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剡旗伝  作者: 司弐紘
第二回 遺言屋の新しい仕事
8/33

壱 湯太保、現る

 双園そうえんの真上には白い太陽。時はもうすぐ午前から午後に移り変わろうとしている。


 結局、誼冗閣ぎじょうかくには二人して午前中ほとんど居続けてしまった。


 その間も誼冗閣はもちろん絶賛営業中だったが、翠燕すいえんの言う従業員用の家で微睡まどろんでいた二人にはあまり関係ない事でもある。


 何しろ据え膳上げ膳で、意志が弱いとそこを死に場所に定めそうになるほど居心地が良すぎたのだから。


「今度はどこに行くんだ?」

「宮殿。まぁ、正確にはその一部だけど」


 流李りゅうりが日差しに目を細めながら、翠燕に尋ねるとあっさりと答えが返ってきた。


 まぁ、予想通りの答えだ。


 翠燕の放蕩三昧のための財力を提供しているのは、間違いなくたいの人間だろう。それも宰相や将軍といった高位の人間が相手に違いない。


 そうでもなければ説明できない事が多いから、これは考えるまでもない。


「相手は誰なんだ?」


 問題はそこだ。


「相手?」


「お前に資金を提供してくれる相手だ。昨日お前は両替商に『明日にはふんだくってくる』と言った。あれほどの金を用意できるのは、なるほど宮殿に出入りしているような泰の高官だけだろう。わからないのは相手が誰かと言うことだ」


「安心した。その頭が飾りじゃないらしくて。その推察は正解だけど、相手が誰かは内緒にするわ。それに、ここで名前を出しても流李にわかるとは思えないんだけど」

「ぐ……」


 まったくその通りで、流李は自分の不勉強を改めて思い知らされた。


 ごまかすように辺りを見回すと、確かにここは昨日の界隈とは違う整理された街並み。南北にまっすぐに伸びた大通りに、それに交わる東西に延びる何本もの道もまっすぐで、容易に碁盤の目のように整理された区画が想像できる。


 道行く人々の姿もきらびやかではあるのだが、昨日のあの区画のように崩れた感じはない。ただ、流李には昨日の区画の方が好きになれそうな気がした。


 翠燕に毒されているのかもしれない。流李は折良く渡ってきた一陣の風に身を晒した。昨日からの汚れを振り払うように。いや、これは汚れなのか?


 何気なしに上を見上げれば空は高く、雲は早い。


「――そこを行く長い棒は、あだ名持ちか」


 突然、流李の背後から嗄れた声がかかる。


 その内容から自分に向けられた言葉ではないとわかっていたが、流李は思わず振り返った。それに、どのみち翠燕も振り返っていることだろう。


 そこには立派な二頭立ての馬車に乗った、絹の衣服に身を包む老人の姿があった。


 従者の数から考えても、かなりの貴人であることは疑いようがない。そんな老人相手に翠燕はごく自然に言葉を返した。


「あら、太保たいほ。今日は朝議には出席されなかったんですか?」

「その通り。儂は太保。名誉職じゃから朝議にはおってもおらんでもええんじゃ」


 白くて長い髭をしごきながら、しかめ面した老人が冗談めかし口調でそう言った。顔中に深いしわが刻まれており、若い頃の姿を想像するのは、どうにも不可能に思える。


「で、何か用ですか?」

「お主が戻ってきておると知らせが入ってな。さもあれば、獅音しおん――いや、これはお主の聞き間違いだ――へ忠告せねばならん。『これ以上の道楽を楽しみたければ、国庫から出さずに自分の懐から出せ』とな」


 今、この老人はなんと言った?


