悪魔は嘘がつけないから
※アルシアと宰相が再会した時期を、婚約破棄事件から二ヶ月後→四ヶ月後に変更しました。(2017/9/9)
急いで隣国から帰った国王夫妻は、ゴードンの様子を見て絶句した。
髪はざんばらになり、服を引き裂き、土を食べようとする。目は血走り、宙に据わったかと思えばせわしなく上下に動く。頭を左右に振り、手は小刻みに動かし、硬直しては海老反りになって奇声をあげ泡を吹く。
かと思えばにっこりと優しい微笑みを浮かべて止めどなく話し続ける。
「父上母上お帰りなさいお待ちしておりましたアルシアはつまらないので捨てました死んでも良いので国外追放にしました罪人なのでよいのです未来の王妃はローズですしかし腹の中に誰かがいるのでまずは取り出す必要がありますナイフか斧かのこぎりかペンか火かき棒……煮えたスープ、あるいは石臼……違う、ローズ、偽聖女め! 俺じゃない、火あぶりにしろ、アルシア――――がァっ……」
ぐるりと目玉が回り体が痙攣する。
医者が飛びかかって押さえ、自傷しないようにゴードンをベッドに括り付ける。ローズはとっくに椅子に縛り付けられていた。
狂っていた。
国王はあらゆる手段を使った。
医者。薬師。祈禱師。占い師。司祭。説教師……。しかしどれを呼んでも首を横に振るばかりでゴードンの病状もローズの状態も改善の兆しは見られない。
もはや病気ではなく怪異だということは明らかだった。
首飾りが、勝手にローズの元へ戻るのである。金庫に保管しても、衛兵が目の前で見張っていても、川へ投げ捨てても、気がつけばローズの首に掛かっている。
そしてそのつど二人の気が触れる。
ゴードンとローズの距離を引き離しても無駄なことだった。
王妃は心労のあまり寝込んだ。
国王はすっかりやつれた顔で項垂れている。傍らに立つ宰相もまた疲れ切っていた。
「……なあ、どうすればいいと思う」
「ノックス侯爵ならどうにかできるのではないですか」
「あれはなんと言っていた」
「我々にも事情がある。協力できることはほとんどない、と。領地の城に籠もっているようです」
「そうか」
国王の顔に落ちる影が濃くなった。
「陛下! ここは無理矢理にでもノックス侯爵夫妻に――」
「ダメだ。ノックス家には、誓約をしている」
「誓約?」
「そうだ。魔をも祓う王家の神聖、それに誓った約束よ。破れば私の神聖が汚れ魔物が跋扈する」
宰相は息を呑んだ。
この国の王家は神の血を引く一族であり、王族が持つ神聖さは魔を祓う。そしてその神聖さに誓約をした場合は、誓約を破ればその神聖さは即座に汚れる。……と言われている。
だが宰相は信じていなかった。こういった話は権威付けのために作られるのが普通だったから。
「ただの神話ではなかったのですか」
「ただの神話であるものか。これは事実なのだ……だが先の王が悪魔払いに熱心でな、今や強い悪魔はこのあたりにはほとんどおらなんだ。だからこそ神聖さも誓約もたいした問題にならなかった」
「今回の事件では問題になると?」
「そうだ」
国王は額を手で覆った。
「アルシア・ノックス嬢はな、悪魔に憑かれておった」
「あの、褐色の肌の悪魔ですか?」
「見たのか」
「ゴードン王子が」
「……そいつだ。アルシア嬢は成人になれば悪魔に魂を盗られるはずだったのだ。だがゴードンと婚約すればアルシア嬢はゴードンの神聖の加護を受ける。ノックス家はゴードンとの婚約で悪魔を封じたのだよ。完璧ではなかったがね」
「王家はなぜそんなことを? 王家に得はないではないですか」
