弐 翠燕と流李、城に乗り込む
――高景城。
天華の西北に位置する寂れた古城だった。
元を正せば天華四番目の統一王朝、涼が北方の蛮族侵入を食い止めるために築城したのが始まりで、以降いくつも王朝が増改築を繰り返して使用していたが、国境線の前進と構造の決定的な時代遅れによって三百年程前からすっかりうち捨てられてしまっていた。
今にも滅亡しそうな王朝の、兵法の心得えもない文官が右も左もわからずに逃げ込む城としては、なかなか論理的な佇まいであるとも言える。
聳え立つ山の岩肌に張り付くようにして築城されたこの城は、水だけは何とか自給できるが、天華北部の気候も相まって、食料がほとんど採れない。しかも先日まで人もほとんど住んでいなかったような城なので、蓄えもない。
よく保って一月。
それが泰が下した戦略的判断であり、牙偉門がこの城を封鎖してからそろそろ一月経とうとしていた。つまり落城寸前。
まさに“遺言屋”が活躍するにはうってつけの舞台と言えるだろう。
「おーおー、あの短絡者にしては兵法通りの布陣だね」
完全に上からの口調で、翠燕が高景城を取り巻く泰軍の布陣を批評する。取り巻く兵士の数は実働部隊で千五百。輜重隊を含めて三千といったところだろう。
過去の、そう歴史に名を残す会戦と比べればいかにも数が少ないように思えるが、実際に三千という兵士の数を見た流李は圧倒されるばかりだった。
そしてそれだけの人数全てが機能的に、自分たちの役割を果たしている所までを見せつけられ、流李は改めて自分の無知を思い知る。翠燕も似たような感想を覚えたようで、
「なかなか立派に指揮しているじゃない。後で機会があれば褒めてあげよう。十年後ぐらいがいいな」
「後で……って、挨拶していかないのか?」
翠燕は散々に悪口を言っていたが、これだけ見事な指揮振りを見れば、牙偉門という将軍――将軍ということにしておく――に一度会ってみたくもなる。
「何で?」
心底不思議そうに、そして心底嫌そうに翠燕が応じる。
「し、しかしだな。すぐそこに……」
「もしかして、あの丘の上の陣のこと言ってるの?」
翠燕が流李の視線を追うようにしながら尋ねてくる。
「そうだろう? 小高い丘の上に陣を敷くのは基本中の基本だ」
「それは野戦での話でしょ。長い間陣を敷かなくちゃならない対籠城戦で、そんな所に布陣したらあっという間に干上がるわ。恐らくあの丘の向こうが本陣ね。糧秣の輸送が容易くて、水脈も近くにあるし。あの丘の上のはもっと高い櫓でも組んで、城を覗けるようにするべき何だけど……」
いかんせん丘の高さが足らなすぎる。そして高く櫓を組もうにも近くに森どころか林すら見あたらないから、そもそも木材がないのだろう。
後方から木材を運んでこさせるぐらいは出来そうではあるが。
「ははぁ」
「……どうした?」
突然、なにやら嬉しそうな声を上げる翠燕に、流李はどこか不審感を覚えたような声を上げる。
「あの城にいるのは、あなたと同じでほとんど素人。半端な知識であの丘の上が本陣だと思いこむかも知れない。一か八かであの本陣に突っ込んでくる可能性もあるから……」
「少し引っかかるが、話はわかった――罠だな」
「そう。だから、見張りの陣に過ぎないということがばれないように、高い櫓を組んでいないんでしょう。組んでいても大差はないと思うけど、かなり隼王に言い含められたらしいわね」
そう言って、猫目を細めてけらけらと笑う翠燕。なるほど嬉しがっている理由はそういうわけか、と流李は妙に安心する。
「それにしたって一応挨拶は必要だと思うが」
「私達がここに近づいてきているのも、今ここにいるのも偉門は知ってるわ。斥候を放つのは基本中の基本だもの。挨拶が必要だと思ったら向こうから来るわよ」
「そ、それはいくら何でも……」
「偉門の奴、私達を降伏勧告の使者代わりにするつもりよ。確かに“遺言屋”が乗り込んだらいよいよ覚悟も決まるでしょうけどね」
