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ダーク・フィーンド

 優しく額を撫でられている。

 4歳のアルシアが薄目を開けるとベッドの傍らにそれがいた。

 エメラルドのような透明な緑の瞳に山羊のような潰れた虹彩を持つそれは褐色の肌をしており、男のような姿をしていた。服は黒い。滑らかな生地が体に沿ってぴったりと上半身を覆い、そこからゆったりとしたズボンまで続いている。


(人じゃないの? べつのくにの人?)


 アルシアは未知に接する恐怖よりも好奇心が勝るタイプの子供だった。


 ぱちりと目を開くと彼はアルシアを見た。

 黙って見つめ合う。

 彼は目を細めるともう一つアルシアの頭を撫でた。


「……だあれ?」

「クク、こいつは幸先がいい」


 彼は呻くように笑うと尖った四本の指をアルシアの頬に添えた。


「名はいろいろある。エル・ティゴ、グイフン、ボナキンガ……お前たちには闇の悪魔(ダーク・フィーンド)と呼ばれることが多い」

あくま(フィーンド)?」

「そうだ。俺はその首飾りの主だ、アルシア」


 アルシアは不思議そうに悪魔を見上げた。悪魔の目はエメラルドと同じ色をしている。


「わたしを知ってるの?」

「母親の腹の中にいるころから。……ああアルシア、お前は旨そうだなァ」


 悪魔がぱかりと開けた口に鋭い歯が並ぶのを見て、初めてアルシアは自分が食べられるかもしれないということに気ついた。真っ赤な長い舌が中からべろりと現れる。

 涙が出てきた。声が震える。


「わ、わたしを食べるの?」


 とたんに悪魔は渋い顔になってアルシアの頬をつついた。


「せっかく見つけたんだ、そんなことはしない。チ、人間はなんて難しいんだ」







 アルシアは当初、夢だと思った。


 しかしその後から異変が起きた。


 首飾りがアルシアから離れないのである。習慣どおりに首飾りを宝物庫へ戻しても次の瞬間にはアルシアの首元に黒い靄が現れてエメラルドの首飾りとなった。ノックス侯爵が首飾りを握りしめていても公爵夫人が首にかけておいても結果は同じ。結局どうしたってアルシアの側から離れようとはしない。

 おまけにアルシアは悪魔を見たという。


 娘が首飾りの嫁に選ばれたと知ったノックス侯爵は、アルシアが18歳になり成人すると魂を悪魔に取られ魔界のようなところへ連れて行かれるのではないかと考えた。

 ノックス侯爵夫妻は焦って司祭や占い師に相談したが、結局は徒労に終わった。アルシアを夜一人にするのは危険だと一緒に寝てみたりもしたが、気がつけば熟睡してしまい、アルシアはその間に悪魔を見た。


 それからノックス侯爵夫妻は王家の神聖の真実を知るまでの8年間、悪魔の存在に頭を悩ませることとなる。


 幼いアルシアは悪魔を恐れなかった。自分が首飾りの嫁となることを知らなかったせいもあるが、悪魔が少なくとも表面上は優しかったせいでもある。

 アルシアにとっては悪魔は夜な夜な現れる「変わった見た目のお兄さん」でしかなかった。


「ねえ、今日ね、お庭でリボンなくしちゃったの。見つけられない?」

「昼の庭なんざ知らんぞ」

「なら一緒にいこ、今から」

「おい、そっちはバルコニーだろうが」

「抱っこして飛び降りて」

「お前は俺を従者かなにかと勘違いしてないか」


 悪魔は呆れてブツブツと文句を言ったが、床からひょいとアルシアを抱え上げた。そしてバルコニーから軽々飛び降りる。

 結局言うことを聞いてくれるのである。


「向こうからアルシアの匂いがするな……ほら、あそこだ」

「わあ、ありがとう!」


 悪魔はすぐに生け垣に引っかかったリボンを見つけ出してアルシアに差し出した。

 アルシアは諸手をあげて喜び、にっこり微笑む。

 悪魔は舌打ちをして「さっさとでかくなれ」

と言った。


 アルシアは悪魔が現れると、その日経験したことをたくさん話した。悪魔はそれを聞きながらアルシアを撫でたりつまんだりした。ときどき悪魔はアルシアに質問したりもした。たまに、二人で屋敷を抜け出すこともあった。アルシアは悪魔がいれば夜の森も怖くはなかった。