「……当時、国境が他国に荒らされておってな、先王は悪魔払いには熱心だったが人にはとんと興味を示さなんだ、そのせいで国が危機にあった」
宰相は息を呑んだ。5年前の荒れようは宰相の記憶にも新しい。当時まだ宰相ではなかったが、王が大軍を動かしたことは明確に覚えている。
「あのときの軍はほとんどノックス家が出したのだ」
「まさか! あんなのとんでもない数じゃないですか」
「そう、ノックス家は王家を国を助けるために財を無くしたのだ」
「それがゴードン王子とアルシア嬢の婚約の代償だったというわけですか」
「そうだ。私は婚約を神聖に誓った。今回は私が誓約を破ったわけではない、しかしアルシア嬢を害したゴードンを助けよとノックス家に命ずればそれはすなわち私が誓約の本質に反することとなる」
国王は嘆息した。
宰相は頭を抱えた。必死で今までの出来事を整理する。
「たしか、あの首飾りの悪魔は願いを叶えると聞きました。ノックス家の願いも叶えて、その代償がアルシア嬢なんだと――」
「……そうか! もしかしたら今なら」
「陛下?」
国王は執務室から飛び出してローズの元へ走った。宰相も後を追う。
椅子に括り付けられたローズは泡を吹いて気を失っていた。
国王は無理に人払いをすると、その場に跪いた。そして胸元に揺れるエメラルドに手を伸ばす。
と、部屋の四隅の影が動いた気がした。
瞬く間に影は伸びあたりを覆い、蝋燭が灯っているはずの部屋は真っ暗になる。
気がつけば、跪く国王をのぞき込むようにして褐色の肌をした悪魔が立っていた。その様子の異様さに宰相は凍り付いて動けなくなった。
「クク、王サマの神聖で俺を封じようってかア? 無駄なこった。わかるだろう?」
「……ゴードンは悪魔に誓約をしたのだな!?」
「そうとも。しかも自ら酷く汚して誓いを腐らせた」
「そんな……そんな、まさか」
安易に神聖に誓約してはならない。誓約をすれば神聖は強くなる、だが誓約を破ればその分神聖は大きな汚れを背負う。子供のうちはまだ危険だ。
国王がゴードンにそう言い含めてきたのが全くの徒労だったと今頃になって判明する。
悪魔と行う神聖の誓約は最高に危険なものだ。誓約を守るうちは悪魔の力をも手に入れることができるが、ひとたび破れば神聖が腐り落ち、それを喰らった悪魔は王族の神聖に負けぬ力を得る。
「そもそもなぜお前がゴードンに会った! どこで! 以前のお前はゴードンに会うことなどできなかったはずだ!」
「俺が会いに行ったんじゃアない、アイツが自分から夢を渡って会いに来たのさア。4年前にな」
悪魔くらい大したことじゃない、と言って。
「もはや俺には神すら手が出せん」
ニタニタと笑う悪魔に国王は項垂れた。
宰相はとっさに叫んだ。
「そ、そっ……それなら、私が、代わりに手伝いをしよう!」
悪魔は緑の目をぎょろりと動かした。
視線で射貫かれた宰相は全身を震わせた。手を握っても震えは止まらない、けれども根底にこびり付いた国王への敬愛が宰相をなんとか動かした。
「お前はただの悪魔じゃない、望みを叶えるんだろう代償と引き替えに!」
「そうとも。なんだ、そこまでこの腑抜けどもを救いたいか……ケケ、殊勝なことよな」
「ど、どうなんだ!」
「悪魔も万能じゃアないんでなあ。よかろう、お前は手駒になれ」
「そ、そうすればゴードン殿下は助かるんだな!?」
「あいつらから手を引いてやろう……クク、そう不安そうにするなよ。悪魔は嘘がつけないからなア」
悪魔はぞろりと牙を剥いて笑った。
***
婚約破棄事件から四ヶ月が経った。
あれからアルシアは東の大陸へ向けて海を渡り、親戚を頼って異国の地に落ち着いていた。
