翌日の朝
※この章ではアルシアと悪魔に関する明るめ番外編を中心に公開します。故郷や国王・宰相あたりの暗め番外編は別の章にまとめてのちほど公開します。
※アルシアと悪魔が再会したのは、婚約破棄事件から四ヶ月後という設定に変更しました(元々は二ヶ月後でした)。
海辺の朝はシロウミガラスの鳴き声で始まる。
クー、クー、という高い声で今日もアルシアは意識を浮上させた。
(……あったかい)
夏でも海辺の朝は冷える。というのに今日は温石でも抱いたかのように温かい。
その温度にはどことなく覚えがあった。ゆるゆると瞼をあげる。
(……ぎゃーーーっ!!!)
想像以上に近いところに悪魔の顔があって、アルシアは心臓が止まりそうになった。とっさに身を引こうとするが悪魔の腕にがっちり抱え込まれているせいで動けない。おまけに右足首には尻尾の先が巻き付いているようで、細い毛の感触がある。
(ど、どっ……落ち、落ち着くのよアルシア……)
きつく目を閉じて深呼吸をする。どうやら昨晩は大暴れして大泣きしたあげく悪魔に凭れて寝てしまったらしい。
アルシアは大きく息を吐いた。
(そ、そうよ。悪魔に抱きしめられるのなんて昔からじゃない)
この程度で動揺などしていられない。
再び目をあけてみれば、悪魔は目を閉じて眠っているようだった。
アルシアは初めて見る悪魔の寝顔をとっくり眺めた。顔をじっくり見たのは久しぶりだった。
(……こうして見ると整っているのね、顔)
今の彼の表情は穏やかそのもので、威圧感は影を潜めている。普段は異様な雰囲気に隠されて気がつかないがこの悪魔は美形といっていいのかもしれない。通った鼻筋、切れ長の目、眉は髪と同じく黒色で凜々しい。口は……裂けるし歯は尖っているが、人間よりもやや大きな体躯はしなやかで引き締まっている。
(異形だけどかっこいい、か、も――……って、なに考えてるのよ私!)
アルシアは顔を赤らめて頭を振った。
昨日の夜までは悪魔が自分を殺すのだと信じてやまなかったのにこの変わり身の早さである。アルシアは自分の変節っぷりに呆れた。
とはいえ、もはや悪魔を疑う気にはなれなかった。
不思議な感覚だった。
害意がないとわかったとたん悪魔の言葉はアルシアの胸に真っ直ぐに落ちてきた。その理由は、悪魔が嘘をつけないからというだけではないだろう。今までの悪魔の言動はアルシアに対する彼の誠実さを裏付けていた。
(嫁になれ――……とか、う、うう、愛しい、とか……し、しかも……キス……)
昨夜の出来事を思い出してアルシアはますます頬を赤くした。当然ゴードンにもそんな台詞は言われたことがない。
アルシアにとってそういったものは友人たちが語るラブロマンスにだけ出てくる夢物語だった。熱烈に愛されて、逃げても追いかけられて、熱いキスとともに求婚されるだなんて。
悪魔の唇と舌の感触を思い出して鼓動が早くなる。
(な、なんか悔しい……振り回されっぱなしじゃない!)
昔は悪魔を振り回していたのはアルシアだったというのに、いつの間に力関係が逆転したというのか。悪魔によいようにされるのは気にくわない。
アルシアは悪魔の頬にそっと触れた。ざらりとした皮膚の感触は人間のそれとあまり変わらなかった。そのまま撫でたり引っ張ったりするが悪魔は起きない。アルシアはますます大胆になり顔を近づけた。
(べ、別に、キスくらい……私だって……か、家族にならしたことあるし!)
