ガズス帝国へ
その後も、わたしはなんとか黒影さんときちんとしたコミュニケーションを取ろうとして、ことごとく失敗していた。
「もし、黒影さん、黒影さんってば……ああもう!」
なんという逃げ足の速さよ!
そりゃあ、軽い身のこなしの彼と、どすどすと歩くわたしでは、勝負は目に見えている。
しかも、黒影さんは身を潜めるのが上手いのだ。さすがは『黒影』と言われるだけある。
それなのに、こんなにもわたしから逃げるくせに、当の黒影さんはというと、時折物陰からわたしの様子を窺っているのだ。
暗いところから、真紅の瞳がじっとこちらを見ている様子はちょっと怖い。
なので、彼を見つけると、もう少しまともにコミュニケーションを取るべく「あっ、黒影さん! 黒影さーんっ、お待ちになってったら、黒影さん!」とどすどす突進していくのだが、そうすると彼はあっという間にどこかへと行ってしまう。
なによ、わたしになにか用事があるんじゃないの?
聖女にはテレパシー能力はないんだから、口で言ってもらわないとわからないんですけど!
「ううむ、黒影さんはかくれんぼがうまいわね」
今日も赤い瞳の主を取り逃したわたしは、ふんぬふんぬと鼻息も荒く、腕を組んでふんぞり返りながら艦長に言った。
「まったく姿を見せないならともかく、気がつくとあの赤い目がこっちを見ているんですもの。なんの用事があるのだろうと、気になって仕方がないわ」
「聖女さん、また黒影と追いかけっこか?」
「だって、意味ありげにこっちを見てるんですよ、あれでは構って欲しい子どもと一緒です。大の大人の態度ではありません。なんなのでしょうか、あの人は? 艦長さん、黒影さんからなにか聞いていませんか?」
わたしは、ディアス艦長に尋ねた。
「いや、俺とも仕事以外はほとんど喋ることもないし、この海域にはもう巨大な魔物も棲んでいないから、今はあいつと挨拶すらしていないぞ。黒影がなんで聖女さんに執着しているのか、俺の方が知りたいくらいだ」
ディアス艦長は、わたしに「以前、黒影に会ったことはあるか?」とわたしに尋ねた。
「あれはかなり力のある冒険者だから、いろんな国々を訪れたこともあるんじゃないかな。遠回りすれば、ガズス帝国からレスタイナ国へ陸地を通って行くことも可能だ」
「えっ? そうなんですか?」
知らなかったわ!
海を渡らないと、大陸を行き来できないと思っていたのよ。
と思ったら「まともな人間にはかなり厳しい旅だからな、火山を越えなければならないような難所もたくさんあるし」と聞いて納得した。
この世界には、飛行機とかヘリコプターがないものね。馬車や馬で行けないような道では道とは言えないわ。
でも、黒影さんには翼がある。
どのくらいの距離を飛べるのかわからないけれど、この前の様子を見た限りでは、軽々と空を飛んでいた。ということは、彼なら、火山も飛び越えて……。
「あっ、また黒影さん!」
わたしは、ディアス艦長と話している様子を陰から見つめる真紅の瞳を見つけて駆け出した。
「いい加減にお待ちなさいってば、黒影さん! もう、おやつをあげませんよ、黒影さんがアップルパイを好きなことを、このポーリンは知っているんですからね、黒影さーんっ」
「あれ……まさか、聖女さんに惚れてるとかじゃ……ないよな、まさかな」
後ろで艦長が奇妙なことを呟いた。
美味しいごはんを作ったり、兵士たちの健康管理(そして、兵士たちの丸洗い)をしたり、黒影さんとの不毛な追いかけっこ(アップルパイで脅してもダメだったわ! 何食わぬ顔で、大きなパイの固まりをかじっていたのを見たわよ)をしたりしているうちに、船はガズス帝国の港に着いた。
「豊穣の神さま、旅の間のご加護をありがとうございました。おかげで船に乗っていても、毎日美味しい食事を取ることができました。ガズス帝国の兵士たちからも、感謝の祈りをことづかっております、ありがとうございます」
うんうん、ケガを治したニックをはじめ、ガズス帝国の兵士たちにも我らの神さまへの信仰心が育ったようだ。特にニックは毎日熱心に神さまにお礼をして、ケガをする前よりも運動能力がアップしたと喜んでいる。
うん、信じる者は救われるのよ!
わたしは、船旅の最中にがんばって収穫させてくれた野菜や果物のプランターに向かって、感謝の祈りを捧げた。
「わたしたちのために、ありがとう。日々の実りを感謝いたしますわ」
すると、役目を終えた野菜も木もみるみるしおれて、それぞれの種となり、プランターの土も役目を終えて消滅してしまった。わたしは種を集めて鞄にしまうと、空になったプランターを重ねてコンパクトにまとめた。
「こりゃあまた、輪をかけて荷物が少なくなっちまったな」
船室から運び出されたプランターを見て、呆れたように言うディアス艦長に、服や種などが入った鞄ひとつのわたしは「いろいろお世話になりました。ありがとうございました」と頭を下げた。
「こっちこそ、聖女さんにはすっかり世話になった。正直、こんなにも楽しい船旅になるとは思わなかったな」
「あら、良かったわ」
わたしが笑っていると、兵士たちも別れの挨拶に来てくれた。
「聖女さん、行っちまうのか」
「なんだか寂しいな」
「うまいもんをありがとう」
気のいい海軍兵士たちが口々に言う。
「あんたみたいないい人は、きっと幸せになれると思うけど、なんかあったら俺たちを頼ってくれよ」
ディアス艦長と同じようなことを言ってくれる。
「ありがとう。皆さんもお元気でね」
「おう」
「船に乗っても、身体を清潔にして臭くないようにするのよ」
「お、おう」
「それではごきげんよう」
わたしは別れを告げて、迎えの馬車に乗り込んだ。
「ポーリン、覚えておくんだぞ、俺を頼れよ!」
最後に、真剣な顔でディアス艦長が言った。
そして。
やっぱり物陰から真紅の目がわたしを見ていたので「黒影さん、お元気でね」と手を振った。彼は奇妙な表情をしていたが、すぐに姿を消した。
港から3日程馬車に揺られた場所に、帝都はあった。
港にはレスタイナ国にやって来たような大きな船が何艘かあり、中型と小型の船はたくさんあって、とても賑やかだった。ガズス帝国は、どうやら海を使っての流通が発達しているようで、そのため帝都も便利な海から近いところに作ったのだろう。
馬車で少し走ったら森もあり、海の近くには岩しかないレスタイナ国と違って船の材料にも困らなそうだ。
ガズス帝国は海と山とがバランス良くある国なので、国力も大きく育ったのだろう。
そんなことを考えながら旅をして、わたしは帝都の王宮に着いた。
少ない荷物と共に馬車を降りて、レスタイナ国を代表して王宮へ向かったのだけれど……。
「聖女さま、お待ちしておりまし……た?」
「ありがとう。『豊穣の聖女』ポーリンと申します。どうぞよしなに」
わたしは淑女らしく、王宮の入り口で迎えてくれた男性に挨拶をした。
神殿に上がった時に、一通りのマナーは勉強したのよ。
「嘘でしょ、あれが聖女なの?」
誰かの声がした。
「レスタイナ国の聖女はみんな美女だっていう噂、あれは間違っていたみたいだね」
「金髪に青い瞳は美しいと思うが……まるでブタじゃないか。あれではシロブタ聖女だ」
……ひっど!
マジ、ひっど!
ポーリンは傷つきました! ぶう!