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剡旗伝  作者: 司弐紘
第五回 没遮娘、草原を征く
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没遮娘、草原を征く

 班等魏礪フラギレの来襲より一月が過ぎた。


 晩春は過ぎ、今は初夏の季節。ここ双園でも、街路樹を始めとして青々とした葉が生い茂り始めていた。


 それは無論、宮殿の中でも同じ事。後宮でもある泉源宮には日々変わらぬ景色が用意されてはいたが、それでも芝生の瑞々しさは隠しようがない。


 そんな青い芝生の海の上に、ぽつんと浮かぶ白い四阿が一つ。

 中にいるのは二人。一人は皇帝、潮獅音ちょうしおん。もう一人はいるはずのない皇帝以外の男性、湯道とうどうであった。


「陛下、こういう横紙破りは一度きりでお願いしたいものですな」

「元はといえば、お主が徹底的に人払いを、と言ったからではないか。俺はここ以上に人払いが出来るところを知らんぞ」


 確かにここなら、四方八方見通しが良く、人が潜むようなところはない。

 湯道はそれを認め、ため息を一つ吐くと、


「此度の高景城防衛戦における恩賞の手配全て滞りなく終わりました」

「そんなことを言うために、人払いを?」

「続きがあります、獅音」


 湯道は皇帝の名を呼び捨てにした。それを聞いた獅音は、これは本格的だと覚悟を決めた。


「私が手配しなければ、恩賞は全部隼王府から出るところでしたぞ。軍閥化を許すおつもりか?」

「いや、あのな。国庫から金を出すのは……」

「出すべき時に出さないのは、もっと問題がある。わかっているのだろう、獅音」


 口ぶりがどんどんぞんざいになっていく。さすがは数多の国に仕えた宰相だ。成り上がりの皇帝など、出来の悪い生徒にしか見えないのだろう。


「このままでは国が再び乱れるぞ、獅音。国を弟にでも譲るつもりか?」

「譲ることが出来るのなら、乱れはしないだろう」


 あっけらかんと、とんでもないこと言い出す皇帝に、湯道は眦を決した。


「獅音、まさかお主本気で……」

「爺さま。獅訓しくんは夢を見てしまったんだと思う。ろう再興の夢をな」


 先の統一王朝、楼。その再興となれば、帝室の血筋が必要不可欠だ。そして楼には皇帝よりも尊ばれる血脈がある。


「それは……あの娘が原因か?」


 翠燕にはその血が流れている。楼を復活させるに十分な説得力を持つ血が。そして、翠燕という娘はそれだけではない。それこそが正に問題なのだ。


「だろうとは思う。俺も目を疑ったよ。あのような娘がこの世にいるとはな」

「獅音、一度戯れにあの娘に挙試きょしと同程度の問題を出したことがある」


 そう湯道が告白した途端に、獅音は声を上げて笑い出した。それを訝しげ眉を潜めて見やる湯道。


「……何がおかしい?」

「いや、きっと蔵の床が見えるほどにふんだくられたのだろうなと思ってな。挙試と見抜けぬ彷月公主ほうげつこうしゅではあるまいし、爺さまに代償を要求したのだろう」


 全くの図星だったが、湯道はそれを否定も肯定もしなかった。代わりに、


「良いかあの娘は、挙試を受けることが出来るなら間違いなく及第するぞ。それも圧巻でだ。儂の代わりに宰相を任せる事が出来る天華で唯一の人材だ」

「大したものだとは思っていたが、それほどにか? で、圧巻?」


「文字通りの意味だ。挙試とは受験者それぞれで回答が違う。知識量やそれぞれの立場によって、書き方も変わってくる。それがあの娘にかかると一問一問に目を白黒させてしまいそうになるほどの量の回答を書いて寄越す。内容も完璧だ。あの娘の回答で他の受験者の回答全てを押しつぶしてしまう。だから『圧巻』。昔からある言葉じゃぞ」


