ただいま航海中2
「あら、雨の匂いがするわね……」
甲板に立つわたしは、空気の匂いを嗅いで言った。
遠くの空を見ると、雨雲らしきものが近づいてくるのが見える。
「ディアス艦長、あれは一過性の雨を降らす雨雲よね? 嵐の前触れではないわよね?」
「ああ、その通りだ。って、聖女さんはなんでそんなことまで知ってるんだ? それも神さまの加護とやらなのか?」
「うふふ」
孤児院で大量の洗濯物を干していたから、雨の気配には敏感なのよ。取り込むのに時間がかかるから、雨雲が出てきたら急いで動かないといけなかったからね!
そんな説明をするのも面倒なので、わたしは意味ありげに笑ってから「じゃあ、船旅でろくに身体を洗えない殿方たちの丸洗いにぴったりのお天気ね」とディアス艦長に向かって微笑んだ。
「さあ艦長、手の空いた者を甲板に集めて頂戴な」
「……やっぱり、洗うのか? 丸洗いなのか? 何人かはこの前の雨の時に……」
「ディアス艦長、わたしね、臭い男性は嫌いなのよ!」
聖女の微笑みを消したわたしの言葉を聞いたイケメン艦長は、ビクッとして直立不動になった。
「何日もお風呂に入らずにいた男性の集団に囲まれて、船の中という狭い環境にいたら、わたしの鼻が曲がってしまうし、不潔な状態でいると病気が蔓延する可能性があります。わたしの浄化と癒しの力に頼らずに、まずは自分たちの努力で病気を防ぎましょう! 神さまは、人がすべて神さまのお恵みに頼ることは良しとしていらっしゃいませんからね。それに、あまりにも、あまりにもこの船の乗組員が臭くなったら……」
「く、臭くなったら?」
「大いなる神さまは、船ごと浄化することをお決めになられ、あなたたちをすべてこの世から消してしまわれるかもしれませんよ……臭いから……とても臭いから……」
厳かに言ったわたしの言葉を聞き、イケメンは青くなって叫んだ。
「うわあ! 全乗組員に告ぐ! 手の空いた者は速やかに甲板に集合し、身体を洗う準備をしろ! 繰り返す、身体を洗う準備をしろ! 手が空いてなくても臭い自覚があるものは絶対に来い! 来ない場合には厳しい罰を与える! これは艦長命令である!」
まあ、気合の入った呼び出しですわね。ポーリン、ちょっぴりかっこいいなと思ってしまいましたわ。
「えー、面倒だなぁ」
「艦長、この間の雨の時も洗いませんでしたっけ?」
艦長の言葉は絶対なはずなのに、ぶつぶつ文句を言う声が聞こえる。
なので、わたしもにこやかに言って差し上げた。
「雨で洗い流すのがイヤならば、海に飛び込んで揉まれていらっしゃいな。大丈夫よ、わたしがいますからね、後で拾い上げて、癒しの力で命は救って差し上げます……たぶん。ですから、思う存分綺麗になってくださいませ。はい、海で洗いたい方以外は甲板に集合ーっ!」
いい笑顔で高らかに言うと、身体を擦る布を持ったぱんつ一丁のムキムキ男性たちが足早に甲板に集まってきた。
「イエスマム! 自分たちは速やかに身体を洗います!」
「雨で、雨で洗わせていただきますーっ!」
「さっぱりできて快適だと思います、だから海に投げ込まないでください、聖女ポーリンさま!」
若干の誤解が生じているようだ。
確かに、農作業に勤しんだり、料理中に鍋を持ち上げたりするわたしの腕は、兵士たちに負けずにパワフルなのである。そりゃあ、彼らのひとりやふたりを抱えて海に投げ込めないこともないけれど、慈悲深い聖女がそんなことをするわけがないじゃない。ね?
「投げ込んだりはしません。けれど、あまりに臭いが酷い方には、男らしく、自ら海に飛び込んでいただきたいと存じますわ」
「男らしく雨でよく洗います!」
ぽつぽつと雨が降り始めたので、わたしは屋根のある場所に移動した。
この前よく洗ったはずのディアス艦長もわたしの横に来たので、くんくんと彼の匂いを嗅いでみる。
「お、俺は大丈夫だよな?」
ビクビクするイケメン。
「はい、臭くありませんわ」
「良かった……」
「お日さまの良い匂いがしました」
「ふぉっ⁉︎」
ディアス艦長は変な声を出すと、じっとわたしの顔を見て、それから目を逸らした。なぜか耳が赤くなっている。
「あのなあ、聖女さん、そういうことをやたらと男に言うもんじゃ……いや、いい。神に仕える聖女さんが余計なことをなにも考えてないことはよくわかっているから、今のは気にしないでくれ」
「はい? わたしがなにか……」
「よし、雨が本降りになった! 石鹸をつけて身体をよく擦れーっ!」
「あ、皆さん、耳の後ろも洗ってくださいねー」
「耳の後ろも忘れるなーっ、洗い忘れた者は飯を抜くぞーっ!」
ごはんを抜かれたら大変だとばかり、皆ものすごい勢いで耳の後ろを洗っている。
なんだか、孤児院の子どもたちを思い出すわね、ふふっ。
ザーザー降りの雨の中で、ぱんつ一丁の男たちは皆綺麗になった。
良かった、これでもう臭くないわ。
わたし?
