腐った神聖
ちゃんと恋愛の話になります。後のほうになってから。
近衛に警備を強化させ、国王へ早馬を送る。
宰相はそれから急いでノックス侯爵邸へ向かった。
「――すべては私の力不足によるところ。大変申し訳ありませんでした。近衛はあのような罪の告発を信じておりませんし、国王陛下も婚約破棄など決してお認めに……」
「わかりました。謝罪は受け入れましょう」
どんな罵倒も受け入れるつもりで平身低頭謝罪をしてみれば、ノックス侯爵は妙にあっさり謝罪を受け入れた。
宰相は目を瞬かせた。
「今後は事件の解明、およびノックス侯爵家の名誉回復に努めて参りますので――……その、アルシア嬢はどちらに?」
「国外追放とのことでしたので、すでに王都を発ちました」
「なんですって!?」
宰相は思わず大声を上げた。
ノックス侯爵家はもっとも力のある上級貴族の一つであって財力もかなりのものである。たとえ国王の手からであろうとも娘を一人守り抜くくらいはできるはずだ。
「どうしてまた、そんなに急いで」
「一週間以内に国外へ出ろとのことでしたので」
落ち着き払っているノックス侯爵に宰相は違和感を覚えた。とても娘が殺人未遂の罪で国を追われたようには見えない。
「……それは申し訳ないことをいたしました。アルシア嬢の行き先を教えて頂けますか。王軍を動かしてすぐにでもお連れ戻しいたしましょう」
「いいえ、それには及びません。まだ罪の疑いが晴れたわけでもありますまい」
「……? そもそも私も近衛もアルシア嬢を疑っておりませんよ」
「それでも、です。アルシアのことは私たちにお任せ下さい。娘ですから」
妙に頑なにアルシアの行き先を言いたがらないノックス侯爵の態度に宰相はますます不信感を募らせた。
それに。
「……ノックス侯爵。そもそも、なぜ抗議にもいらっしゃらなかったのですか? おかしな話だとすぐにわかることですのに」
たかが王子が侯爵令嬢を一方的に断罪し婚約破棄することなどできないと大人の貴族であれば考えずともわかることである。
であるにもかかわらずノックス侯爵家はわざわざ王子の言動に付き合ったのだ。不名誉を晴らそうともせずに。
ノックス侯爵は目を伏せて何も言わない。それは決して口を割らないという意思表示だった。
宰相は嫌な予感がした。
「それから、一つ伺いたいこともあるのです。ゴードン殿下がアルシア嬢から取り上げたエメラルドの首飾りの件なのですが」
宰相はノックス侯爵の顔がかすかに強ばったのを見逃さなかった。
「やはり! ノックス侯爵、あれはなんなんですか?」
「……はて、ただの首飾りとしか言いようがありませんが」
「いいえ、ただの首飾りなどではないはずだ、違いますか。あれにはなにかいわくがある」
「……とは?」
ノックス侯爵は慎重に言葉を紡ぐ。
その態度に宰相は確信を深めた。
「ゴードン殿下はあれをノックス侯爵家に代々伝わる幸福の首飾りであるとお考えになった。けれどもアルシア嬢はあれについて『手放せば不幸になる』と言った。あれはただの首飾りでも幸福の首飾りなんかでもない」
首飾りの呪いだなんて荒唐無稽な話だ。まだ魔法使いが箒で空を飛んでいたと言われた方が信じる気になっただろう――以前ならば。
しかし、宰相はエメラルドに宿った妖しい光が揺らめくさまを見てしまった。たった一晩でゴードンとローズが変貌するさまを見てしまった。人格者であるノックス侯爵が妙な反応をすることに気がついてしまった。
合理的な説明はできない。
けれども。
「昨晩、ゴードン殿下とローズ嬢が褐色の肌の男を見たそうです。その男が二人に襲いかかったとか」
「……賊の侵入とは恐ろしいですな」
「殿下が襲われた部屋の窓は全て施錠されたままでした。扉の前には衛兵が二人、それに近くの執務室では私と部下が徹夜で仕事をしていました。侵入者がいれば気がつくはずなんです。奇妙ですよね」
「……」
「それに、ゴードン殿下もローズ嬢も気が触れたような振る舞いをした。特にローズ嬢は首飾りに怯えていた。あれは呪いの首飾りではないのですか?」
ノックス侯爵はため息をついた。まだ四十路に入ったばかりの侯爵が一気に老けたように見えた。
「あれは呪いの首飾りなどではありません。ノックス一族に幸運をもたらしたのはあれですから」
「大事なものと引き替えに、ですか?」
宰相が声を鋭くすると、ノックス侯爵はぎょっと目を見開いた。