 国庫とは泰の国庫のことか? しかも獅音だと? それは――今上帝の名だ。


 しかも、その皇帝を相手に格下を相手にするように、名前で呼んだのだ。


「乗らぬのか翠燕? わざわざ大きな馬車で乗り付けてやったのに。ところで、この槍持ち娘はなんじゃ。お主に連れがいるとも思えんが」


「それはご親切に、とう太保。でもさっきの宣言とは矛盾してるんじゃないかしら。それにこのりょ流李りゅうりはあなたの味方になるかもしれなくてよ」


 言いながら、翠燕はぐるんと棍を振り回して、とんと地面を軽く付いた。


「信じられんの。お主が我が味方を連れてこようなどとは。それに邪魔などはせんよ。したところで、お主はあの忌まわしきあだ名の通り目的を果たしてしまうだろうしの」


 流李は二人の会話に参加できない。それどころではなかったからだ。


 翠燕のあだ名というのも気になった。

 しかしそれ以上に気になったのは、湯太保という翠燕の言葉だ。


 いくら自分でもその名は知っている。

 湯太保、すなわちその名を湯道とうどう

 悪名高き――大宰相。




 湯道――


 六代八姓十三人に仕え、その全てにおいて宰相位に着いた天華の歴史上類を見ない人物だ。そして恐らくは絶後でもあるだろう。


 ろう滅亡後、天華を次々と支配しては消えていった、五つの王朝。その王朝に対して湯道が果たした役割は、一言で言い表せる。


 彼はなるべく人が死なないように心を尽くしたのだ。それも五十年の長きにわたって。


 天華の一部分――例えば学者とか、支配することに慣れた大地主――は彼を変節漢とののしるが、他の天華人は彼に感謝していた。


 こすっからい根回しで彼が宰相位に着くたびに、多くの民が救われたのは確かなのだ。


 その生ける伝説が今自分の横にいる。そう思うと、緊張のあまり流李はどうにかなりそうだった。


 その流李の横では、翠燕が湯道に自分のことを説明していた。昨日、牡丹が評したような自分を馬鹿にしたような響きはなかったが、特に感情らしい片鱗も見せなかった。


 まるで能吏が、上司に報告文を読み上げているようだ。


「なるほど、それは感心な話だ。流李殿と仰ったか。是非、この翠燕から父君の形見を取り返していただきたい。我が国の負担が少しでも減る事は喜ばしい」


 ようやく湯道の目が流李の方へと向いた。言葉も態度も実に友好的だが、向けられたその目が笑ってない。


 国とはつまり、泰のことなのだろう。湯道は六つ目の王朝、泰においてついに生涯の目的を達しつつあった。すなわち天華に平穏をもたらすという目的を。


「すいません閣下。その前にご教示いただけませんか。私は翠燕が何をしているのか、何をしようとしているのかを全く知らないのです」

「賢明な娘だ。自分の無知を知るとはな」


 それほど賢くはないわ、と翠燕が横で呟くが流李はそれを睨みつけて黙らせる。


「さて、教えたいのは山々なのじゃが、百聞は一見にしかず、と言う言葉があるとおり、ここまでで来れば見た方が早かろう。何しろお主は女の身。ははぁ、さてはそれが翠燕がお主に同行を許している理由か」

「ここまで?」


 その流李の言葉が合図であったかのように、馬車は速度を落としていた。そのまま行き先に目を向けてみると、空がどんどんと狭くなってゆく。とてつもない巨大な建物がこの先にあるのだ。


「宮殿ですか?」

「正確にはその一部じゃがな。正式には泉源宮せんげんきゅうという。ま、平たく言うと後宮こうきゅう。老いたとはいえ、男である我が身では一歩も入ること適わぬ」

「こ、後宮」


 さすがにこの言葉は説明されなくてもわかる。


 つまりは皇后や貴妃、夫人といった皇帝の数多くの伴侶が生活する、皇帝以外は男子禁制の恐らくは最も華やかな宮殿。


「あら、本当に送ってくれるとは太保も丸くなったものね。随分助かりました。それにしても“不趨ふすう”の特権を持つ身としてはいささか急ぎすぎたのではありませんか?」


「主上は儂の能力を良く把握しておられてな。街にいながらお主がさっさと姿を見せんともなれば、叱責は儂の頭上に落ちてくる。さて、理不尽さを感じるのは儂の気のせいかの?」


「変ね。私、いつもそんなにお待たせしている覚えはないのだけれど」


「お主は主上のお気に入りであるからの。いっそのこと、そのまま後宮から出てこなければいいのじゃ。儂の仕事も減る」


 後宮からでない。


 それは、つまり……つまり……


 その先の想像に流李が目を白黒させていると、


「それを本気で言ってるんじゃないでしょうね、湯直廉とうちょくれん


 今までとは響き方の違う、重く鉄塊のような翠燕の声。その声は齢七十に達し、次々と宰相位を歴任してきた傑物を持ってしても、


「……ふん」


 と意地を張るだめの一言を言うだけに留まった。


 あるいは湯道だからこそ、翠燕の声に対抗できたのかもしれない。


 それほどに翠燕の声は強烈だった。流李は頭の芯が痺れていくような錯覚を覚えていた。


(今のは……人の声……か?)


 翠燕。知った気になると、必ずのその向こう側に別の謎がある。

 この娘はいったい何なのだ? 


 そういえば――


(――そういえば、翠燕の姓はなんだ?)


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