ただいま航海中3
海の旅の半ばにさしかかった頃、ディアス艦長から注意を受けた。
「そろそろ魔物が棲む海域に入るぞ」
「魔物ですか?」
わたしは甲板から穏やかな海を見渡しながら言った。素人目には、なんの脅威も感じられない。
すると、艦長も海面に目をやりながら「いつもの安全な海に見えるだろう。だけどな、海ってやつは底知れないものなんだ。見た目だけでなく、勘を働かせて危険を察知しなくてはならない」と言った。
「聖女さんは、海を渡ろうとした者たちがことごとく失敗してきた理由を知っているか?」
「巨大な海の魔物が船を沈めてしまう、という話は聞いたことがあります」
艦長は頷いた。
「奴らは、船に美味しい餌が乗っていると知っているんだ。船を襲える程の大物は、数はそれほどいないようだが、なにしろ勘がいい。ガズス帝国とレスタイナ国を隔てる海域に生息しているから、遭遇することは覚悟しておいた方がいいぞ。まあ、聖女さんは自分の部屋に隠れていてくれりゃあ、それでいいから」
「あら、わたしは闘わなくていいんですわね、良かったわ」
畑を狙う猪となら、クワで闘ったことがあるけれど、海の上では『豊穣の聖女』は役に立たないわ。
え? 猪はどうしたか?
クワでボコボコにした挙句、猪鍋にして、孤児院で美味しくいただいたわよ。
神さま、美味しいお肉をありがとうございました。
ディアス艦長は「それは兵士の仕事だ。大砲もあるし、魔物は俺たちに任せろ。聖女さんには、できたらケガ人の介抱を頼めればありがたいな」と笑った。
うん、イケメン艦長はわたしが猪一頭も殺せないおしとやかな聖女だと思っているわね、おほほほ。
「とにかく、魔物が現れたらおとなしく隠れていてくれ」
「はい、わかりました。荒事は殿方にお任せ致しますわ」
わたしはそう言いながら、手の中でぼきりと折れた猪の牙の感触を思い出したのであった。
と、良い子のお約束をしましたが。
「大型の魔物が現れたぞ、総員配置につけ!」
「あら、魔物はタコかしらか、イカかしら? 焼きイカも美味しいけれど、旨味が強いのはタコなのよね」と、揺れる船内を甲板に向かった。
そっと外を見ると、少し離れた場所に吸盤の付いた脚が暴れているのが見えて、わたしの胸をドキドキさせた。
「タコだわ! 茶色い脚だもの、あれはきっとタコよ」
ふんかふんかと鼻息を荒くしながら、わたしはディアス艦長に見つからない位置から海の魔物を観察する。
耳を塞いでおいて正解だった。
轟音と船がビリビリ震える中を、砲弾が飛んでいき、海から現れた丸い頭を攻撃していた。
「ああ、やっぱりタコだわ! 神さま、今日のありがたきお恵みを感謝いたします。ポーリンはあれが柔らかくてじゅわっと旨味を噴き出す最高に美味しいタコであることを信じておりますから! ええ、心から!」
豊穣の神さまに祈りを捧げる前で、タコへの攻撃は激しくなっている。
しかし。
「……あのタコ、強くない?」
そうなのだ。
総攻撃を受けているというのに、タコは怯む様子はなく、触手を船に向けて伸ばしてくる。吸盤付きのあの太いうねうねに絡まれたら、この木造船はかなり危険なんじゃないかしら?
と思っていたら、艦長の側から黒い影が飛び立つ。わたしは思わず声をあげた。
「翼ですって? あれは、黒影さんだわ! 黒影さんの背中から翼が生えて、空を飛んで行くわ……あらまあ……」
驚いたことに、まるで真っ黒な蝙蝠のように、黒影さんが飛んでいるのだ。そして、彼の手が光っている。目を凝らすと、持った武器が光を反射しているのではない。彼の腕がかぎ爪状に変化して、ギラリと光っているのだ。
「黒影さんの大変身だわ」
この世界には、確かに魔法がある。しかし、魔法使いでも身体を変形させることはできないし、空を飛べるなんて話も聞いたことがない。
黒影さんはガズス帝国の秘密兵器なのだろうか?