もちろん、浄化の力で毎日綺麗にしているわよ。
うら若き乙女がぱんつ一丁で身体を洗うわけにはいかないでしょ?
こんな調子で船の旅は進み、乗組員である兵士たちとも顔見知りになったのだが、唯一交流できない男性がいた。
用心棒として雇われたという、冒険者の『黒影』さんという不思議な男性だ。
彼は、肩にかかる黒い髪で、顔の半分がまったく見えないように前髪を下ろしている。そして、いつもひとりぼっちでろくに口をきかない。
着ているものは、黒ずくめのぴったりとした服とローブで、用心棒なのに武器を持っている様子はない。
そして、特徴的なのは、ルビーのような真紅の瞳だ。この世界には、赤い瞳もオレンジの瞳もなんでもありなんだけど、彼の眼はなんというか……引き込まれそうな不思議な光を放っている。
そんな彼に話しかけようと思って「もし、黒影さん、黒影さん、あら……」と、声をかけながら近づいても、いつもすっと距離を開けられてしまい、捕まらないのだ。本当に影のような人である。
「ねえ、なぜ軍艦に用心棒が乗っているのかしら」
わたしはディアス艦長に尋ねた。
「黒影さんは、この船のなにを守っているの?」
旅の護衛に用心棒が雇われるならわかるが、これは一国の有する軍艦なのだ。
前世のテレビで見た軍艦のイメージとは違って、木造だし、初めて作られた『なんとなくすごい感じのやつ』という雰囲気の船なのだが、砲台もちゃんと付いているし、ガズス帝国からレスタイナ国へ海を越えてやって来られた、ちゃんとした大型船なのだ。
そこに、男ひとりの用心棒って……。
わたしの質問に、ディアス艦長は微妙な表情をした。
「いや、何事もなければ、彼の出番はないんだが……いざという時のお守りだと思ってくれ」
「お守りですか? 余計にわからなくなりました」
「うーむ、まあ、あの男は影だと思って気にしないでくれ」
言葉を濁すディアス艦長をじっと見ていたら、通りがかった兵士が「艦長、聖女さんに手を出しちゃダメですよー、皇帝陛下のお嫁さんですからねー」と冷やかすように声をかけてきた。
「おいっ!」
「あら、艦長さんはそんな不真面目な人ではありませんよ。それより、あなたが最後に身体を洗ったのはいつですか?」
「うわあ、次の雨の時には必ず洗いますので、飯を減らさないでください!」
くんくんするわたしからぴょんと跳ねて離れた兵士は「ああ忙しい、忙しいなあ」と小走りに駆けて行ってしまった。
「どうかしましたか?」
「……やっぱり、聖女さんは真面目なタイプの男がいいのかい?」
「え?」
突然どうしたのかしら?
わたしは首を傾げた。
あっ、さてはキラシュト皇帝に問題があるのね!
5人も奥さんを娶ろうとする人だもの、真面目ではないんだわ。
今も4人の女性を取っ替え引っ替え……。
「不埒な殿方では、困ります!」
「お、そ、そうか」
「わたしは一途な殿方を好みます。好みますが……」
5番目の奥さんになるために、こうして船に乗っているのよね。
「キラシュト皇帝という方は、どのような方なのでしょうか。お会いしたこともない男性の元に輿入れするというのは、やはり不安がありますわ」
「……そりゃあそうだよな。たったひとりで、右も左もわからない国に嫁入りするなんて、いくら聖女さんでも不安になるわな……」
ディアス艦長は、空を見上げた。
今は、雲ひとつない晴れ渡った青空だ。
「まあ、もしかすると、嫁入りとは名ばかりで、レスタイナ国との関係が落ち着いたら、聖女さんは自由になるかもしれんからな」
そして、艦長は咳払いをすると「これもなにかの縁だ、困ったら、俺、いや、俺たちのことを頼っても、その、いいからな。海軍は割と自由なんだ」と言った。
あら、わたしを船乗りにしてくれるのかしら?
この方は、とても親切な方ね!
「ありがとうございます」
わたしがにっこりと笑うと、ディアス艦長は耳を赤くしながら「今夜の飯はなにかな? 船に乗っていると、食べるのが一番な楽しみだからな、ははは」と言いながら足早に去ってしまった。
「ふふふっ、そんなに期待されているなら、今夜のお料理もはりきりましょう」
わたしはスキップをしながら厨房に向かった。
「なんだ? 縦揺れの波が当たっているぞ?」
ええい、うるさいわ!
うら若き乙女の軽やかなスキップで、そんなに揺れるわけないでしょ!
「ああ、嵐の前触れでなきゃいいんだがな」
……どうやら本当に揺れたようだ。
ポーリン、ちょっぴりショックですわ。