 と言われても、軍隊の中で育った皇帝にはそんな言い回しには縁がない。


「しかもあの娘、武術の腕も天華で三傑に入ると言うではないか。まず、お主では相手にならぬのだろう?」

「うむ。若いころならいざ知らず、今は随分と腹が出てきておるからの。それでもまぁ、殺されることはあるまい」


 翠燕がどういう武術を操るのかは、報告を受けている。


「それに加えて、あのふざけたあだ名だ。没遮娘ぼっしゃにゃん? そしてそれが大げさでも何でもないところに問題がある」


 湯道は精一杯のしかめっ面をしてみせる。


「あの娘が獅訓の妃になって見ろ。何事にも屈しない、何事も諦めない、あの不屈の精神力で獅訓を高みに押し上げるぞ。それだけの実力も兼ね備えている」

「で、結局はどうせよというのだ?」


 その日始めてみせる真剣な表情で、獅音は湯道に問いただす。


「本来なら、殺しておしまいなさい、と言いたいところじゃが、恐らくそれは無理じゃろう」

「ああ、無理だな」


 翠燕には聖なる血統を守る、陸透洞主りくとうどうしゅの加護がある。


「ならば他の王族のように、お主の庇護下――監禁してしまえ。いっそここ、後宮に押し込めてしまっても言い。夏翠燕を獅訓に渡せばそれだけで天華は再び乱れるぞ。そして儂はそんなことは何があっても防いでみせる」


 ただ天華の平和を願い、後世のそしりを恐れず六代もの王朝を渡り歩いてきた、この老人の魂の叫びだった。

 だが、その老人が恐らくは最後に仕えることになるであろう、泰の初代皇帝は尚も落ち着いたままだった。


「爺さま。いや、道。お前は自分で言ったことを忘れてるよ」

「わ、儂が……」

「それとも、天華の常識通り女というのは男に従っていくものだと……そう盲信しているのか?」

「それは翠燕が、大人しく捕まったりしない、とそう言っておるのか?」


「違う。あの娘は大人しく弟の嫁になったりはしない、と言っておるのだ。要するに翠燕が獅訓の嫁にならなければいいのだろう。お前の心配は?」


 言われてみれば……そうなのかも知れないが……


「し、しかし獅訓殿は、褒めるところしかないような人物ですぞ。そんな男に真剣に求められて断るような娘がいますか?」

「他に好いた男がいれば、話は別だろう」

「な!?」


 本気で驚きの声を上げる湯道。獅音はその表情を見て、腹を揺すりながら大笑いした。

 それはまた、この話はおしまいだという合図でもあった。


「はてさて、今はあの娘、東の大平原に繰り出しておるという事だが……」


 笑いを収めながら、半ば独り言のように獅音は呟いた。その目は遙か東の彼方へと向けられている。


偉門いもんも同行となれば、あの娘の旗も浮かれて踊っていることだろうな。ふいごの風に煽られた炎のように」


 獅音の脳裏に、真っ蒼な草原の海の中を突き進む紅の旗が浮かび上がる。










 実際の光景として、獅音の想像はほとんど当たっていた。見渡す限り草と風しかない大平原に、翠燕の掲げる「夏」の旗だけが浮き船のようにゆらゆらと揺れていた。


 傍目にはたいそう幻想的な風景だが、その担い手の二人は口喧嘩の真っ最中だった。


 偉門はさすがに上半身裸というようなことはなく、班等魏礪と同じよう出で立ち――織物の服に毛皮の上着、そして馬上袴――で、呉鉤は二本とも背中に平行に背負っていた。


 翠燕は緋、白、藍のいつも出で立ちである。仕切り直し、という意味なのかも知れない。偉門にはどこから調達してきたのか全くの謎だったが、翠燕のやることにいちいち驚くほど、短いつきあいでもない。

 それより優先されるべき問題は別にあった。


「その旗しまえって言ってるだろう。聞こえねぇのか?」

「天華じゃ出してるとうるさくてかなわないのよ。この未開の地でなら堂々と出しておけるんだし、好きにさせて。見てこの風景。“遮るものは何もない”とはこういうことを言うのよ」