朝、アルシアが自室の窓板を押し上げると、外は快晴だった。眼下には白い石造りの家々が並び、その奥にはコバルトブルーの透明な海が広がって帆船がすいすいと泳いでいく。
急いで身なりを整えたアルシアは朝食を済ませると市場へ向かった。市場には褐色の肌の人たちを中心に様々な人種がひしめき合っていて、威勢のよい声のかけあいがなされている。
「アルシアちゃん、おはよう!」
「おはようございます、アニーナさん」
アニーナは黒い肌をした恰幅の良いほがらかな雑貨売りの女で、アルシアの雇い主である。
二人は手慣れた様子で店の前に品物を並べていたが、ふとアニーナは思い出したように話し出した。
「そういや聞いたかい、西の大陸のこと。アルシアちゃんはそっちの出身だろ」
「ええ、なんの話ですか?」
さりげなくアルシアは汗を拭った。
(ま、まさかもう噂がここまで……)
アニーナは陶器を磨きながらクスクスと笑った。
「あのね、あっちの国の王子とその愛人が呪われたんだとさ! なんでも王子はその愛人と浮気をして婚約者を捨てたらしくってさ、その婚約者は結局焼死しちまったんだと。それで婚約者に呪われたらしいよ」
「へ、へえ……」
(ち、ちょっと違うんですけどー! 私生きてますけどー! でも半分合ってるし……)
アルシアは汗をだらだら流した。
王子と愛人――ゴードンとローズの浮気は本当である。ゴードンが婚約者アルシアを捨てたことも本当である。そして……ゴードンとローズが呪われたことも本当であった。
そうジェイラスから手紙で聞いている。
が、アルシアはその呪いの内容がどんなものかは知らない。ジェイラスは詳しくを語ろうとしなかった。ただ「絶対に帰ってくるな、あの二人は呪われた」と書いただけで。
アルシアは唇を舐めた。
「アニーナさん、呪いってどんな?」
「なんでも鶏を襲って食べたとか、夜な夜な咆哮をあげて狂ったように暴れ回るとか」
アルシアはアニーナから目を反らした。
(……これからどうなるのかしら)
首飾りの悪魔が欲したのはアルシアだ。そのアルシアから強引に引きはがされた悪魔が激怒するのは目に見えていた。
店の前の通りから「ごめんください」と男性の声がした。
「おや? ちょいとお待ちね、お客さん。店はまだ準備できてないんだ」
「いや、私は客じゃない。アルシアに用があるんだ」
「……あんた誰だい、怪しいやつめ!」
「えっ、あっいや、私は」
いきり立ったアニーナが表へ飛び出し、急にあたりが騒がしくなった。
アルシアは戸口から表をこっそり覗いて硬直した。アニーナと市場の屈強な男たちに囲まれていたのは白い肌の痩せた男性である。青ざめてオロオロと慌てる彼をアルシアは知っていた。
目が合う。
彼はアルシアを見ると顔を輝かせた。
「やあ、アルシア・ノックス嬢! 元気そうでなによりだ」
故郷の宰相閣下だった。宰相はアルシアに近づこうと足を前に出す。
アルシアは叫んだ。
「来ないで下さい、動かないで!」
「えっ、ちょっと、捕まえに来たんじゃないよ!」
「信じられません!」
「見ればわかるだろう、兵士も連れてない! 君の濡れ衣はもう晴れてる!」
彼を取り囲んでいた男たちは剣呑にあたりを見回し、宰相の体を触って武器の有無を確認すると、警戒を解いた。
「待って、まだよ。宰相閣下、私の首飾りは今どちらに?」
「あれは……ローズ嬢が取り上げてからというもの彼女から離れなくなったんだ。金庫に仕舞ってもいつの間にかローズ嬢の元へ帰ってしまうんだ」
(つまり、首飾りはまだ向こうにあるのね……)
アルシアはようやく体の力を抜いた。
恐れるのは逮捕や処罰などではない。