漆 翠燕、文化を語る
流李は闇の中で目を覚ました。
あの妙な部屋に置き去りにされてのかとも思ったが、ちゃんと寝台の上で眠っていた。ほとんど反射的に槍を探す。
闇の中で目を凝らすと、心を騒がせる“間”もなく槍はすぐに見つかった。
寝台のすぐ脇に立てかけてある。
その柄を掴むと、次に気になるのは翠燕の事だ。
牡丹の話が頭をよぎるが、今更、引っ込みがつかない。
この部屋――あの店の中だとすると、恐ろしく質素な部屋だった――に置き去りにされてしまった可能性が頭をよぎる。が、流李はなぜか翠燕はそうしないような気がしていた。
部屋を出る。廊下に行灯でもあるかと思ったが、それもない。わずかに廊下を照らすのは星灯りのみ。
いや――
見える。
ほんのわずか先に白い光が漏れている部屋がある。
その光は床の上に伸び、その上にふらふらとした黒い影がよぎっていた。流李は吸い込まれるようにその部屋へと足を向ける。
果たしてその部屋に翠燕はいた。
今にも崩れ落ちそうな骨董品の懐に、雲のように吊り下げられた書の下に、描かれた渓谷のように聳え立つ屏風の谷間に。
冷たい部屋の床に直に腰を下ろし、身動き一つしない。
「流李。目が覚めたんだね。ようこそ、私の秘密の部屋に」
「ここは…… どこなんだ? いや、もっと大きな意味でだなんだが」
「誼冗閣の従業員用の家だよ。そして本当の私専用の部屋がここ。突っ立ってないで座ったら?」
「あ、ああ……」
言われて流李は勧められるままに、翠燕の真向かいに腰を下ろした。
「翠燕、この周りの品物は……」
「凄いでしょ。ここにあるもの全部売れば、泰の国軍を三年は養えるわ。一つ一つの解説は――まぁ、流李には無駄でしょうね。でも、これらはみんな天華の文化の結晶よ」
「そう……なのか」
「いいわ、わかりやすいものを見せてあげる」
そう言って翠燕が取り出したのは、木の箱だった。その中から、現れたのはまるで玉を削りだして作ったような、溶けるような明るい緑に輝く徳利。
翠燕は捧げ持つようにして、徳利を流李の目に晒した。
「どう?」
「ああ、これは凄いな」
流李の喉が鳴る。知らずに湧き出していた唾を飲み込む音だ。
「こんなものは見た事はない。あまりも美しい」
その言葉を裏付けるかのように、流李の目はその徳利に釘付けだった。
わずかな星灯りしかなかったが、いや、だからこそその徳利の美しさは際だっていたのかもしれない。
その緑は、まるで自らが光を放っているようだったからだ。
「おかしな事を聞くようだが……」
流李の喉が鳴る。
「何?」
「これは本当に焼き物なのか? 本当に玉を削りだしたわけでは……」
「残念だけど。それはないわ。でも考えてみれば、それ以上の価値はあるのかも。この徳利を作った陶工はね、三代にわたって釉薬の研究を行って、やっとこの色に辿り着いたの。その想いは、執念、いえ妄執と言ってもいいかもしれない」
「三代。それほどの時間が……なるほど、凄いものだなこれは……それにしても美しい……文化か……人にはこれほどの事が出来るのだな」
感心しきりの流李に、翠燕は笑みを浮かべながらこう尋ねた。
「ねぇ、もしこの徳利に何かの模様とか絵が描かれていたらどう思う?」
「とんでもない!」
流李は即座に答えた。
「これほどに美しいものの上に、なぜそんな事をしようとする? 何もかもが台無しだ!」
「あなたも生粋の天華人ね流李」
寂しげに翠燕は呟いた。
「まさか翠燕」
「いいえ、私もこの色をこよなく愛している。この上に何かを描くなんて、そうねまったく『とんでもない!』ことだわ。上手いこと言うわね流李」
「あ、ああ……」
「でもね天華のずっと東、例えば戒教を報ずる国々ではこの徳利を『つまらない』と感じてる人が多いのよ」
「つまらない!? これほどの美を前にしてつまらない!?」
「別に味方をするわけではないのだけれど……無地にも見えるでしょ、この徳利」
翠燕の言葉に流李は眉をひそめる。そんな馬鹿な話はない。
確かに色は一つしかないかもしれないが、その色のために費やされた時間、そして想いが膨大なものであるのは、翠燕の説明が無くとも理解できる。
だが、それを理解できない異国の人間ともなると……
「そう……いうことなのか」
「そう。思ったよりも天華は狭い。そして世界は広い」
そう言って翠燕は、徳利を片手でぞんざいに扱い、大きく振り上げた。
そのまま叩き付けて割るつもりか――
一瞬、身を固くした流李だったが、結局翠燕はそんな蛮行には走らなかった。逆にもっと愛おしそうに、徳利を懐にかき抱く。
「この徳利一つに掛けられた、情熱と時間を私は知っている。これこそが“美”の完成型だと信じて仕事に邁進した人たちの顔も思い浮かべることが出来る。この徳利だけじゃない。この部屋にあるものはみんなそう」
翠燕は徳利をぴんと弾く。澄んだ音が部屋の中に響き渡る。
「私はそんな文化の結晶に耽溺することが出来る。文化に触れるということは膨大な時間、そして人の想いに沈むということ」
本当に酔ったようなとろんとした目つきになる翠燕に、流李は声を掛けようとした。だが、その前に翠燕の瞳に光が灯る。
「でも、それは天華という狭い地域でしか意味をなさない文化。井戸の中での完成型。費やした時間と想いは無駄に終わる?」
翠燕は、今まで見せたことがないような微笑みを浮かべた。それは滅びを覗いた者だけが浮かべることが出来る虚無的な笑み。
流李は何も答えることが出来ない。
いや、それ以前に翠燕が自分の答えを望んでいるとは思えなかった。
「無駄にはならない。ここにある品物はきっと人の生きた証。それだけは変わらない。だからこれらは――」
翠燕は流李を何の感情もこもらない瞳でじっと見つめた。
「――きっと遺言のようなもの。この世に自分は生きたのだと声を嗄らして叫んでいる」
翠燕は目を閉じる。
「つまり文化とは遺言。それだけが真実なのかもしれない」
そして目を開く。
「だから私は“遺言屋”を名乗るのよ」