「あっただろ、遮るもの。その旗をひらひらさせてるおかげで、班等魏礪の連中が名を上げようと、わらわら襲ってきて」


 返り討ちにして身ぐるみはいで、旅の準備は万全だ。そういうことが五回程あったので、この草原を端から端まで歩いて往復しても、これなら困ることもないだろう。

 つまりこれ以上、班等魏礪をおびき寄せる必要はないのだ。


 スルゴンを子供扱いした翠燕の武名は、草原の風よりも早く班等魏礪の間を駆け巡っていったらしく、旗を立てているだけで挑戦者は引きも切らない。


「だいたいよぉ。こりゃ、行き先わかって動いてるのか? 本当に目印も何にもないような所なんだからよ」

「わかんないから、えびすをおびき寄せてるんでしょ。あんたが食料漁ってる間に、私はちゃんと尋問してたんだからね」

「あ、そういうことか」


 納得がいった、と言うように偉門はそこでいったん喋るのをやめた。


「……結局、あのでっかな手を追っかけてるのか、俺たちゃ」


 が、すぐに話を再開する。


「恐らくはね。ダヤンの言葉通りなら、あの手の持ち主、無寿宝むほうじゅっていう名の邪仙はこの草原に頻繁に姿を現しているみたい。そして、その邪仙が『簫醒羽化しょうせいうか』の手がかり、いえ全てを知っているはずよ」

「つまり、それがお前の乳を×××するために必要なものなんだな」


 しまった、と翠燕は口が滑ったことを後悔するが、後の祭り。


 一月も経ってから、こんな会話をしている理由がここにあった。要するに、この二人は端から見れば痴話喧嘩にしか見えない交渉を延々と繰り返してきたのだ。

 で、最終的には翠燕が譲歩した。


「今追いかけているものを翠燕が手に入れるのに協力したら、偉門の望みを一つだけ聞く」


 ということになったのだ。何がどうしてそういう結論になったのかはもう覚えていないが、その課程は絶対に論理的ではなかったはずだ、と翠燕は確信していた。それは負け惜しみには違いなかったのだが。


「まぁ、そうね……」


 複雑な想いを奥歯で噛みつぶしながら、翠燕は現状を改めて分析する。


「確かに『簫醒羽化』は良い区切りかも知れないわ。私も延々とうろうろしているわけにもいかないし、見つかったら海西かいせい州辺りに家でも建てて、今まで面倒見てきた連中に養って貰おうかしら……ねぇ、本当に私の胸を触るだけで良いわけ?」

「触るだけじゃない。もっと凄いことを……」


 また、卑猥な言葉を並べそうになる偉門の顎を、翠燕の旗が下から突き上げて黙らせた。


「そういう事じゃなくて。たった一つの望みを、そういう風に使ってそれで良いの、あなたは? 言っておくけど私が人の頼みを聞くのは物凄く珍しいわよ」


 自分で言っていれば世話はない。


「だからじゃねぇか。好きな女の乳を思うがままにできるんだぞ」

「私が好きなら……!」


 嫁にしてしまえば――そう望めば、乳でも何でも好きに出来るではないか。それともやはり、こんな傷だらけの身体の女は……


「……さっき腰を落ち着けるような話をしていたが、そりゃあお前の気の迷いだ。お前は家でじっとしてられるような女じゃねぇよ」


 突然に偉門が告げる。


「お前は、お宝中毒だ。一時は忘れることが出来ても、どうせすぐにお宝求めて彷徨い出す。『簫醒羽化』とやらを手に入れた後にも、お前はじっとしてないさ」


 えらく不吉なことを言われたような気がする。


「そんな女にずっとついて行こうって言ってるんだ。本来なら乳ぐらい気持ちよく揉ませるもんだぞ、お前」

「そんな理屈……」


 反論しかけた翠燕だったが、俺は良いことを言ったぞ、と言わんばかりに偉門があまりに気持ちよく笑っているものだから、それ以上を言葉を使うのが馬鹿馬鹿しくなってしまった。

 その代わりに天に向かって旗を突き出す。


 ――その旗が自らの未来をきりひらきりひらいてくれるのだと、そう信じて。


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