一段目 ブラックホールに消えた男
その日、俺はアパートの自室の『天井』に立ち、床を見下ろしていた。
趣味で集めたお面のコレクションを床に並べて鑑賞していたのだ。
「うーん…… 『ひょっとこ』は古典系で、こっちにまとめてしまっておくか……」
かれこれ1時間ほど、上下逆さで天井に張り付いている。
こうしてコレクションを眺め、どう分類して整理するか考えるのは収集系の趣味の醍醐味だと思う。
「しかし、やっぱり一番はこれだな。」
真っ赤な鬼の面を手に取り、顔に当ててみる。
やはりこれだ、顔の一部のようにしっくりと来る。目の位置も良く、視界もほとんど妨げない。
紐を頭の後ろに回し、結ぶ。
重みでずり落ちることもなく、ぴたりと顔にとどまる。
その出来栄えに満足し、俺は自然と鬼面の奥で笑みを浮かべた。
と、その時、建物ごと部屋が上下に揺れ出した。
「うあぁ!?地震か……!?」
当然だが天井に張り付いているというのは正常な状態ではない。完全に重力に逆らっているのだ。
しかし、今重力にしたがって床に下りると、並べたお面の上に着地することになる。
大事なコレクションを自分で破壊するのは避けたい。
必然的に俺は天井に張り付いたまま、揺れが収まるまで我慢するとことを選んだ。
「くそっ……よりにもよってこんな時に……!」
揺れが収まるまで天井に張り付いたままでいられる自信はあった。
しかし俺は肝心なことを忘れていた。天井は本来人間の体重を支えるためのものではないということを。
実家の天井が特別丈夫に作ってあるだけだということを。
つまり、俺を張り付けたまま天井の板を留めていた釘が抜け落ちたのだ。
「しまったあぁ!!」
このままではコレクションのお面が割れてしまう。
そう思い、耐えるために伏せていた顔を床に向けると―――
そこには、大きな真円の黒い穴が開いていて、
俺は、一切抵抗できずに穴の中へ消えていった。
●●●
『本日、午前7時12分ごろに発生した地震についてですが、震源の車隠町では震度5弱。
周辺の沿岸部では津波警報が……
……はい、今入った情報によりますと、現時点では死亡者は確認されていませんが、車隠町で行方不明者が1名。』
『行方不明者は山上 達蔵さん、20歳。
付近では情報を―――』
●●●
「ううん……?」
真っ暗な場所で俺は目を覚ました。
ずきんと痛む頭で、状況を思い出す。
地震が起きて、天井ごと落っこちて、丸い穴に飲みこまれたのだ。
「床が抜けた……にしてはおかしいし、そもそもここはどこだ?」
手をついている地面の感触は土と草。
暗闇に慣れてきた目であたりを見ると、どうやら森の中のようだ。
建物の崩落に巻き込まれたなら、病院か避難所にでも運び込まれるはずだが、ここはそのどちらとも到底思えない。
そもそも、地震が起きたのは朝。こんなに暗くなるまで気絶していたのか?