アルシアは悪戯心と羞恥心の間で葛藤したあげく、悪魔の鼻先にちゅっとキスを落とした。
――と、そのとたん、ぱかりと開かれた悪魔の口から長い舌がべろりと出てきた。
「ふぎゃあ!」
悪魔はニタリと笑ってアルシアの喉から顎先までを舐めあげた。
アルシアは顔を真っ赤にして喉を押さえた。
「寝てっ」
「ない。起きていた」
「嘘つかないんじゃないの!?」
「嘘はついていない」
「なっ、なんっ」
「……俺と熱い夜を過ごしてみたくなったかア?」
悪魔は嬉しそうにアルシアに顔を近づけると、耳元で低く囁いた。そして耳を舐める。
くちゅり、と唾液の音がする。脳髄まで溶かしてしまいそうな甘い音が。
アルシアは羞恥心で身をよじった。目の端で、悪魔の尻尾が嬉しそうに振られているのが見えた。
「んっ、やあっ……」
「ん?なにが嫌なんだ」
悪魔はアルシアを脚で挟むようにして抱き込み、アルシアの背を寝台に押しつけて上から覆い被さる。悪魔が囁くごとに熱い吐息がふうっと耳に当たった。
悪魔がアルシアを舐めるのはよくあることだったが、昔はせいぜい頬と怪我をした部位くらいだった。それなのに。
「さあ、言ってみろ」
「それっ……それ!だめっ……」
「それとはなんだ?」
言いながら、悪魔は執拗にアルシアの耳を舐める。
そうされるたびにアルシアは奇妙な熱が疼いて体が溶けそうになった。羞恥心と胸の奥底からわき上がる切ない幸福感とに翻弄されてじわりと涙が浮かんでくる。
「アルシア。俺はお前の意思を尊重するぞ」
「あっ……んっ……」
「なんだ、煽ってくれるな。愛しいアルシア」
「て……ないっ……待つって」
「むろん、契るのは待とう」
「ん……んんっ」
悪魔はうっそり笑うとアルシアの唇に唇を重ねた。そのまま悪魔は舌で器用にアルシアの唇を割り開くと中へそれを侵入させた。
(ん、ちょっと、待って、これっ……)
悪魔の長い舌はアルシアの腔内をぐるりと舐って粘膜を擦り合わせ、アルシアの舌を奪って絡め取る。息ができない。
アルシアが涙を零して視線を悪魔に向けると、悪魔は目を細めてアルシアを見つめていた。熱を孕んだ、狂気に満ちたエメラルド。
悪魔の目に宿る熱に射貫かれたとたん、アルシアは全身がぐずぐずに溶けたようになった。ずくりと体が熱でほてったようになって、力が入らない。
しばらくアルシアの腔内を堪能したのち、悪魔はようやく唇を離した。そしてやはり最後にぺろりとアルシアの唇をなめる。
息も絶え絶えになったアルシアは文句代わりに悪魔の胸を叩いたが、力の抜けたアルシアの拳ではぽふんと間抜けな音がするだけだった。
悪魔は息を切らしたアルシアをじっくり観察した後で、
「……あア、人間はこれほど息が短いのか。次から考慮しよう」
と見当違いな感想を述べた。
「ち、がっ……」
「ん?」
「なん、で、こん……、キスを……」
アルシアが息をつく合間に抗議をすると、悪魔は難しい顔になった。
「嫁にしたいと思った女に接吻をするのは当然だろうよ。まだ俺が信じられんか」
――違う、そういうことが言いたかったんじゃない。
アルシアはそう思ったものの、悪魔の真っ直ぐな言葉が嬉しくて喉まで出かけていた文句は意図せずあっさりと消えていってしまった。
「あの、ね。信じられない、ん、じゃなくて。……慣れてないだけ」
「あア、それならいい。直に慣れる」
「……あのね、する前に言ってほしいの」
「言えばいいんだな。わかった」
「うっ……」
墓穴を掘った、と思ったものの、アルシアは否定する気にはならなかった。まだ、その――悪魔に沸きかけている気持ちを認めたくはなかったけれども。
「……う、うう、いいわよ。言ってくれたら。でも、人間には人間の都合があるの。だからいつでもキスできるってわけじゃ――」
「そうだな。今も都合がよくないらしい」
