アルシアの秘密
(なんでココがバレたんだろ。わからないと思ったのに)
アルシアは働きながら考える。この街は大きな貿易港になっていて様々な人種の人間が集まる。アルシアのような白い肌の貴族めいた女がうろうろしてようが働いてようが誰も気にしない。
仕事が終わった後、アルシアはしぶしぶ宰相と話をすることに同意した。庶民のフリして隠れていたといえど育ちは貴族、いくら嫌でもアルシアには宰相閣下を無碍に追い返すことはできなかった。
海岸へ降りる石段に腰掛けると、あの貴族らしかった宰相はためらいなくアルシアの隣に座った。
アルシアはちらりと宰相を見た。まだ三十路であるはずの宰相の頬はゲッソリと痩け幽鬼のようになっている。
(い、嫌な予感がプンプンする……)
正直話したくない。逃げ出したい気分である。
宰相は憂いを帯びた顔で眼下に広がる海を見ていた。海は西日を受けて橙色に染まっている。海から上がる漁師たちの周りをカモメが舞う。
「あぁ、海ってこんなに広かったんだな」
「……あっちにも海ありますよね?」
(海を渡ってこっち来たんだろうに)
アルシアのツッコミに宰相は大きくため息をついた。
「ここ二ヶ月はそんなこと考える余裕もなくってね。アルシア嬢を見つけてほっとしてしまって」
宰相は心なしか涙ぐんでいる。
アルシアはますます嫌な予感を募らせた。
「それで、なんのご用でしょうか。私は罪人なんでなにも――」
「その件だ。まずは私からお詫びしたい。先ほども言った通り君の濡れ衣はもう晴れている。アルシア嬢、大変申し訳なかった」
宰相はぼさぼさに乱れた頭を下げた。
「あのとき国王陛下の留守を預かっていたのはこの私だ。しかしあのバカ王子の凶行を止めることができなかった。それどころか私があのクソ王子の愚行を知ったのは翌日の夜だったのだ」
「ば、バカ王子……」
あの冷静な宰相が。あの礼儀正しい宰相閣下が。よりにもよって第一王子に遠慮無く暴言を吐いているのである。
「君はなにもしていないんだろう? すべてはあの性悪女の自作自演だったともうわかっているんだ」
「……そうでしたか」
「断罪の上に人前で婚約破棄だなんて、可哀想に……あのトンマ王子にはつける薬もないな。怖い思いをしたね。助けられなくて本当にすまなかった。でももう大丈夫だよ」
アルシアは目を泳がせる。
最後はわざと煽って異国へ逃げ出したのだが、その事実は宰相は知らないらしい。良心が痛む。
「あの後、私はノックス侯爵夫妻に君の行方を尋ねたんだ。でも君の両親は口をつぐむばかり。それであちこち探し回ったんだけど君の目撃証言すらつかめなくて。見つけるのに苦労したよ」
アルシアはそっぽを向いてシラッと嘘をついた。宰相には悪いが絆される気はない。
「濡れ衣が晴らされても婚約者に浮気された事実は変わりません。私、傷心なんです。そっとしておいて頂けませんか」
「故郷に帰るつもりはないのか? 君は上級貴族のご令嬢なのにここで庶民として働き続ける気なのか。手だってこんなに荒れてしまっているじゃないか」
「いいんです。故郷には帰りません」
きっぱり言い切ったアルシアに宰相は頭を抱えた。
やはり宰相はアルシアを連れ帰る気だったらしい。
「どうしても? このままでは我々としても外聞が悪い。国王陛下が謝罪をしたい、詫びに領地でも与えたいと言っているのだが」
「不要です。お気持ちだけで充分だとお伝え下さい。あとはここでそっとしておいて頂ければ」
「なんならゴードン王子を僻地へ追いやっても良いと王は言っている。それでも嫌かな」
アルシアは目つきを険しくした。
宰相は「外聞が悪い」と言うが権力が強い者が弱い者を従えるのは世の常である。つまり今回で言えばゴードン王子の体裁のためにアルシアが国外に留まるということは王家にとっては都合がいいはずなのだ。たとえアルシアの冤罪が公然の秘密となっていたとしても。
