危機、または、過保護な人々1
セフィードさんと一緒に採ってきた蜂蜜は、とても美味しかった。
神さまの祝福のもとに咲き誇った花々は、みな蜜をたっぷりと含んだ芳しいもので、『美味しい蜜が採れる花』というわたしのお祈りをしっかりと聞き届けてくれた素晴らしいものだった。
そんな花々から、巨大な蜜蜂たちが嬉々として集めてくれた蜜は、深い奥行きのある甘さなのにくどくなく、口に含んだ時に風が吹き抜けるような花の香りが漂い、追いかけようとすると消えてしまう。
さすがは豊穣の神さまである。
最高の蜂蜜をくださった。
蜜蜂たちの様子からすると、あの場を訪れるたびに革袋から溢れんばかりの蜂蜜を分けてくれそうだし、この村の蜂蜜祭りは終わりなく続きそうだ。
わたしは神さまに感謝の祈りを捧げた。
この世界に美味しいものを広めるために、全力で祝福をくださる神さまの、その御心の深さは、海よりも深く、空よりも広く、大宇宙よりも果てしないのだ。
そんな蜂蜜をたっぷりと使って作ったアップルパイを、今日もセフィードさんはもきもきと食べている。
少し頬を赤くして、口にパイを頬張るコミュ障ドラゴン、可愛い。村の人たちも内心で『うちの領主が可愛すぎる……』と胸を熱くしているに違いない。だって、みんなあんなにちら見している。
しかし、こんなに可愛いドラゴンなのに、セフィードさんと一緒にいるとわたしは時々胸の鼓動が激しくなり、どうして良いか分からなくなってしまうのだ。
この前の、蜂蜜を採りに行った帰りもそうだった。
早く蜂蜜入りのアップルパイを味わいたかったセフィードさんは、一刻も早く村に戻りたくて、わたしを抱き上げて村まで翼でひとっ飛びしたのだ。
その表情には、確かに食欲しかなかった。
他の煩悩はまったく感じないし、わたしは単なる(重い)荷物としか認識されていないのは明らかだった。
でもね。
でもね!
見た目はひょろっとした、実は力持ちのイケメンドラゴン、セフィードさんに、ドキドキのお姫さま抱っこをされたわけである。
そして、そのままふたりで空の旅だ。
清く正しい敬虔な聖女である……はっきり言って男女交際的な経験が皆無なわたしは、殿方と密着したまま長時間過ごして、心臓がばくばくになってしまったのである。動揺のあまり、蜂蜜を抱き潰さなくて本当に良かったと思う。
だって、女の子だもん。
しかも、最近なんだかセフィードさんのことを意識しちゃってるんだもん。
体温とか、匂いとか、すぐ近くにある整った顔とか、ものすごく刺激が強いんだもん。
そりゃあお年頃の女子としては、ハートもばくばくにもなりますよね!
それなのに、当の食いしん坊ドラゴンは、わたしの乙女心になんてまったく気づかないで、涼しい顔でりんごの木の下にわたしを下ろすと「りんごはいくつ使うんだ?」なんて聞いたのよ!
アップルパイを作ってもらう気持ち満々ですよね!
もうっ、セフィードさんったら、わたしとりんごと、どっちが大切なの?
……りんごですか、そうですか。
ちょっぴり凹んだ。
そんなある日。
農作業の後のおやつに出そうと、わたしはせっせとパイを折りたたんでパイ生地を作り、パイ皿に敷き詰めると、甘く煮込んだフィリングを入れてパイ生地で蓋をする。今日はカスタードクリームとシナモンを効かせた甘煮のりんごを入れてみた。
カスタードクリーム、美味しいよね。
その表面にナイフで飾り包丁を入れて、水で溶いた卵を塗る。
こうすると焼き上がった時に艶々になるのだ。やっぱり料理は見た目から美味しそうなことが大切だと思う。
よし、こうなったら、美味しいお菓子でセフィードさんの心をぐぐっとつかんでしまおう。
ぐぐっとつかんで……その後のことを考えるとまた心臓がばくばくするのでやめておこう!
自分の経験値の低さが悲しいわ!
あと、このアップルパイって町で売れないかな?
あの祝福のりんごは、村の人たちのためのものだから、外に出すのはまずいと思う。りんごを目的にこの村を襲おうと考える悪い人間もいるかもしれない。
でも、パイに加工したものならばいいんじゃないかな?
