シャーリーの事情 その1
その時、頭上が暗くなったので見上げると、木々の向こうに翼を広げたシルエットが見えた。そのまま木の間をうまくすり抜けて、戻ってきたセフィードさんが着地した。その手には、例の移動用の籠『ポーリンちゃんのお部屋』を持ったままだ。
「置いてこなかったのね」
セフィードさんは、籠の蓋を開けた。
「んっ」
「ええとそれは『急いで町に戻るなら、ふたりでこの中に入るといいよ』という意味かしら?」
「ん」
彼は頷いて、手から鋭い爪を出して見せた。
「そうね、その籠にわたしたちが入っていればスピードも出るし、万一空を飛ぶ魔物に遭遇しても、ドラゴンの殺気を放って威嚇すれば逃げ出すでしょうし」
「ん」
爪を振るって見せる。
「逃げないような魔物は、籠を置いてセフィードさんが倒しちゃえばいいし」
「ん」
彼は爪をしまって、籠をとんとんした。
ジェシカさんが「さすがはポーリンさまです。よくわかりますね」と感心している。
だが『ん』だけで語られても困るのだ。
もしかしてさっきの長ゼリフで、セフィードさんの今日の語彙が尽きてしまったのかしら?
「中が虎臭いかもしれないが」
あ、悪口のストックはまだ残っているみたいね。
まあ確かに、過酷な亡命の旅だったようで、バラールの髪はボサボサだったし、髭も伸び放題でお世辞にも清潔とは言えなかったわね。
わたしはジェシカさんに言った。
「それでは、だいたいの調査も終わったことだし、この籠でオースタの町に戻りましょうよ。ジェシカさんには、ギルド長への報告をお願いしたいのだけれどいいかしら?」
「はい、了解です」
「セフィードさん、この大盾も一緒に持てそう?」
「ん」
問題ないのね。ドラゴンって本当に力持ちよね。
さて、それでは急いであのネズミのお姫さまのところに行ってあげたいから……。
「くっさ!」
籠に入ろうとして屈んだわたしは、思わず鼻を押さえた。
「嫌だわ、すごく臭いわ……虎臭い……」
籠の中は、本当に臭かった。
さっきは、わたしたちが風上にいたし、密閉された空間ではなかったからこれほどまでの異臭ではなかったのだが……。
何日もかけて熟成された虎の汗の臭いと、血の臭いと、虎本人の臭いとが、わたしの可愛い籠の中でなんとも言い難い配合で混ざり合い、お互いを悪い意味で引き立て合い、出来上がったデンジャラススメルがこの籠いっぱいに充満している。
「換気したけれど、無理」
少し眉をへの字にしたセフィードさんが、すまなそうに言ったけど、彼は悪くないと思う。
「いやあん、染み付いちゃったのかしら?」
ごめんね、セフィードさん。
虎さんの悪口を言いたかったわけじゃなかったのね、正確に状況を伝えただけよね。
それにしても、これはものすごい臭いだわ。
「聖霊の加護もなしで砂漠と山を越えてくるのは、尋常なく大変なことですもの。バラールに身体を洗う余裕なんてなかっただろうし、事情はわかるんだけど、でも……」
理屈ではわかるのよ。
でもね。
めっちゃ、くっさーっ!
お気に入りの籠が臭くなってしまって、ポーリン、大ショーック!
「……軍艦を思い出した。懐かしいな」
「そうね、あの船の海軍兵士も最初は結構臭かったから、雨で洗わせたのよね……って、懐かしんでいる場合ではないわ、セフィードさん。ジェシカさんの鼻がピンチよ」
「あうううう、鼻が、鼻がああああーっ!」
わたしだけ臭い思いをしたら申し訳ないと思ったのか、ジェシカさんたら籠の臭いを嗅いでしまったのよ。
ダメじゃないの、鼻がいい狼ちゃんがそんなことしたら!
案の定、かわいそうに両手で鼻を押さえて地面を転げ回っている。
「どうしましょう……ああ、神さま。これでは籠の中でおやつを美味しく食べられません。嗅覚も味覚のうちなのです」
わたしは悲しげに呟いた。
ジェシカさんはぐったりと横たわった。
その時、天から金色の光が降ってきて籠を包み込んだ。
「わあっ、ポーリンさま! 籠が光ってますよ!」
涙目のジェシカさんが起き上がり、地面にぺたんと座ったまま言った。
「まさか、神さまがお力添えしてくださったの?」
やがて、光が消えた。
恐る恐る籠の入り口に顔を入れてみる。
「臭くない……全然臭くないわ」
完璧に、殺菌消臭されているし、綻びていたところは修復されているわ!
この中でお弁当も美味しく食べられそうよ。
すごいわ、さすがは豊穣の神さまね、食べ物飲み物を美味しくいただくことに関しては、徹底的に加護をくださるのね。
「神さま、ありがとうございます。これで美味しくおやつを食べられます」
天に祈りを捧げるわたしにも、金の光がキラキラと降ってくる。
「なんて幻想的なお姿でしょう……さすがはポーリンさまです……ほんのちょっとだけ、加護の無駄使いかな、って思ってしまったことをお詫びいたします」
あ、それ、わたしも思ったからね!
