伍 翠燕、大散財を見せる
「まずは、腹ごしらえね」
「腹ごしらえ、な」
翠燕が散財するとなれば、まず食い物関係だろうと思っていた流李は意表を突かれた。
これが前哨戦だとすると、いったいどこで翠燕の浪費は始まるのか。それとも、この店が目の玉が飛び出るほどの高価な料理を出すのか。
「いよぉ、大姐じゃねぇですか! こりゃまた急なご来店で」
「何よ。さぼってたわけじゃないでしょうね」
翠燕の来店と同時に声をかけてきた店の主人らしき男は、油染みの浮き出た粗末な麻の包衣を着て、左手に鍋、右手におたまを持って豪快に笑っている。
言っては何だが、ここで高価な料理が出てくるとは考えにくい。
「んじゃ、成果を見せて貰おうかしら」
「あいよ! そちらのお連れさんの分もかい?」
「うん、そうよ。呂家の流李。見ての通り身体も大きいから、おまけしてあげてね」
「んじゃ、そこに掛けてちょっくら待ってくれ」
と言われた椅子が、これまた背もたれもないような粗末な木の椅子。店自体もさほど大きくない。
まず床机に腰掛けるような空間が何もなくて、店の主人と差し向かいの湾曲した木の台の周りに椅子がグルリと並べられてある。その数にしても十もない。
ただそのほとんどに客が腰掛けているから、繁盛はしているようだ。
「おい、事情がいまいち飲み込めないぞ。注文は良いのか?」
「いいのよ。私が注文するようなものは菜単には載ってないもの」
「はぁ?」
「あいよ! お待ち!」
と主人が差し出した深皿の中身は、両方とも麺の上に牛肉と何種類かの野菜を煮込んだものをぶっかけたものだった。あまり高そうなものには見えない。
翠燕は何も言わずに箸を器用に使って、麺をぶっかけた煮込みごとずるずるとすすり上げる。
これでも良家の子女である流李はその食事方法に少しばかりためらいがあったが、翠燕に倣って同じように麺をすすり上げる。
すると味付けは甘辛く、それだけではなく時折舌を刺激する突き刺すような辛さもある。牛肉は柔らかく煮込まれており、その反面野菜は歯ごたえを残しておりしゃきしゃきとした歯触りが面白い。
が――
「ねぇ、何だって麺にしたのよ。これ米でいいじゃない」
翠燕はずばりと言い切った。確かに煮込みと麺はあまり合っていない部分がある。
「大姐、そうは言うけど俺の出身は北部だぜ。慣れないもん使うのはいまいち自信が……それに大姐は南部の出だろ。だから米の方が良く感じるんだよ」
「そういう事じゃないのよ。ええとね、ちょうどいいわ。流李」
「う、うん。何だ?」
「食べたでしょ、感想言ってみて。多分しないでしょうけど、遠慮はなしで――ちなみ、流李は草順州の出身だから、北部の出身だよ」
かくして流李の口元に二対の視線が注がれることになった。流李はいささか緊張しながらも、正直に感想を言うことにする。
「旨いには、旨い。ただ――」
「ただ?」
「せっかく双園に来てるのに、麺なのは少し残念かな。せっかくお米がおいしいところに来てるのに」
その言葉に店の主人は、棒を飲み込んだような顔をした。逆に翠燕は勝ち誇ったような笑顔。
「流李、いい仕事だったわ――わかったでしょ。自分のやりたいようにやってるんじゃなくて、土地柄に合わせたものを作っていかないと駄目よ」
翠燕は言いながら、流李の背負う行李に手を突っ込んで主人の目の前に馬蹄銀を四つ積み上げる。
今の料理の代金としては明らかに過剰すぎる。流李が目を丸くしていると、翠燕は主人にこう告げた。
「味は合格。これで店を広げてもっとたくさんのお客さんに味わって貰いなさい。それがあなたの修行になるでしょう」
主人はその言葉を神妙に受け取り、断ることもなく馬蹄銀を受け取った。
(なるほど、これは上客だ。いや、それ以上かもしれない)
流李は、とりあえずそのことについて納得した。そして年齢に似合わぬ“大姐”という、翠燕への呼びかけにも見当がついた。
(しかし、この財力はいったい何だ?)