美味しいパイを、この村の特産品として町で売って、そのお金で買い物をして来るようになれば、セフィードさんの負担が減る。彼の出稼ぎにばかり頼らないで、村の人たちの力で収入が得られるようにしなくては。
そんなことを考えながら熱くなった石窯にアップルパイを並べていると、セフィードさんがやってきた。
「あとは焼くだけですからね、楽しみにしていてください」
待ちきれないのかな、と思って彼に声をかけたら、セフィードさんはわたしの頭に白い輪を乗せた。
「……花の冠、だ」
「え?」
「村の子に教えてもらって作った」
神さまの祝福が広がっているため、村の周辺には美しい花も咲くようになり、村の子どもたちのおもちゃになっているのだ。
「……ええと、セフィードさんが作ってくれたんですか?」
彼はこくんと頷いた。
「俺はポーリンになにも作れない。なにもあげられない。……そう言ったら、花の冠を作って渡すといいと、教えてもらった。もらうと、いいことがあるらしい」
「そうなんですね」
「よく似合う」
いつもは魔物を倒すこの手で、一生懸命に花を編んでくれたのだろう。
背中を丸めて、子どもたちに花の編み方を習うセフィードさんの姿を想像して、わたしは温かい気持ちになった。
「ありがとうございます、とても嬉しいです」
「うん」
「……? どうかしましたか?」
「……」
なんだろう。
セフィードさんが、なにか言いたそうな、期待しているような感じで、じっとわたしを見ている。
いったいなにを待っているのだろうか。
しかも、セフィードさんはじりじりと近づいてきている気がする。
「あの……パイはまだ焼けませんよ?」
わたしが首を傾げていると、物陰からミアンたちが顔を出して、声をひそめて言った。
「早く、奥方さま、ほっぺに」
「え?」
子どもたちが、みんな自分のほっぺたをつついて見せている。
「奥方さま、ここ」
「ここに、ちゅって」
「そういうお約束」
「はいっ?」
なんのお約束ですか?
聞いてませんけど?
「男の人が頭に白い花の冠を乗せたら」
「女の人はちゅってしなくちゃいけないの」
「白い花の冠は、好きな人にしか乗せないの」
「これは大切なラブラブのお約束なのよ」
村のちびっこ女子ーズが、口々に言う。
「ちゅってしないと、お断りになっちゃうから、セフィードさまがかわいそうなの」
「だから、奥方さまはちゃんとちゅってしてあげて。奥さんなんだからね。しないとセフィードさまが泣いちゃうよ」
奥さん?
ああっ、そういえば、村の人たちの誤解を解いていなかったわね。
わたしはセフィードさんの奥さんではないのよ。
「いやいやいやいや、あなたたち、ちょっとお待ちなさいね。あのね、セフィードさんは泣きませんし、そんなお約束は……え? セフィードさん?」
彼を見ると、捨てられたトカゲのような悲しい目になっていた。
「奥方さま、早くしてあげて」
「セフィードさまがかわいそう」
でも、セフィードさんはそんなことを望んでない……いや、望んでいるの?
明らかにほっぺたを近づけてきている!
悲しい瞳をしながら!
「奥方さまー」
「奥方さまー」
「おーくーがーたーさーまー」
「いーけーずー」
えっ、わたしが悪いの?
「……」
わたしは、腰をかがめて上目遣いでこちらを見ている、無言でなにかを訴えるトカゲ……いや、ドラゴンを見た。
「……ふんっ」
そしてわたしは、鼻息と共に、素早く彼の頬に唇をつけた。
「やったー」
「ラブラブー」
「セフィードさま、よかったねー」
「仲良しねー」
「いちゃいちゃカップルなのねー」
「……ああ」
彼はいつの間に子どもたちと仲良くなったのだろう。
セフィードさんは、わたしのことをチラッと見てから「……ふっ」と口の端を持ち上げた。そしてダッシュでその場からいなくなった。
その後を、「やったー」「やったー」とはやし立てながら、子どもたちが追いかけて行った。
「……い、今のはなんだったんだろう……」
あれは、ほんのわずか口の端っこが上がったあれは、セフィードさんのことをよく知っていないと気がつかないけれど、笑った、のよね?
しかも、ほんのわずかほっぺたを赤くしてたよね?
……ほっぺたにちゅってされた、照れ笑い、なのかしら?
なのね?
「貴重なものを、ごちそうさまでした」
わたしは、セフィードさんの照れ笑いを見た衝撃で、呆然としながら呟いた。
そして、こんがりと焼き上がったアップルパイを取り出した。
顔が熱い。
……どうやらわたしのハートもこんがりと焼けてしまったようだ。




