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剡旗伝  作者: 司弐紘
第一回 遺言屋、追われる
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壱 “遺言屋”、涙を使う

 その娘はポロポロと泣いていた――


 猫のようにつり上がった瞳から、まるで夕立のように激しく涙を流していた。


 見れば顔立ちは平均以上。黒髪の艶やかさからは気品のような物さえ感じられる。


 しかし邸宅の玄関口、使い込まれた石畳の上にぺたんと座り込む娘の出で立ちは酷すぎた。基本的には旅装姿なのだが。


 白いぶかぶかの着物。藍色の腰巻き。羽織った緋色の肩掛けには龍紋が縁取られている。それと同じ布で作られたらしい頭巾を頭に巻いて、色彩的にはなかなか派手だ。


 ただその全部が、煤汚れている。見れば所々には血が滲んでいるし、破れている箇所は両手の指でも足りないほどだ。想像力を働かせるまでもなく、危険な場所――おそらくは戦場をくぐり抜けてきたことが窺える。


 それを証明するかのように、よくよく見れば脛当てに手甲といささか物々しい防具も装備していた。もちろん、その防具も傷だらけだ。しかも座り込んだ娘の右横には、十尺はあろうかという長い棒。


 もちろん武器だろう。恐らくは棍。


「……かかるに、成陣せいじん殿は見事に忠義を貫かれ、その勇名はたい軍にも響き渡りましたが、武運なく、章元二年丙巳討ち死に――」


 そこで娘は懐から、一枚の書状を取り出した。


「これは成陣殿のご遺言。わたくし翠燕すいえんが預かりおきまして、こうして呂氏一族の頭領、伯望はくぼう様の前にまかりこしました」


 見上げたその瞳は、もう涙に濡れてはいない。


 ここは結拓ゆうたくの郊外、草順州そうじゅんしゅう高輪こうりん村。

 

 結拓と言えば先の天華てんか統一王朝、ろうの副都。さらに遡れば後凡こうはん王朝の首都でもあり、天華の昔から発達してきた大都市でもある。


 その郊外ともなれば、あっさりと田舎の村として片付けるわけにもいかない。街道沿いには多くの店が建ち並び、小都市としての機能もある。


 さらにここ高輪村は地方の豪族呂氏の擁護よろしく、天華北部の穀倉地帯としても名が知られていた。


 天華の動乱が収まりつつある昨今、五月という時候もあり小麦の葉が青々と村のあちこちで風に泳いでいる。


 そんな小麦畑の海の上、小島のようにせり上がった丘の上に呂氏本家の邸宅があり、翠燕と名乗った娘が訪れているのはまさにその邸宅だった。まず大邸宅と言っても良い。


 それはつまりこの村を守るための砦ということでもある。


 今の砦の責任者は呂氏一族の家長、信明しんめいあざな伯望はくぼう


 御年七十を数える老爺ろうやであるが、まだまだ矍鑠かくしゃくとしていて高輪村に睨みをきかせる強面こわもてでもある。


 その強面が、翠燕を前にたじたじとなっていた。何しろ口を挟む隙間がない。


「こちらを書き記すは山近さんきん州の白狸しろだぬきの背の毛を集めて作り出したる、幻の筆“西金せいきん”。墨は最高級のその上、神墨“縮緬玄雲ちりめんげんうん”。それを受け止めるは奇石の産地、傲安ごうあん邑の名匠、律園空りつえんくうが掘り出したる硯、号を“蹄麟ていりん”」


 翠燕の言葉が天華中を駆けめぐる。


「そして極めつけは、この紙。十年前に滅びし海西の楼文化の中心、兆津堂ちょうしんどうで生み出された、ぜいを凝らして作られた逸品中の逸品、その名も兆津堂紙ちょううんどうし――うん、そのままだ。そして成陣殿最期の言葉を留めたるは、不肖ながらも書聖・鵬淑史ほうしゅくしの師、宋玲そうれい国の金夫人の系統を学びたる私が務めさせていただきました」


 そこまで並べ立てて、ついに翠燕の口が止まった。そう言われて、改めて翠燕の前に広げられた“遺言”を見てみると、大した代物のように見えてくる。


「かかる至高の宝物が揃いましたのも、成陣殿のご人徳でありましょう」


 翠燕はそう締めくくった。


笈賛きゅうさんは――」


 呂笈賛ろきゅうさんと言うのが、遺言を残した男の名である。


 翠燕が先ほどから口にしている成陣せいじんというのはあざなだ。


 男子の名を呼べるのは目上の者――父親、兄、もしくは仕える君主――に限られるので、制度上どうしてもそういった呼び名が必要になるのだ。


 信明は無論、呂笈賛の目上なので笈賛、と名で呼ぶことに間違いはない。逆に翠燕のような女性は間違っても笈賛をその名で呼んではいけない。


 ――それが天華の制度。


「笈賛の最期は――立派なものであったか?」


 絞り出すような信明の問いかけに、翠燕は一瞬表情を引き締める。が、すぐに悲愴な表情を浮かべ、声を震わせながら、


「……しん最期の城、広空こうくう州は璃波るは城。泰の軍に取り囲まれて風前の灯火。申王、陶練章とうれんしょうは降伏を潔しとせず、成陣殿もそれに御同意。璃波城の南門より討って出て――」

「――うむ」


 深く頷く信明の姿を、翠燕は盗み見る。


「――馬上より蛇矛じゃぼこを振りかざして雑兵を追い払い、目指すは泰の本陣。大将たる隼王まであとわずか、というところで立ちふさがるのは、泰軍にあって武名誉れ高い“虎牙風こがふう”の異名をとる牙偉門がいもん


「おお、その異名は儂も耳にしたことがあるぞ!」


「さもあらん。かような勇者を相手に成陣殿、矛と剣を交えること十数合。しかし、籠城戦にて心身疲労のきわにあった成陣殿に利あらず。ついには牙偉門の右手の呉鉤ごこうが成陣殿の……御首みしるしを……」


「そ……そうであったか……笈賛は立派に散っていったのだな……」


 涙に肩を震わす信明。翠燕もまたボロボロと涙を滴らせる。


 そのまましばらく二人で涙の量を競うようであったが、その内に信明がふと気付いたように翠燕に声をかける。


「……御使者殿もご苦労であったな。そこもともしんに縁の御子女であられるか?」

「いえ、わたくしは……」


 顔を上げる翠燕。その瞳にもう涙はない。自由自在らしい。


「――“遺言屋”が生業なりわいにて」


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