にもかかわず宰相は執拗に帰国を勧めてくる。王子を辺境地に追いやってまで。
「宰相閣下。あれに何か言われましたね?」
「……やはり、君は知ってるんだね。さっきも首飾りを警戒していたし」
アルシアは唇を噛んだ。墓穴を掘った。
宰相は思い詰めた顔で身を乗り出した。
「ノックス侯爵は首飾りについてなにも言わなかった。でも私たちにももうあれが普通じゃないとわかっている。なんなんだ、あの首飾りは。あの褐色の肌をした男は」
「彼に会ったんですか!?」
思わず大声が出る。
アルシアの知るあの悪魔はアルシアやアルシアから首飾りを取り上げようとした人にしか見えなかったはずだ。
「陛下によれば力が増大しているそうだよ」
「……。まずは宰相閣下があれになにを言われたか教えて下さい。その後で質問にお答えします」
「私は君とあの男を引き合わせてほしいと頼まれたんだ。殿下とローズ嬢から手を引くことと引き替えにね」
「それで私を連れて帰ろうとしたんですね」
アルシアは宰相を見上げた。今、宰相の肩にはゴードンの人生がかかっているのだ。それは気の毒に思う。
しかしアルシアとて無事に人生を送りたい。そもそも、ゴードンとローズがアルシアを排除しようとしなければ、ゴードンとアルシアが結婚しローズが愛人に収まっていれば悲劇は起きなかったはずなのだ。
アルシアは唇を噛んだ。
「それで、いったいあれは? あの男は悪魔なのか?」
「私たちにもわからないことが多いんです。でも私は彼をダーク・フィーンドと呼んでいました」
「闇の悪魔?」
「ええ。ローズ様が見た男の人ってこういう人じゃないですか? 褐色の肌、蛇のような目、長い舌、黒い短髪、とがった歯……」
「そう、その通りだ! まさか君もあれに暴行されたのか」
「いえ。彼は私には優しいです」
「じゃあ悪魔は君から優しく生命力を奪うだけだったってことかい? それが望みを叶える対価なんだろう?」
水平線の向こうが徐々に紺色に染まり、水面の橙も徐々に勢いを弱めてきている。海岸のあちらこちらでは、仕事を終えた人たちが酒を飲んだり踊ったりしている。日没は近い。
黙ったアルシアを宰相はのぞき込んだ。
「わかった、約束するよ。君を無理に連れ帰ろうとしない。強引に拉致してもこのあたりの人に見つかってボコボコにされるだけだろうし。でもその代わりに、真実を教えてくれないか」
「知ってどうするんです。人の手に余る問題ですよ」
「神聖を持つ王族だって人の領分から外れているだろう。そして私はその王族を支える宰相だ。だからせめて知っておきたい」
息を詰めてアルシアと宰相は見つめ合った。
緊迫した空気が流れる。
先に目をそらしたのはアルシアだった。
「……わかりました。お話します」
アルシアは大きく息を吸い込むと、低い声で闇悪魔の首飾りについて語り始めた。
***
ジェイラスはあの首飾りを「ノックス侯爵家に代々伝わるもの」と説明したが、実際はたったの4代前に入手されたものである。
その当時、この大陸は作物の不作にあえぎ、それに伴いこの国も蛮族による侵入と略奪を受け疲弊していた。広い領地を賜っていたノックス家は当時の王と共闘して蛮族を撃退したはいいものの、戦費の増加と領地の荒廃による更なる収入低下で財政難に苦しんでいた。
おまけにノックス家当主は王を庇った傷で重傷を負い、病床に伏せっていた。
そこで、当時まだ16歳だった当主の息子バイロン・ノックス――つまり4代前のノックス家当主である――が貿易で一儲けするために、親戚を連れて東の大陸へ渡ったのである。
その地でバイロンは黒い肌の商人に出会い、
「そこのお兄さん。この首飾りなんてどうかね」
「悪いが宝飾品には興味が無いんだ」