けらけらと陽気に笑う翠燕を見て、流李は油で濡れた唇を引き締めた。
――この娘には謎が多すぎる。
それからの翠燕の浪費振りは滅茶苦茶だった。
例えば道ばたで紙の切り抜き芸を披露している少年がいる。
この少年は紙を見ずに袖の中に紙と鋏を隠して、周囲の客の注文に応じて、鵬淑史の「義」の字などを切り抜いていたりする。
それは確かに見事な技で、流李は熱心に拍手をしたのだが、翠燕の方は素通りだった。
てっきりこの少年にも銀を積むのかと思った流李は拍子抜けしながら、そのまま翠燕の後に付いていく。
すると次に翠燕が立ち止まったのは、同じ紙切り芸人の前だった。しかし、こちらは中年でおまけに流行っていない。
これは駄目だ、と流李は見切りをつけたのだが何と翠燕はこの芸人の前に銀を二つ積む。
そして、これでしばらく生活出来るだろうから、芸を磨きなさい。子供は元気? と話しかける。
それを聞いた芸人は目に涙を浮かべながら、あぁ大姐、恩に着ます。必ず新しい技を身につけてお返しさせていただきます、と来る。
そのやりとりに流李が感心していると、その前はあの少年の前に銀を積んだのだという。
それであの少年が身につけた芸が、あの袖の中で紙を切り抜く芸らしい。
要するに二人の対立を煽っているわけで、流李がそういうと、
「これはね、立派な文化事業。二人の切磋琢磨が紙切りの芸を高めていくのよ」
これが紙切りだけだったら、翠燕の妄想だと言い捨てることも出来た。
だが、翠燕が援助――そう、これは援助という言葉が適切なように流李には思われた――しているのは、歌、神楽舞、芝居、猿楽、犬芸、軽業、等々。
この色町の道端で行われているほとんどの娯楽に、翠燕は馬蹄銀を積んでいった。
行李の中はどんどん軽くなっていき、残り三分の一となったところで、翠燕はようやくのことで腰を落ち着けた。そこはもちろん、夜中の方が営業に力の入る一軒の店だ。
名を誼冗閣。
どこからも文句の出ない、立派な遊郭である。
まず出迎え方からして他の店とは違った。
店の主人、女将は言うに及ばず、店中の女が総出で門の前にずらりと並んで一斉に頭を下げる。
本当の意味で、決して客にはなり得ない翠燕に向かってである。もちろん同じように客になり得ない流李にも同じように頭を下げてくるから、どうにも居心地が悪い。
そんな中を翠燕は店の女一人一人に声を掛けて、揚々と歩いてゆく。その頭上には光の帯のように連なる色とりどりの提灯。
昼日中のように、とまではいかないが月明かりは軽く凌駕していた。
そのあまりの蝋燭の無駄使いっぷりに流李は目眩を感じる。そして、恐らくはその蝋燭代を翠燕は援助――しているのだ。でなければ、これほどの歓待を受けられるはずもない。
とりあえず、そんなからくりに納得しながら翠燕の後に続く。
まず玄関口。
得物を預かろうなどという、無粋な用心棒は現れなかった。
しかし現実問題として流李の槍はともかく、翠燕の棍は長すぎた。さすがに翠燕もそれはわかっているようで、そもそも入る前に店の壁に立てかけてきたようだ。
そして、他の物には目もくれずいきなり階段を上がる。そこでいきなり周囲が暗くなる。
つまりは二階の廊下に出たわけだが角々に行灯が置いてあるだけで、進む道がわかる程度の明るさしかない。
廊下の壁の漆喰には凹凸があるようだった。暗闇の中、目をこらしてみると、浮き彫りにされているのは花鳥風月。
こんな目立たないところに、これほど凝った仕事をされても……と流李は思わずにはいられなかったが、今まで見てきた芸人達の仕事も、そういった部分が多かった。
これが文化――なのか?
流李は首を捻る。田舎町で槍ばかり振るってきた流李にはいまいちぴんと来ない。
それに今は翠燕の後について行くだけで必死だ。
まるで迷路、というかこの店は意図的に迷路だ。
暗い道を右に左にと折れ曲がって今や自分の居場所もよくわからなくなっている。異世界の中に、もう一つ異世界があるようだ。
そう考えた流李はそれほど間違ってはいなかった。
ただ異世界の程度を読み違えていた。
突然に視界が広がる。かなり広い空間に出たらしい。しかも明るいし熱い。いや、暑いのか。
火事にも思えるが、炎の姿は見えない。ではこの熱気は何なのか。
ここに至るまで翠燕からは何の説明もない。流李も意地になって尋ねようとはしなったが、さすがにじれったくなってきた。