「やはり、そうですか。……アルシア嬢があの首飾りを身につけていることがノックス侯爵家の幸運の対価なのではないですか。例えば身につけることでアルシア嬢の寿命が削られていく、とか。だから『手放せば不幸になる』、ノックス侯爵家に害が出る。首飾りを手放せばアルシア嬢は対価を支払えなくなるからだ」
「……」
「アルシア嬢は生きているんですか。アルシア嬢の命をもって別の方法で対価を払おうとしているんじゃないですよね!?」
「……お答えすることはできかねます」
「ノックス侯爵! このままでは殿下やローズ嬢にもなにが起きるか――」
「王子とあの令嬢が望んだことではないか!」
はじめてノックス侯爵が声を荒げた。
宰相は口をつぐんだ。その通りだった。
「……申し訳ありません、侯爵」
「貴公のせいではないとわかっております。だが我々にも事情がある。協力できることはほとんどございません。今日はもうお帰りください」
宰相は奥歯を噛みしめて、その場を辞した。
***
ゴードンとローズの傷は不思議なことに見た目ほど酷いものではなく、まもなく外出できる程度には回復した。
そして二人は、よく言えばタフだった。正直に評価すればバカだった。宰相の思った以上に。
「うええ、怖かったよう」
「可哀想に……あんな悪漢までローズをものにしようとするとは、可愛らしいとは残酷な運命を背負うものなのだな」
「私に恋してるからってひどいよう、こんなっ」
「よしよし、きっとあいつはローズが私を愛したことが許せなかったんだ。今度こそ私がローズを守ってみせるからな!」
「ゴードン様ぁ……」
宰相は自分と当事者二人の精神的なギャップに頭を痛ませた。しかし二人の暢気な台詞は白々しくも聞こえ、自分にそう言い聞かせているだけのようにも思えた。
宰相は衛兵に二人を学園まで送らせ、自分は学園長の待つ応接室へ向かった。
「……というわけで、アルシアくんがローズくんに危害を加えたという確たる証拠は見つかっておらんよ」
「ですよねえ」
学園長の報告を聞き終えた宰相はおおきく息を吐いた。ため息をつくごとに魂が抜けていきそうな気分である。
でっぷり肥えた学園長は眉を顰めて宰相に身を寄せた。
「にしても、いったい何があったのかね? あのローズくんの状態! ゴードン殿下も手が傷だらけではないか。それにあの衛兵の数、ただ事ではなかろう」
「……それに関しては国王陛下がお帰りになるまで待ってもらえますか」
「ずいぶん込み入った事情があるようで?」
「ええ、それが――」
宰相が言いかけた、そのときだった。
「いやあああああああ!」
女性の大きな叫び声が演習場の方からはっきりと聞こえた。
窓を大きく開けてみれば、演習に出ていたらしい十人ほどの生徒が驚愕の表情で一人の女生徒を囲んでいた。
「ローズくん?」
「ローズ嬢!?」
宰相と学園長が演習場へ向かう間もローズは錯乱したように頭を振り回して暴れていた。
「なんで、なんでここにあるのよおお!! 城においてきたじゃない、金庫に入れた、入れたから!」
「ローズ!」
宰相たちより早く、隣の演習場からゴードンがローズに走り寄った。が、ゴードンはローズの首元を見ると驚愕して後じさった。
ローズは宙を睨み、かと思えば目をあちらこちらへと彷徨わせて、口から泡を飛ばして叫び続ける。
「なっ、なぜ首飾りがここに!? 置いてきたんじゃ」
「知らないわよお、今度は私が盗んだんじゃないわよ!!」
「今度は?」
「なによ仕方ないでしょあの女を追い出す必要があったんだからああああ! 来ないで、来ないで! あの女が悪いのよ、アルシアが悪いの!!」
「ローズ嬢、どういうことです!?」
「――――っ! ――――っ!!」
ゴードンの問いかけにも応じず、ローズは意味不明な音をわめき散らす。
息を切らして駆けてきた学園長は、息も絶え絶えに喝を入れた。
「そこの警備兵、ローズくんを保健課へ運びたまえ!」
暴れ続けるローズは警備兵に二人がかりで押さえつけられて校舎の方へ引きずられ、ゴードンがそれを追いかける。
残された生徒はみな不気味そうに黙りこくってその様子を見守る。
宰相もまた、ローズに目が釘付けになった。ローズが暴れるたびに胸元で妖しく光る、大きなエメラルド。
***
その夜、ゴードンとローズは厳重な監視の下、別の部屋に寝た。首飾りは金庫に保管され、衛兵の監視がついている。
奇妙な出来事に疲弊していたゴードンはすぐに眠りに落ちた。
ぴちゃり。ぴちゃり。
粘着質な奇妙な音がする。
薄らゴードンが目を開くと、闇の中に、闇色の粘っこいなにかが、天井からぽとぽととベッドの脇へ落ちているのがなぜか見えた。
「雨漏りか……?」
