肆 翠燕と流李、双園に着く
双園――
天華の西寄りに位置する大都市で泰帝国の首都。
しかしその歴史はさほど古くない。
本格的に都市機能の拡張が始められたのは、祟という国が首都に定めた時からだ。
国号は違えど今上帝、潮獅音はこの崇という国から禅譲された形で登極し、双園もそのまま譲り受けた。
真四角な街ではないので、正確な面積はわからないが歩いて端から端まで歩くとなると、一日ではきかないほどの大きさを誇る。
人口はおおよそ五万人。先の楼の都、永安の人口とは比べるべくもないが、戦乱で激減した天華全体のことを思えば、やはり十分に大都市といえるだろう。
それに、この都には永安と決定的に違うところがあった。
双園は夜に眠ることをやめてしまったのである。
翠燕は夕闇に沈み始めた双園の道をまっすぐに進んでゆく。
その後を流李があちらこちらと視線を彷徨わせながらついて行った。
初めてこの街を訪れる流李にとって、船が着いた桟橋からどこをどう通ってここに辿り着いたのか、わかるはずもない。
だが、どうやら街の西南にいるらしいことは理解できた。
この辺りは今まで通ってきた場所から比べると、かなり煩雑だった。
道の両端に隙間無く立ち並ぶ建物は、まるで道の上に迫り出さんばかりに不安定な作りで、田舎町しか知らなかった流李には足がすくみそうな光景であった。
さらには建物と建物の間には縄が張られ、その縄には無数の提灯が吊り下げられている。提灯にはすでに火が灯されており、まるで鬼火のように周囲を照らし出していた。
そこは流李が知る、どんな日常にもなかった異世界だった。しかし、そこには間違いなく人がいて、この異世界を作り出しているのもまた人なのだ。
襲いかかってくるような建物の渓谷の間、昼夜の境を曖昧にする鬼火の下に、艶やかな着物に身を包んだ都の住人が自由を謳歌している。
そんな中を翠燕はまっすぐに進んでいるのだ。
それがどれほどに異常なことなのかを、流李はやっと理解することが出来た。
「……なんだかお前を皆が避けているように見えるんだが」
かがみ込んで翠燕の耳元で流李がそう尋ねると、翠燕は振り返りもせずにこう答えた。
「人聞きが悪い。皆が道を譲ってくれるだけよ」
そう言われてみれば、翠燕に向ける人々の表情は皆笑顔だった。中には親しげに翠燕に声をかけてくる者もいて、翠燕も上機嫌に言葉を返している。
「確かにそのようだが……お前、一体何者なんだ?」
「そうね」
翠燕は少しばかり考え込むように空を見上げ、
「……良い言葉が見あたらないわね。仕方ないわ。つまり私はこの界隈の上客なのよ」
「上客……?」
流李は顔をしかめる。この界隈は確かに異世界だ。だが流李の日常に馴染みがないだけで、知識に照らし合わせれば見当はつく。
ここは多分、色街。そんな街で女の身である翠燕が上客などとはどういうことだ?
「だからもっとうまい言葉を探したかったのよ。まぁ、良いわ。これから私が何をするか見てれば、あなたの方で勝手に言葉を見つけるでしょう」
翠燕はそう言うなり、建ち並ぶ建物の一つにするりと入り込んだ。流李が慌ててそれに続く。
流李の常識では誰かの家のはずだ。
なぜならこんな時間に開いている店など無いからだ。
夜の訪れと同時に店も何もかもは、その営みを停止する。それが天華の倣いでもあるのだ。
かつての永安では夜と共に全ての店は閉まり、各区画毎の門扉も固く閉ざされてしまっていた。
が、その建物は店だった。それも客は翠燕一人きりではない。
立派な身なりをした商人風の男達が、店の中の床机を挟んであちらこちらで話し込んでいる。そしてその男達にかいがいしく給仕する女給たち。
何の店かと流李が視線を巡らせると、これ見よがしに店の中央に天秤が置いてある。
(両替商か?)
「これはこれは大姐。いつ双園にお戻りに?」
「ついさっきよ。大人、お元気そうね」
店の主人らしい小柄な男が、翠燕に話しかけてきた。
「今までは元気でありました。しかしまた私の店から根こそぎ銀を持って行かれるのかと思うと、悲しみに目眩がしそうではあります」
「一晩の事よ。明日にはまたふんだくってくるわ。それに、私が落とした銀の半分はここに戻ってくるくせに」
その言葉に、店の主人はにやりと笑った。
それだけで逃げ出したくなるような、不気味な笑みだった。
そして音もなく腕を振ると、これまた音もなく家人が現れて、翠燕の前に次々と馬蹄銀を置いていく。
一つあるだけで、五人家族が半年は優に暮らせるほどの馬蹄銀。
それが十の単位で数えたくなるほどの量が翠燕の前に積み上がった。
「さっきの船にさ、ここでお金を卸せるからって気前よく渡し過ぎちゃって。それをあいつらに見られたみたいね。まったく我ながら不用心な話だ」
「何を他人事のように。私が来なければ、どうなっていたことか」
「いや、まったくまったく。で命の恩人さん、これ持って」
「は? 何で私が……」
「あなた、私に付いてくるんでしょう。これから私は色んな店に入るけど、その度に自前で払ってたら、あの村の者全部、それこそ人まで売り払ったって払いきれないわよ。そんなの嫌でしょ。だからあなたは私におごられるしか手が無くて、おごられる人が労働力を提供するのは当たり前の事じゃない」
翠燕の一気呵成のまくし立てに、流李は何を言われたかとっさに理解できない。
何とか頭をこねくり回して、理解したところで激怒しかけるが、翠燕の前に積まれた馬蹄銀が反撃しようとした流李の口を封じてしまう。
さらに店の人間の表情を伺うと、何だか哀れむような目で自分を見ている。
流李は自分の中の激情を抑えて、心の中で槍を振るい気持ちを落ち着けてゆく。
(ここは相手の陣地、ここは相手の陣地、ここは相手の陣地)
おまじないを唱えて、冷静さを取り戻すと、改めて馬蹄銀の数を推し量る。
「……いくら何でも抱えては歩けない。行李か何かはあるのか?」
「ご用意しております」
笑顔の怖い主人が、やっぱりすくみ上がるような笑顔と共にそう答えた。
かくして翠燕の臨時従者となった流李は、行李を背負って数歩も歩かない内に、翠燕に連れられて別の店に入った。
流李はもう、夜に店が開いていることに驚くのをやめた。双園はそういう街なのだ。
「まずは、腹ごしらえね」
「腹ごしらえ、な」
翠燕が散財するとなれば、まず食い物関係だろうと思っていた流李は意表を突かれた。
これが前哨戦だとすると、いったいどこで翠燕の浪費は始まるのか。それとも、この店が目の玉が飛び出るほどの高価な料理を出すのか。
「いよぉ、大姐じゃねぇですか! こりゃまた急なご来店で」
「何よ。さぼってたわけじゃないでしょうね」
翠燕の来店と同時に声をかけてきた店の主人らしき男は、油染みの浮き出た粗末な麻の包衣を着て、左手に鍋、右手におたまを持って豪快に笑っている。
言っては何だが、ここで高価な料理が出てくるとは考えにくい。