いやでも、彼は冒険者だという話だし、あの協調性のなさで軍人として働けるとは思えない。
わたしが見ている前で、黒影さんは巨大なタコへと急降下してその爪を振るった。すると、そこからかまいたちだか衝撃波だかが出たようで、タコの脚が見事に両断された。
船内から歓声が起こる。
「強い……強すぎるわ。なるほどね、ガズス帝国の船が海を渡って来られたのは、黒影さんの存在があったからなのね」
そう、ガズス帝国の砲撃だけでは魔物を退けることができなかった。
レスタイナ国もガズス帝国も、『普通の人間』の力ではまだ海を渡ることはできないのだ。
と、タコが反撃をした。口からなにかを吹き出して、それが当たった黒影さんが揺らいだ。でも、堕とされるまではいかない。旋回してすぐに体勢を立て直し、タコが振り上げた脚をザクッと切り落とす。
「あっ、それ、一本欲しいわ!」
「なっ、聖女さん! あんたは出てきちゃダメだってあれほど言ったろうが!」
「その足は美味しいと思うのよ、だから一本お願い!」
「ええっ、あれを食う気なのか?」
「なんて肝っ玉の持ち主なんだ、あんなものを食おうなんて普通じゃあ思いつかねえぞ!」
戦いの最中に、そんなざわめきが起こる。そうしている間にもタコの化け物は黒影さんにサクサクと切り刻まれ、やがて力尽きて海へと沈んでいく。すると、そこに別の魔物が群がった。タコを食べるつもりなのだ。
「あーっ、わたしのタコが!」
「……」
黒影さんは、半泣きのわたしを心底呆れたような目で冷たく見ると、すっと海面に急降下した。そして、爪の先にひと抱えもある巨大なタコ足を引っ掛けると、船の甲板に「ほらよ」と放り投げた。
「うわあ、嬉しい! ありがとう、黒影さん!」
のたくたのたくたと甲板をのたうち回るタコ足を見て、わたしは喜びの声を上げた。兵士たちは「うへえ、気味わりーな」と嫌な顔をした。
タコの美味しさを知らないなんて、かわいそうな方たちね。
「ご苦労だったな……いろいろと」
「仕事だからな」
ディアス艦長に労われた黒影さんは、甲板に降り立つと翼と爪をしまって、いつもの黒尽くめのひょろりとした謎の青年に戻った。
「黒影さん、強いのね。まさかタコが手に入るなんて……あら?」
駆け寄ると、彼の前髪が水しぶきで濡れて、いつも隠れていた顔が見えた。
「ケガをしているわ」
「……これは元からだ」
彼は鬱陶しそうに顔を背けた。
黒影さんの顔の左半分は、黒とグレーのまだらになっていた。火傷の跡なのだろうか?
そして、さっきのタコの攻撃で顔に新たな傷がつき、血が滲んでいた。
あんな化け物と闘って、かすり傷で圧勝するなんて、なんという人間離れした強さだろう。
いや、空を飛ぶ時点ですでに人間離れしてるわね。
わたしは軽い気持ちで、彼の傷を治そうと左頬に手を伸ばした。
「よせ、触るな!」
彼は一歩飛び退いたが、こう見えてもわたしも結構運動神経がいいのだ。
なので、どすんと一歩前に飛んで、彼の顔に手のひらを当てた。
「おい、危ないから……」
「はい、痛いの痛いの飛んで行けー」
ついつい孤児院の子に言うように、おまじないの言葉を付けてしまう。
あの子たちも転んだりぶつかったり、いろいろと小さなケガをしてくるのよ。
「おまえの手が……え?」
目と口を開いて言葉を途切らせた黒影さんの頬の傷は、癒しの力で綺麗に治った。
「はい、もう大丈夫よ」
「……手は!」
「きゃっ」
黒影さんが急にわたしの手をとったので、可愛らしく悲鳴なぞあげてしまったわ。彼は黒い手袋をした手でわたしの手を握り、まじまじと観察をした。
「……大丈夫だ、全然ただれていない……それに、今の呪文は……いや、だが」
彼は呆然とした表情で「あの娘は美少女だったが……」と呟いた。
間違っていなくてよ、わたしは美少女聖女のポーリンさんよ。
ちょっとばかり体格がいいけどね!