自分の体を触って確かめるが、怪我は特にないようだ。
「まいったな……」
状況を聞ける人どころか、夜中に見知らぬ森に独り。
テントや寝袋どころかブルーシートの1枚すらない。
「体を休めて朝がくるのを待つか……」
どこか良さそうな場所はないかと探そうとしたところ、ガサリと茂みから音が聞こえた。
もしや俺をここに運んだ人か?と思い、振り向くと―――
「グルウゥゥゥ……!」
歯をむいて唸る、狼人間がいた。
「ギャウゥッ!!!」
俺がそいつに気付いた直後、狼人間は鋭い牙を並べた口を大きく開き、とびかかってきた。
どう見ても俺を食うつもりの行動だ。
俺はとっさに斜め前方に跳び、前転気味に着地、狼人間に向き直る。
やはりどう見ても狼人間だ。脚の形が人間ではありえない骨格をしている。仮装ではない、正真正銘の怪物。
そしてこの殺気。まぎれもない野生の獣だ。
「こんな動物が実在するなんて聞いたこともないが……!」
新種の動物なら大発見だが、発表する前に俺が食い殺されそうだ。
やむを得まい、殺される前に……
そう思うと同時に、狼人間が再びこちらにとびかかってきた。
「ギャウウゥゥッ!!!」
さっき以上の速度と勢いだ。
膂力もおそらく人間以上、食いつかれればたやすく肉を噛み切られるだろう。
俺は今度は狼人間の頭上を跳び越え、すれ違いざまに狼人間の頭に手をかける。
そのまま勢いを殺さず、着地と同時に―――
「グゥゥッ……!?」
狼人間の頭を270度回転させた。
狼人間はそのまま立ち上がることなく、4,5回脚で地面を掻くと、ピクリとも動かなくなった。
俺はそれを見届け、周囲を警戒する。
「群れで狩りをする動物じゃあ、ないみたいだな……」
もしそうなら、とっくに2匹目、3匹目に襲われているところだ。
とはいえ、いきなりこんな危険な動物が襲ってくるような場所だ。この場をしのいでも別の化物が襲ってくるかもしれない。
しかも、狼人間をねじり殺した時に多少吐血している。血の匂いは他の獣を引き寄せるだろう。
この場を離れた方がいいだろうと判断したが、手遅れだった。
「…………」
毛むくじゃらのシルエットが俺を見ている。
かすかに光る眼球は一つだけ、隻眼か、もともと一つ目の化物か。
狼人間に遭遇した時とは違い、十分警戒していたというのに、10mほどの距離にそいつはいきなり現れたのだ。
こちらが身構えると、そいつは右手を顔に当て、掻くような動作をした。
左目の位置から、火が噴き出した。
比喩ではなく、本当に赤く燃えているのだ。
さらに、そいつの左腕も燃えだした。
いや、炎が左腕の形をとっているのだと気付いた。
狼人間も常識外れの生物だが、目と腕が燃えている生き物なんているはずがない。
が、実際こうして俺に敵意を向けている。
それどころか感じる殺気の強さは先ほどの狼人間の比ではない。
「…………」
燃える化物は無言のまま燃える左腕を前にして、武術のような構えをとった。
ここまで常識外れの存在だ、獣が武術の真似事をしても驚くまい。
そいつは左腕を前に出した半身のまま、すべるように距離を詰めてきた。
どう見ても武器はあの炎の腕。躱すと同時に懐に入りカウンターを狙うか。
そう思い、化物が間合いに入るのを待ち構える。
あと1歩であの左腕がこちらに届く、という間合いで、化物は仕掛けてきた。
「……!」
化物は息を短く吐き出し、身体のねじりを加えて左の抜き手を突き出す。
こちらの予想通り、その左手は1歩と半分の距離を『伸びて』きた。
実体のある腕ではないのだ、それくらいの芸当はしてくるだろうと思っていた。
俺は最小限の動きでその手を躱し、化け物のみぞおちと思われるあたりに打撃を入れる。
が、浅い。
こちらの腕が伸びきる前に、残った右手でつかまれた。
つかまれただけならそのまま殴りぬいても良かったのだが、金属のように固い手で腕を握られたとき、嫌な冷たさを感じとっさに腕を引いたのだ。
お互い交差して、距離を空け、再び相手へ向き直る。
化物は右手で軽く腹をおさえ、俺は捕まれた腕に目をやる。
何か所か、皮膚が破れて血がにじんでいた。右手にも何か仕込みがあったようだ。
しかし、それ以上に驚いたことがある。
先ほど殴り、捕まれた感触。あれはまるで……
その時、月が雲の切れ間からのぞいた。
まばゆい月明かりがお互いの姿をはっきりと照らす。
化物と思ったのは、ぼさぼさの黒髪を伸ばした女で―――
「「あんた、もしかして……人間なのか?」」
俺とそいつは、同時に同じ言葉を口にした。