 こんなわけで、両親の心配をよそにアルシアは悪魔に懐いていった。




 ところがアルシアが8歳になった時、とある事件をきっかけにアルシアと悪魔の穏やかな関係が変質し始めた。

 その日、アルシアは両親とともにお茶会に出席していた。そこで子供ばかり集まって庭に出ていたところ、アルシアはとある貴族の腕白息子にからかわれたのである。


「やーい、ブース! まぬけ!」

「うるさい、アンタの方こそ不細工じゃないっ」

「なんだと、生意気なっ」


 令嬢らしからぬ激しい反撃に腕白息子は腹を立てた。頭に血が上った彼は勢いよくアルシアを突き飛ばした。アルシアはよろけて転んだ。ドレスは汚れ、額を芝生に打ち付けた。首にひっかき傷が出来る。


「痛っ……なにするの!」

「うるさい、俺に逆らうやつはこうだ!」


 少年はアルシアの襟を掴もうとした。が、彼が掴んだのは首飾りの鎖だった。

 アルシアは焦った。


「へえ、いいもんあるじゃん!」

「ちょっと、やめてよっ」

「もーらい!」

「あっ」


 少年は器用にフックを外して首飾りを抜き取り、戦利品のように掲げて屋敷の中へ走り込む。


「ちょっと待ちなさい! ……っ、どこ?」


 後を追って屋敷に入ったはいいものの、アルシアは立ちすくんだ。初めて訪れた広い屋敷では少年がどこへ逃げ込んだかなど想像もつかない。

 あの首飾りはノックス家の家宝だ。盗まれたら大変なものだ、両親に怒られるかもしれない。早く取り返さなければならない。

 しかし首飾りはアルシアを好いていて、どうやったってアルシアの元へ戻ってくる。ということは、アルシアは少年を追いかける必要はないのだろうか?

 女の使用人が近づいてきた。彼女はアルシアのドレスの泥を軽く払うとにっこりと微笑んだ。


「ノックス侯爵様のお嬢様でいらっしゃいますね。いかがなさいましたか」

「ねえ、ゴッダー家の男の子みなかった? ここに逃げ込んだの」

「申し訳ございません。お探しいたしましょうか」

「……ううん、いいわ。ねえ、お母様のところへ連れてってくれない?」

「かしこまりました。談話室までご案内いたします」


 本来、大人の集まりをむやみに子供が邪魔することは許されない。だが今回は仕方がない、なんせ家宝の一大事である。

 そしてアルシアと使用人が談話室の前まで来た時――


「うわあああああっ! がっ……ア……」

「坊ちゃま!」


 屋敷の中に響いた大声にアルシアはびっくりして足を止めた。使用人も目を丸くしている。


「男がっ……うわああああっ!」

「医者を呼べ、早く!」

「あの声……アレックス! どこにいるの!?」


 談話室からゴッダー家の夫人が飛び出てくる。それに釣られるように貴族たちが何人か顔を覗かせた。

 男性使用人が近くの部屋から少年を抱えて現れた。

 少年は使用人の腕の中で暴れ、四肢を突っ張り痙攣し、泡を吹き、喚き散らしたかと思えば声が出ないかのように喉を掻きむしった。顔は紫色になっている。

 極限まで見開かれた焦点の合わない目が恨みの籠もった目でアルシアを見た。気がした。

 アルシアは恐怖で床にへたり込んだ。


「ひいっ……」

「アレックス! しっかりして、アレックス!」

「アルシア? どうしてこんなところに……まあ、こんな姿になって。なにがあったの?」


 談話室から出てきてアルシアに気がついたノックス侯爵夫人に抱き上げられる。アルシアは夫人に抱きついて泣いた。


「うええっ……あのね、あの子にね、首飾りが盗られちゃったのね、ひっく、そしたら」

「首にかかってるわよ? ……まさか!」


 アルシアと夫人は、アルシアの胸に燦然と輝くエメラルドを見て黙り込んだ。

 屋敷を警備していた貴族の私兵に緊張が走った。


「侵入者か!」

「黒い肌の異国風の男らしいぞ!」

「行け、行け!」


 夫人の顔が強ばった。アルシアはエメラルドを握りしめて青ざめた。妖しい光を放つエメラルドは冷たい。


 その晩、アルシアは寝台に身を起こしたまま思い詰めた顔で悪魔を待った。

 悪魔はいつも通り夜半に近くなったころに姿を見せた。彼は満足げだったが様子がおかしいアルシアを見て眉を顰めた。


「なんだ? ……ン、そうか」


 悪魔は一人納得すると、アルシアを後ろから抱え上げて寝台の上にあぐらをかいた。優しくアルシアの髪をかき上げると首の包帯を切り裂き、そこに残った傷を尖った指の腹で撫でた。