市場で声をかけられたのである。
貿易で忙しかったバイロンはあっさり断って去ろうとした。
が、ふと何気なく商人の手にする首飾りを目にしたとき、バイロンはそれにえらく惹きつけられた。
「エメラルドか?」
「そうさ、大きいだろう。めったにあるもんじゃないよ。それにこいつは特別な首飾りなんだ」
「特別?」
商人はニッと笑うと愛おしそうに首飾りを撫でた。
「こいつはなんでも望みを叶えてくれるのさ」
「へえ、……悪いが俺はそういうのは信じないタチなんだ。でもこれはいい品だな」
「だろう? これでどうだ」
商人が提示した価額は適当なものだったから、バイロンはそれを買うことにした。
「でも気をつけなよ、お兄さん」
商人は忠告する。
「その首飾りはね、嫁を欲しがるんだ。望みを叶えるのと引き替えにね」
「なんだ、女をあてがえばいいのか」
「望みを叶えた人の子孫じゃないといけないのさ。といっても何人も嫁を欲しがるわけじゃない、たった一人でいい」
「俺に娘が生まれればそいつが嫁になるってわけか」
「そうとも限らない。首飾りが気に入る娘が生まれるまで嫁は決まらない」
バイロンは首飾りを受け取った。
バイロンは迷信を信じない男だったが、その首飾りにはなにかが憑いていると言われても納得してしまうほどの魅力がある。
「で、嫁に選ばれたらどうなるんだ」
「首飾りを手元にずっと置かなきゃいけなくなる。そんで、そのまま嫁になる」
「なんだそれは。だいたい首飾りの嫁ってどういうことだよ」
「時がくればわかるさ」
それからバイロンはそんな会話をすっかり忘れて貿易業にいそしんだ。
ところがその首飾りを得てからというもの、バイロンには奇跡としかいいようがないほどツキが次々と訪れて、バイロンはあっという間に莫大な財産を築き上げた。
目的を達成したバイロンは実家へ帰る算段をして、荷造りをした。その最中にバイロンはあの首飾りを見つけ、自らの幸運を振り返って、商人の言うことを信じる気になったのである。
そういうわけで、ノックス家では女の子が生まれて4歳になると首飾りと引き合わされる決まりになっていた。
しかしバイロンが当主になり娘や孫娘を得たのちも、女の子と首飾りを引き合わせても何も起きなかった。それゆえ次第に商人の話を信じる者はいなくなり、ただ単にノックス家の伝統として娘が4歳になると首飾りと引き合わせるようになったのである。
が、ある年、ノックス家直系の4歳の娘に首飾りを引き合わせたところ異変が起きた。
首飾りを娘から外しても、ひとりでに首飾りが娘の首元へと戻ってしまうのである。
その選ばれた娘――首飾りの嫁こそがアルシアであった。
アルシアはあの悪魔に出会った4歳の誕生日のことを明確に覚えている。あの日は不思議に満ちていた。
誕生日パーティーが終わった後、アルシアは両親に連れられて宝物庫に入った。両親が仰々しい金庫から取り出して見せたものこそがあの首飾りだった。
「アルシア、見てごらん。これがノックス家の家宝の首飾りだ。4歳になった女の子にはこれを見る権利が与えられるんだよ」
「きれい……」
アルシアは父親が手にするそれを食い入るように見た。大粒のエメラルドが水底のように揺らめいている。
「ほら、つけてあげよう。後ろを向きなさい」
「はい」
ずっしりとしたエメラルドがアルシアの肌に吸い付くように胸元に落ち着いている。
アルシアはエメラルドを見下ろした。不思議と目を離すことができない。
「今夜はそれをつけたまま眠りなさい。それが決まりなんだ。大丈夫、簡単には壊れないよ。朝になったら外すからね」
「はい」
アルシアはエメラルドを撫でながらコクリと頷いた。そして父親の言うままに自室で眠りについた。
闇の悪魔が現れたのは、アルシアが深い眠りに落ちた深夜のことであった。