しその後も滑走を続け、そして土砂流入地点までに停車することはできず、かなりの速度を保ったまま土砂に突入した。


 列車は機関車を先頭に三両が土砂に乗り上げ、大きく動揺し脱線、そしてトンネルを覆っていた山肌に衝撃。御岳機関士の居た運転台は跡形もなく潰れ、列車全体が大きく損傷したのちに停止した。



【事故概要以上】







 御岳は意識を取り戻してすぐ、自分の命が長くないことを悟った。冷たい鉄骨が身体を貫いているのに、全身が嫌に熱かった。


 砂利が踏みしめられる音で、突き飛ばした男庭が近付いてきていることがわかった。


「御岳さん、御岳さん!」


 御岳を見つけ出した男庭が御岳のもとに駆け寄る。御岳は少しだけ笑みを漏らしてから、厳しい顔を作って男庭を叱咤した。


「バカヤロウ。情けねぇ顔してんじゃねぇ」


「んなこと言ったって……! 待ってろ御岳さん、今すぐ助けを呼ぶから、まだアンタに死なれちゃ困るんだ」


 男庭はべそをかいていた。御岳はそれを笑い飛ばした。


「生意気坊主が言いやがる……。いいから後方の第21列車を防護しろ。それから近隣駅への通報を。神戸車掌がもうやっているはずだが、念のためお前も……」


「ああ、わかった、わかっとるよ御岳さん! もうなにもしゃべらんでくれ。今助けを呼ぶから!」


 そうして駆けだそうとする男庭のズボンのすそを、御岳は最後の力で掴んだ。


「御岳さん……!」


 振り返った男庭が御岳の口元に耳を寄せる。御岳は、か細い声で、途切れ途切れに呟く。


「男庭ぁ……。お前は、生意気だが、ウデがいい。俺の、誇り、だ」


「御岳さん、そんなこと言うなよ! 聞きたかねえよ!」


「男庭、達者で……、な」


 言い終えると、御岳は男庭のすそを手放した。男庭は立ち上がり、御岳に最敬礼をして見せた。


「御岳さん、お世話になりました」


 男庭はそれだけ言って走り始めた。御岳はその後ろ姿を眼で追っていたが、しばらくして静かに目を閉じた。




 五分後。こんな時でも正確な御岳の頭内時計がきっかり五分を計りきったとき。本来なら第21列車がこの地点を通過するはずのこのとき。第21列車の姿はここにはなかった。

 ただただ、冷たい雨だけが御岳の身体を叩いていた。御岳は目を瞑ったまま、笑った。


 二次災害を起こす危険性のあるボイラーの火は、しっかりと完全に消した。事故が起こる直前まで、被害を最小限に押さえる策を講じ続けることができた。男庭と神戸は列車防護と救援要請に向かった。御岳はそれで満足だった。


 機関車から飛び出したであろう赤熱した石炭が、その輝きを失って黒くなっていく。これで発火・爆発危険性のある荷物への類焼の恐れは少なくなった。御岳はそれを気配だけで感じ取った。


 声にならない声で、御岳は呟く。


安全の確保は、輸送の生命である


規程の遵守は、安全の基礎である


執務の厳正は、安全の要件である


「神様……仏様……私はきちんと遂行できたでしょうか……」


 遠くで、大きな汽笛が鳴る。

 短い汽笛が五回、そして長い長い汽笛が鳴り響く。

 御岳は、男庭が最後の仕事をやり遂げたことを確信した。その瞬間、引きつるような笑みを浮かべる。


「よくやったぞ、男庭……!」


 笑みを浮かべたまま、御岳はその意識を手放した。




 御岳篤志。鉄道に命を賭けた一人の男が、最後まで鉄道の安全のために尽くし亡くなった瞬間だった。

この作品はフィクションです。実際の事業者、事故、人物ならびに現実世界の社会とは一切関係がありません。

また、作品内における証言、記録、および専門家による分析は、その真実性を担保するものではありません。

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