「人間の小娘は特に肌が柔らかい。直してやる。痛かったんだろう?」


 ぬとりと長い舌で傷を(ねぶ)る。舌先が傷を這うにつれて傷はみるみる塞がり、まもなくなんの痕もなくなった。

 アルシアは首を触り、悪魔の力に驚いた。

 けれどもその表情は依然として固いままで、悪魔は首を捻った。


「なんだ。突き飛ばされたことがそんなに怖かったか?」

「……」

「実に口惜しいが、今の俺では昼間のようなことがあってもお前を守ってやれん。夜ならともかくなア。不満か?」

「……違う」

「なんだ、言ってみろ」

「ねえ、アレックスをああしたの、あなた?」

「あのガキのことか? そうだ」


 当然だというように頷く。アルシアは小さな手を握りしめた。

 悪魔はますます訝しげな表情になった。


「それがどうしたっていうんだ」

「ねえ、どうしてあんなことしたの?」


 アルシアは声を出さずにぼろぼろと涙をこぼし始めた。

 悪魔は顔を顰めて動きを止めた。


「お前を傷つけられたからに決まっているだろう」

「っ……、それだけであんなことしたの?」

「それだけじゃない、お前は俺のものだ。それに大したことはしていないだろうが、殺したわけでもあるまいに」


 アルシアは体をよじって悪魔に向き直った。悪魔は心底わからないという顔をしている。


「わ、私はあんなこと望んでない!」

「俺は望んでいる」

「やめて、もうあんなの嫌!」

「なぜだ?」


 悪魔の舌と指がアルシアの頬を撫でたが、涙は止まらなかった。


「だって、あんな、ひどいよう……」

「お前がされたことの方が酷いだろう?」

「そんなことっ」

「あいつはお前を罵り、傷つけた。その上、お前から俺を引き離そうとした。他の悪魔(やつ)が俺なら八つ裂きにするところだぞ」

「そんなの……」


 アルシアは泣き続けた。確かにアルシアもアレックスには腹を立てていた、けれども苛烈な報復を望んだわけではない。

 悪魔はアルシアの首に手をかけると、唸るように言った。


「我が身よりも他の男を優先するか」


 悪魔はいつもよりもずいぶん早い時間に姿を消した。





 あの首飾りは妙に人を惹きつける。アルシアは首飾りをドレスの下に隠すようになった。もう誰もアレックスのような思いをしなくてもいいように。

 結果、それから首飾りが取られることはほとんどなくなった。しかしそう都合よくはいかず、アルシアが少しでも害されるたびに悪魔は苛烈な報復を繰り返した。

 報復を受けた者は異様に怯え、家に籠もり、人によっては何年も家から出られなくなった。死ぬことはなくとも傷跡が残った者もいる。


 アルシアはその都度泣いて悪魔に懇願した。だが悪魔は不機嫌になるばかりで行いを改めることはない。

 アルシアと悪魔の関係に罅が入った。

 アルシアは頭を悩ませた。悪魔をどう説得すればいいのか。他の人を害さないためにはどうすればいいのか。アルシアは足掻いた。

 それからまた1年ほどしてアルシアは衝撃の事実を知らされることになる。


「お父様、今なんて?」

「アルシア。お前は首飾りの……あの悪魔の嫁に選ばれたんだ」


 ノックス侯爵の言葉は苦渋に満ちていた。


「お前は、もしかしたら魂を取られるかもしれん。嫁というくらいだから成人した後になるだろう。なにか言っていなかったか?」

「……」


 アルシアは青ざめた。悪魔はアルシアを見るたびに「美味そうだ」というのだ。それによく舐める。

 悪魔のあの言葉はただの言葉の綾なのかと思っていた。悪魔はアルシアには優しい。

 けれども、悪魔のあの他人への攻撃的な有様、アルシアが害されることを極度に嫌がる態度からすれば、悪魔は――アルシア(たべもの)が成熟するのを待っている捕食者そのものではないか?


「そろそろお前にも話さなければならないと思ったんだ。アルシア、よく聞きなさい。私たちは決して諦めない。絶対におまえを守る手立てを見つける。だから――……」


 それから何を言われたかは覚えていない。

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