でも、あの臭いの籠に入るなんて拷問ですもの。お優しい神さまは、敬虔な聖女を守ってくださったのよ。
「あらいけない、急がなくちゃ。身体の大きな虎が乗れたんだから、女子ふたりなんて楽勝で乗れるはずよ、ジェシカさん、行きましょう……あら?」
楽勝で乗れるはず、なんだけど……ううん、なんだか狭いわ。
「大丈夫です、こうすれば乗れますから」
わたしの後から乗り込んだジェシカさんが、膝を抱えて小さくなった。
身体が柔らかいのね。おかげで助かったわ。
「そうね、乗れればいいのよ、乗れれば」
わたしもなるべく身体を縮めるようにして、膝を抱え込もうと…したけれど、お腹のお肉が邪魔をする。
「おかしいわ、余裕で乗れると思ったんだけど、なにがいけなかったのかしらね」
「そうですね」
ジェシカさんは、神妙な顔で頷いた。
というわけで、わたしたちは籠の中で体育座りをして、おやつも食べずにおとなしくセフィードさんに運ばれたのであった。
オースタの町でジェシカさんをおろし、依頼についてとガルセル国から亡命してきたふたり(身分が高そう)を預かっている件の報告を頼み、防具屋に盾を預けてくる。
「お待たせ、行きましょう」
小さな女の子の服と男性の普段着を数着手に入れたわたしは、再び籠に乗り込んで『神に祝福されし村』に戻った。
「あ、奥方さま! お帰りなさい」
「おかえりなさーい。新しいおともだちがね、すりおろしたりんごおいしいってー」
「たくさん食べてたよ。すごく可愛い子なの。ねえ、奥方さまのアップルパイも食べたいって言うんだけど、あげてもいいかな?」
「一応、奥方さまに聞いた方がいいって言ったのよ。あのネズミちゃんのお腹の調子が悪くなったら大変だからね」
「いたいいたいしたら、かわいそうなの」
「シャーリーちゃんって言うんだって! 最初は寝てたけど、もう座っていられるの。普通に歩いてるよ。早くもっと元気にならないかな。明日、遊べる? 走れるようになる?」
「そうね、遊べるといいわね。最初は座ってお花摘みをするといいわ」
わたしは、籠から出るなり抱きついてきた子どもたちの頭を撫でながら笑った。
シャーリーちゃんの容体がよくわかったわ。
子どもってすごいわね。
「よく噛んで食べるなら大丈夫だと思うから、アップルパイもあげて頂戴」
「はーい」
子どもたちは「わーいわーい」と言いながら駆けていった。その目的地を見て「どうやらミアンのうちで看病してもらったみたいね」とセフィードさんに言った。
ミアンのうちは、お母さんのルアンとお姉さんのリアンとの女性の3人暮らしなのだ。弱ったネズミの女の子の預け先として最適だと思う。
「あら、そういえば、バラールはどうしたかしら?」
すると、シャーリーちゃんのところに駆けていきながら、子どものひとりが振り返って教えてくれた。
「虎のおじさんは、泉のところでリアンとミアンに丸洗いされてる!」
虎の丸洗い?
「おじさんもりんご食べて元気になったから、今度はあわあわにされてるの」
「リアンとミアンにめっ!されてたよ」
リアン、ミアン、グッジョブ!
「奥方さま、お帰りなさい」
「ルアン、ただいま。あら、シャーリーちゃんはすっかり元気になったみたいね。よかったわ」
祝福のりんごのすりおろしを食べたネズミの女の子は、今はテーブルについてもきもきとアップルパイを食べていたが、わたしを見るとはっとして手を止めた。
「あの、あなたは……」
「いいのよ、そのパイを食べておしまいなさいな」
シャーリーちゃんは、嬉しそうにぴょこんとお辞儀をすると、またもきもきとアップルパイを食べ始めた。
「はーい」
「はーい」
「はーい」
いいお返事がたくさん聞こえた。
なぜか、村の他の子どもたちもシャーリーちゃんと一緒のテーブルでもきもきしていた。
あっ、目を離したら、きちんと手を洗った(ここはわたしの躾の賜物ね)ドラゴンさんまでテーブルについて、アップルパイをもきもき始めている。
うーん、違和感がまったくないのがなんとも言えないわね。
「そうだわ、ルアン。シャーリーさんに服を何枚か買ってきたのよ」
「ありがとうございます、助かります。とりあえずはミアンの服を着せたんですけれど」
「ありがとう、ルアン」
身体を拭いて、ミアンの服を着せてもらったらしいシャーリーちゃんのほっぺたは、ピカピカに輝いている。
「いろいろとお世話をしてもらって助かったわ。で、リアンとミアンが虎の丸洗いをしてるって聞いたんだけど」
「あの虎の方は、あのままでは衛生上良くないので……」
うん、臭いわよね。
「虎さんの服も買ってきたから、泉に届けてくるわ。いい服を着ていたけれど、汚れてぼろぼろになっていたものね」
あと、臭いだろうしね。
脱いだ服は燃やしちゃっていいかしら?
「俺も行く」
パイを口に突っ込んで、頬袋を膨らませた(ドラゴンに頬袋なんてあったかしら?)セフィードさんが、椅子から立ち上がった。