悪魔はアルシアの頭を撫でると体を起こし、アルシアの腹部を指で触った。
――ぐう。
そのとたんアルシアの腹の虫が鳴った。
アルシアは別の意味で赤くなった。悪魔に腹の音など今までで充分に聞かれているだろうに無性に恥ずかしくてたまらない。
「なっ……」
「昨晩も食べてないのだから当然だな。すぐに食事にしよう」
悪魔はからかうでもなく尻尾を揺らした。
アルシアが身支度を終えて寝室をのぞき込むと、窓が開いていて伸びに伸びた悪魔の細い尻尾が窓の外に出ていた。
「なにしてるの?」
「食料の調達だ。海が近いというのは人間には便利よなア。お前は魚介類が好きだろう」
間もなくするすると尻尾が縮んでいく。
窓の向こうに現れた尻尾の先には、子豚ほどありそうな巨大な青緑色の魚が刺さっていてビチビチと体をくねらせていた。悪魔がそれを部屋の中に引き入れフッと息を吹きかけると、魚は青白い炎で燃え上がった。
(ご、豪快……)
尻尾の先に刺さっている魚はあっという間に巨大な丸焼きとなった。
「さあ、できたぞ」
「……。……えーと、じゃあそのテーブルの天板に置いて」
大きすぎて皿に乗るわけがない。仕方なく天板に直接乗せて、アルシアは椅子に座った。悪魔はテーブルの上であぐらをかいている。
「ねえ、あなたは食べないの?」
「悪魔の夫は妻に充分食べさせた後にしか喰わん」
「……そう」
悪魔というのはずいぶん妻思いらしい。それはアルシアの知る貴族社会とは全く違って、しかし珍しいというよりも悪魔に大事にされることが面はゆく感じる。温かいくすぐったさが襲ってくる。
アルシアは自分の気持ちを誤魔化すようにそっけなく返事をして、ナイフを握り、魚に突き立てようとして――手を止めた。
「あの、これってそもそも食べられる魚なの?人間には毒だったりとかは」
「心配ない。市場でよく売られていた」
「いつ見たの、そんなの」
「ここへ来る途中でなア。宰相にも喰らわせたが旨いと言っていたぞ」
(く、喰らわせた……)
アルシアは悪魔は宰相をどういう扱いをしたか想像しようとして、やめた。ろくでもないことをしてそうだ。
アルシアは自らナイフで魚の背を切り、口へ運んだ。悪魔は尻尾を揺らしながらアルシアを見つめる。
「あ、美味しい」
「そうか」
香辛料もなにもかかっていなかったが、海水のせいなのか塩気があって、ぷりっとした白身にはほんのり甘みもある。焼きたてでほくほくと湯気を上げるそれは、今まで食べたどの魚よりも美味しかった。
夢中で食べ進めるうちに、アルシアはだんだん腹の底から笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「ふ……ふふっ」
朝から顔を洗う間もなく熱烈なキスをされて。天板の上に直接巨大な魚の丸焼きを置いて。給仕係もいなくて、自分でナイフで切って。信じられないほど適当な作り方で、でも信じられないほど美味で。傍らには悪魔がテーブルの上に座っていて。
なんて不作法で素敵なのか。
ここ四ヶ月の間、貴族とは全く違う生活に慣れるのに必死で、元来お転婆なアルシアにもそれを楽しむ余裕はなかった。
けれど、今はこれはこれで悪くないと思える。
「アルシア?」
「んーん、なんでもない。ねえ、名前はなんて言うの?悪魔って名前じゃないんでしょ」
悪魔はニイッと笑った。
「名は結婚するときに教えてやる。それまでは秘密にするのが慣例でなア」
「そっか。……ねえ」
「うん?」
「ありがとう」
アルシアが悪魔に笑いかけると、悪魔は満足げに舌を伸ばしてアルシアの唇をぺろりと舐めた。
この悪魔、朝でもムーンライト系は得意である……普通のほのぼの甘い話は次回で……。甘い話を書くのが大変苦手です、いちゃらぶってどうやって書けばいいのかわからないぞ!