拾壱 翠燕、邪仙を問い詰める
「何をしている兄者!?」
その時、周囲の空気にひび割れを起こしそうな胴間声が響いた。
信じられない思いでダヤンが目を向けると、そこには弟、スルゴンの姿があった。以前にも増して身体も服も傷だらけ。何の呪いか折れた馬上戟の柄を握りしめているのは、過度の興奮状態なのだろう。
しかし、あの突撃の最中に死ななかったとすれば、大した強運だ。さて、改めて殺すとすれば――
「なぜ、女などに道を譲ったぁ!? それに隼王の部隊は今は止まっているぞ、何故攻撃しない!?」
この娘に道を譲ったのは、この娘の方が強いからだ。隼王の部隊に攻撃をかけないのは、その場で勝てたとしても高景城の水源が手に入れられなくなった以上、その後が続かないのが目に見えているからだ。
戦士としての力量、将軍としての才能、その二つが欠如したこの弟をどうしたものか。
「――お前の言うことはもっともだ。ならばその娘をお前の手で止めればどうだ? そうすれば改めて隼王の部隊に攻撃を仕掛けてもいい」
言いながら、自分の馬上戟をスルゴンに投げて渡す。
「約束した……」
と言いかけたスルゴンに向かって、炎が襲いかかってくる。翠燕が状況の変化を悟って、先手必勝とばかりにスルゴンに襲いかかったのだ。
「お、おまえ卑怯だぞ!」
「夷が賢しげな口を叩くな!」
言いながらも、翠燕の振る旗の勢いは止まらない。それを戟で跳ね返すスルゴン。普通ならそこで自分の攻撃のための動きに移るところだ。が、旗が相手となると勝手が違う。
弾き飛ばした後にも、ゆらゆらと揺れる布が視界を遮る。それに気を取られていると、また別の方向から棍、旗の竿が襲ってくる。
いつまで経っても攻撃できない――先手を取れない。
「見事なものだな」
「ありゃあ、操旗術っていってな。翠燕が自分で作ったんだ。俺もあれには敵わねぇ」
上半身裸になったのはこのためか、と納得できるほどの返り血を浴びた偉門がそこにいた。呉鉤はすでに役割を終えたと判断したのか鞘にしまわれてある。
「大した胆力だ。お前になら我らの一部隊を任せてもいい」
「ご免被りたいね。退却のきっかけを掴むために、自分の弟を犠牲にしようなんて奴の下に付けるか」
――見抜かれていたか。
この馬鹿な弟はこれでも班等魏礪の中でも勇者で通っている。それが女に負けるようなことになれば、退くことを全員に納得させられることが出来る。
そして、それは現実のものとなるだろう。
万に一つもスルゴンでは勝ち目はない。持って生まれた膂力に頼るだけで、全く戦い方がなっていない。要するに頭が悪いのだ。翻って翠燕の方は激しい動きの中で、それでも十手も二十手も先を読んでいる。
勝てる道理がないのだ。
そしてダヤンの読み通り、ついには翠燕の旗がスルゴンの両足をもろともにすくい上げた。地面にどうと
倒れ伏すスルゴン。すかさず仰向けになるように寝返りを打ったのは見事だったが、そのスルゴンの鼻っ柱に、翠燕は踵を叩き込む。
ごきゅ……っと嫌な音が周囲に響いた。
確認するまでもなく、スルゴンは気を失った。つまりは翠燕の勝ちということだ。
「これで、文句はない?」
「言っておくが俺には最初から文句はなかったぞ」
剣呑なまなざしを向ける翠燕だったが、ダヤンはごく平然とそれをかわした。
「よく言うわ」
と吐き捨てながら、
「偉門、この文化人のふりしたような天幕をずたずたに引き裂いて。甚任を――仙人を追い詰めるには、まず徹底的に心を砕いて、気をまともに練れないようにするすることが肝心みたいだから。自分でやられてよくわかったわ」
恐らくはその最後の言葉のために偉門の反応は素早かった。再び呉鉤を抜き放つと、風を巻いて走り出し、瞬く間に天幕を解体してしまった。
すると大小様々な行李の隙間に隠れるようにして、うずくまる人影があった。
しかし偉門の呉鉤はなおも止まらない、天幕を支えていた柱、水の入っていた樽、全てをばらばらに切り刻みながら、うずくまる人影に迫る。
翠燕もそれを止めようとしない。
「し、し、し、知らないんだ~~~~!!」
突然人影が絶叫した。
「俺は知らないんだ。『簫醒羽化』は師が何処かで奏でたものを、あの城に響かせただけだ! 俺はただ、お前に復讐できると知って、その話に乗っただけだ!!」
立ち上がった、その姿は果たして郭甚任なのだろうか。ほとんど皮と骨だけの姿に成り果てたその姿は、ほとんど人の残り滓だ。すでに人相がわかるような状態ではない。
「そう……じゃあ、その師匠の居場所を教えて」
悠然と笑みまで浮かべて翠燕が甚任“だったもの”に歩み寄ってゆく。
「だ、誰がお前などに……」
「良くわかったわ。確かにあなたの言う通り。私はあなたから託された想いを無責任に踏みにじったわ。悪かったと反省している」
さらに歩み寄りながら、翠燕が語りかける。
「おお……」
嗄れたその声は果たして歓喜だったのだろうか。
「……なんて事、言うと思ったのこの馬鹿!!」
翠燕が突然その首根っこをねじり上げる。
「何度も言ったでしょ!! あそこで生きるの諦めたあんたが悪いの。そして私はあんたに託された仕事はきちんと果たしてるんだから、恥じる事なんて何もないわ。大体死んでから文句言うなんてどういう了見よ!」
そのまま、がくがくと首を揺さぶる。
「全面的な正義はいつも私の元にあるの! 昔も今もこれからも!!」
これを聞いたダヤンは、できればこの娘とは未来永劫関わりたくないと、心の底から草原の神に祈りを捧げた。
「納得したなら正義の味方に協力なさい。あなたに余計なことをした邪仙は何処にいるの?」
ついには甚任を地面に押し倒した。
「言っとくけど私は諦めないわよ。あんたが死なない身体なのが幸いだったわ。とことんまであんたを追い詰めてやる」
「う……あ……」
折れた。
甚任の心が折れた、本物の仙人ならここで甚任の心を操る術を持っているのかも知れないが、翠燕はそんなものは知らない。
が、普通の人間が使うような尋問術や拷問の仕方も心得ている。
猫目をすっと細めて、翠燕が残忍な衝動に身を任せようとしたその瞬間、周囲がすっと暗くなった。反射的に空を見上げると、二人の上空にだけいきなり黒雲が出現している。
それだけでも十分に不可解な出来事であるのに、この現象には続きがあった。
黒雲の中から突然手が出現したのだ。それも普通の大きさではない。中指の一本が人の身長ほどもありそうな巨大な手だ。
そのでたらめな光景に翠燕は心を奪われてしまった。そしてその隙が致命的だった。
巨大な手は、その大きさに似合わず俊敏で、瞬きしている間に甚任を横取りされてしまった。
それが邪仙・無寿宝の術と翠燕が気付いたときにはもう遅かった。
周囲一体に、激しい稲妻が落ち、それから身を庇う為に地面を転がっている間に、巨大な手も、黒雲も、郭甚任も何もかもが消え失せてしまっていた。
残ったのは黒こげの大地、聖なる血統を受け継ぐ最後の公主。
――そして剡の旗が一つ。




