悪魔の誘惑
菜々緒がコッソリと顔だけを出して覗くと、ワンピース姿で玄関で土下座する大家さんの姿が視界に入ったのだった。
流石にそのままというのもあれなので一先ずリビングへと場所を移して話すことにする。
「……先生は、先生はあの先生なんですよね!?」
ソファに座った大家さんこと如月 涼音は落ち着きなくソワソワしていたかと思うと意を決してそう言ったのだった。
「はぁ、言葉が足りませんが恐らく分かっていらっしゃるんですよね。私が大江山 紅蓮です。」
如月の瞳が大きく見開かれ、頬が赤みがかって興奮しているのがわかる。
「どうして分かったのか伺っても?」
「はわわ、せ、先生が信念をもって覆面作家として活動されていることは存じております。誰にも言ってません! 以前、廃棄の日じゃない日にゴミが捨てられてまして注意しようと名前を確認しようとしたんです。そしたら中に入っていたのが原稿用紙だけで……」
菜々緒が郁之を問い詰める。
「先生、ゴミの日を無視して捨てたんですか?」
「いや、全然記憶にない……。あー、でも執筆が進んで曜日が飛んでる時はたまによくある、かも」
「あー先生、3日間コーヒーしか口にしてなくて倒れかけてたこともありましたもんね」
呆れた声で言う菜々緒と、興奮を隠しきれない如月さん。
「私、その、読書が趣味でして。読書のために働かなくてもいいように賃貸収入で生活できるように頑張ったくらいでして……。ともかく先生のファンです」
「あ、ありがとうございます?」
「あ、いえ違くて。そうじゃなくて。その、気になって読んじゃったんです。最初は先生の文体に似てるなって……、そして読んでいく内に間違いなく先生の作だと思いました」
「まさかそんな偶然が重なって先生の正体にまで辿り着くなんて」
「まぁ、私の作品ならあり得ないことじゃないな。ただ、私が破棄したものについては私が自信を持って送り出せなかった子たちだからなぁ。正直それを読まれるのはあまり……」
紅蓮は恥ずかしそうにしている。
「そんなことないです! 私、”銀河探偵コロンボーの憂鬱な災難”は先生の作品の中でも3番目に好きなんですから!」
紅蓮は頭を抱えて悶える。如月が口にしたのは紅蓮がめいっぱい欲張って色んなジャンルを詰め込んでみた作品だった。
「流石に捨てられた作品を最後まで書いてくださいとかは言えないですが、もっと先生の作品を読みたいんです。来年から大学生活のために預かることになってる甥っ子に隣の部屋を用意してたんですが、今の賃料そのままで先生に貸します。どうかここを出て行かないでください!!」
如月さんなかなか酷い、甥っ子が憐れだなと菜々緒は思った。
「私の作品を好きだと言ってくれるのは嬉しいんだが、やはりゴミはゴミだし。私の納得していない作品を読まれるのはなぁ」
「……分かりました。ペット可、ペット用品の充実したコンビニ、獣医さんなんかを内包したマンションを建てます。先生には今のお値段据え置きで一フロア貸します!」
「「は?」」
「先生、ねこちゃん飼い始めたんですよね? もし困ったときにすぐ頼れたら助かるんじゃないですか?」
何を言ってるんだコイツ、と思った菜々緒は同意を求めて紅蓮の方へと視線を向け……、
めっちゃウズウズしていた。
「ええい、せんせいのお望みなように間取りを作りましょう! キャットウォークの設置とかね」
「おお!」
ものすごく目をキラッキラさせる紅蓮に菜々緒は顔を覆った。
「ぼ、没になったプロットを参考までに、そう、あくまで参考までに読んでもらうのってアリだよね……?」
−−−−−−墜ちた。