「……ああ、なるほど」
今更ながらに、自分がどんな娘に付いてきているのかを思い知ってしまう。
「それじゃ行くわよ流李。兵士達にも私達のことは伝わっているはずだから悠々とね」
言いながら、翠燕は馬首を高景城の門へと向ける。流李も慌ててそれに続いた。
二人の行く手には乾いた風が巻き上げる、黄色い砂塵。
嫌がる馬をなだめすかし、高景城への道を上り始めた二人。
その途中、翠燕が小さな声で呟いた。
「でも……妙ね。これが陥ちる前の城?」
対籠城というと、城の出入り口をぴっちりと封鎖して水も漏らさない布陣を想像しがちだが、それは短期的に決着を付けたいときに行う布陣で、今のように長期的に事を運ぶつもりなら、そういう布陣を取ることはまず無い。
まず城から出てくる者は基本的に歓迎される。個人的な降伏はもちろん、名もない人物でも城から出てくる者に過酷な仕打ちをすることはない。泰国の方針というよりも、無理に追い込んで窮鼠となられるよりも、寛容さを示した方が囲む側としても被害が少なくて済むのである。
中に入ることはもちろん容易ではない。
食料などを持ち込まれれば意味が無くなってしまうし、単純に人手を増やされては本末転倒だ。もっとも高景城に援軍が派遣された場合、城の中に駆け込んでしまっては援軍の意味が無くなってしまうのだが。
それでも完全に封鎖されることはない。基本的に窮鼠を生み出さないことが長期的な籠城戦の基本だとすると、状況にもよるが絶望的な戦況を外部の人間に伝えさせるのも情報戦として有効なのだ。
その点、翠燕のような存在は実にうってつけだった。
やってることは降伏勧告と変わらない上に、泰とは直接関係ない“遺言屋”はより効果的に城の中の士気を挫く。
翠燕と流李は馬を下り、城の正門を迂回して東側の小さな通用口をくぐり抜けた。
しかし奇妙なことがあった。
当然そこにいるべきはずの見張りの兵士がいなかったのだ。燦という国が、高景城がいかに末期的な症状とはいえ、こんな事はあり得ない。
わざわざ城を囲むまでもなく、ここから一部隊でも侵入させれば、あっという間にけりが付く。
「おかしくはないか? 翠燕」
流李が緊張した声を出す。自分の槍の間合いに武装した賊が三人ほど入り込んだぐらいの緊張度合いだった。
――対処方法を間違えると自分も無事では済まない。
「おかしいわ」
翠燕は簡潔に同意して見せた。
「そうだろう。見張りの兵士もいないなんて、そんな馬鹿な城が……」
「それ以前に……城の中もおかしい」
そう言われて、流李は城内に目を向けた。
通用口から入ったので、いきなり大通りが開けているわけではない。それでも泥煉瓦で作られた建ち並ぶ家屋はそれほど高い造りではないので、見通しは悪くなかった。
全体的に砂埃をかぶったような、ぼやけた印象の街並み。それでも季節柄、所々に思い出したように立ちつくしている木々にも緑の葉が生い茂っており、それほど不快な印象はない。
道端にも草が葉を伸ばしている。
確かに閑散とはしているが、おかしいと断言できるほどの事もないような気がする。
そんな疑問を流李が翠燕に聞く前に、
「食べられる物がこんなに残ってるなんて」
と、告げられた。
「え?」
「葉っぱも、木の皮も、足下には草の根だって残ってる。一月囲んでこれ? 偉門が……」
しくじったのか、という言葉を翠燕は飲み込んだ。
つい先ほどまで、その牙偉門の布陣を褒めてきたところだ。あの布陣に隙はない。
「翠燕、人の姿が……見えないな。いや犬や猫など動くものがいないようだが」
そこへさらに流李から、鋭い指摘。
食べる物がまだあるのに、この空虚さは確かに謎だ。
翠燕の猫のような瞳の瞳孔がきゅっと締まる。疑いようもない危険信号が体中の毛穴から吹き出し始めた。
城から出るべく、翠燕がきびすを返したその瞬間――
ぱたん。
無慈悲さを感じるほどにあっさりと通用口の扉が閉じた。