「ククッ、相変わらず実のねェ男だなァ」
「ひいっ!」
ゴードンは飛び起きた、つもりだったが、貼り付けられたかのように寝台から背中が剥がれない。
どろりと闇が蠢いて褐色の肌の男が寝台の上に立った。男はニタニタと笑いながら長い舌で天井から垂れる汁を舐った。
「こいつァ、昨日砕け散ったキサマの神聖が腐ったもんさァ。いい味になったもんだぜ」
「く、来るな、来るな! ローズになんの用だ!」
「あア? 醜い女に用はないなァ、恨みはあっても?」
「恨みだと……なんなんだお前は!」
「ヒヒ、4年経って忘れちまったかァ、ゴードン王子」
「お、お前みたいな化け物なぞ知らん!」
褐色の男はゆっくりとゴードンをのぞき込んだ。狂気に満ちた山羊の緑眼がゴードンを捕らえる。
ゴードンは息が詰まった。
酷い目眩と吐き気がする。その感覚には覚えがあった、あれは、確かに4年前、ゴードンが13歳だったころ、アルシアと婚約した直後のことで……
――お前か、アルシアの未来の夫はア。
――チ、王族とはやっかいな。
――キサマのようなガキがアルシアを守れるか。お荷物になって害するんじゃアないだろうな。
ゴードンはちやほやされて育ったため怖い物知らずの子供だった。夢に現れた褐色の肌の魔物は恐ろしかった、全身に汗をかいた、けれどもゴードンは自分に敵うものなどなにもないと信じていた。
ゴードンは怯えながらも胸に手を当てて言い返した。
――当たり前だ。俺は王子だ、あいつくらい守れる。俺の神聖に誓っても良い。
魔物は渋面になったかと思うとゆらりとその輪郭が揺らぎ、煙のように霧散していく。
――くそ、力が……
もがき苦しむような仕草を見せて悪魔は消えた。
ゴードンは魔物を倒したのだ、夢であろうとも! そして良い気分になって、そのまますっかり忘れてしまった。
その程度のことだ。そう思っていた。
寝台の上で貼り付けになったまま、ゴードンは真っ青になった。
褐色の肌の魔物は目をすいっと細めてニタニタと笑い続ける。
「知ってるかア、王子サマ。魔物を祓う王族の神聖さってヤツは誓いを守ることで保たれるんだぜ? だがキサマは誓いを破ってアルシアを捨てた……おかげで俺はキサマの腐れた神聖を喰い尽くせる」
「ひ、あっ……やめろ! お前、アルシアの差し金か、くそっ!」
「ヒヒ、ついでに面白いモンを見せてやろう」
魔物はぱかりと大きく口を開けると、声にならない甲高い悲鳴を上げた。声はゴードンの耳から侵入して脳を金属音でかき混ぜる。
「――――あガッ……ぐうっ……」
「よく見ろよ、能無し王子」
厳重に警備されているはずの部屋の扉が音もなく開いた。扉の両脇に立っている衛兵は石像になったかのように微動だにしない。
「違う、違うって言ったでしょおおお! 助けなさいよお! なんで私なのおお!」
大声でわめき散らしながら、男たちに引きずられてローズが姿を見せる。
「なっ……アレク! ジョーイ、レイブ! お前たち何をしている!」
ローズを引きずってきた男たちは、城に泊まりこんでいたゴードンの取り巻きだった。みな一様に目を剥いて焦点の会わない眼球をあちらこちらへと動かし、髪を毟っては食べ、ローズの体に爪を立てている。
ローズは顔にいくつも蚯蚓腫れを作って泣き叫んだ。胸元にはエメラルドが揺れる。
「ちょっと、なんでこんなことするのよお! なんで助けないのよ! あ、アレク、レイブ、ジョーイだって、あんたたちだって私と寝たでしょおおお! 散々楽しませてやったじゃないの!」
「な……ローズっ」
「なによお、あんただって他の子に手を出してたじゃないの! どうせアルシアとだってお楽しみだったんでしょお!」
ローズは髪を振り乱して泣き叫び、ゴードンは青ざめたまま震えだした。
魔物は喉で笑う。
「あア、腐れた神聖は最高だ、前より力が強くなったなア……ヒッ、ヒヒ」
「……――お、お前、ローズにっ……」
「わかっているだろう? 俺は連れてきただけさア」
「うそだっ」
「残念だなア、悪魔は嘘をつけないのさ」
ごぽり、ローズの目や鼻や耳から真っ黒の粘液が噴き出す。ローズはまだわめき続けながらゴードンの方へ引きずられていく。
「助けてよおお! なんで、なんでええ!」
「ひっ……寄るな、化け物! お前がアルシアを嵌めたんだな、偽聖女め!」
「なによお、あんたが望んだんじゃないのオ!! あんな醜いカタブツは嫌いだってえ!」
「違う俺じゃない、俺が悪いはずはない! お前のせいだ!」
魔物は口を三日月型に歪めたまま、争う二人を置いてすうっと闇に姿を消した。