8 イルカ
彼女の物語が進むにつれ、僕は「この物語の主人公の男の子は、自分だ」と思うようになっていった。
別に、森下さんが僕をモデルにしたと思っているわけじゃない。ただ、男の子に僕の姿を重ねざるを得なかった。
男の子は、あの美しい海の中(つまり、夢の中だ)で、女の子に出会った。男の子は女の子のことを初めて見たが、女の子は男の子のことを知っていると言った。
二人は、海の中で向かいあわせに浮かんでいた。
そして、女の子はつづけてこう言う。
『あなたは、私の恩人なのよ。』
『えっ、でもぼく、君を助けたことなんて、ないよ。』
『ううん、あなたはたしかに私を助けてくれたわ。あなたにその覚えがなくても』
男の子は、困惑していた。
『あなたは今、自信を失っている。だから、ここに招待したの。あなたにはこんなに素晴らしいところがあるのよって、伝えるために。本来のあなたを知ってもらうために』
彼女がそう言ったところで、あたりに輝いていたたくさんの泡が男の子の周りで渦を巻きはじめ、男の子は夢から覚めた。
このシーンは、女の子が登場するところなので、彼女を大きく描いた。身に着けているものは、白色のワンピースのみ。これにはかなり時間がかかった。意識したわけではないけど、僕が描いた女の子は森下さんに似ていた。
最近身近にいる女性が彼女だったので、これは仕方ないことだと思う。
とはいえ彼女に勘付かれてはいけないと思い、セミロングの髪の毛をのばし、ロングヘアにしておいた。
現実の男の子は、女の子が言った通り、自信をなくしていた。運動音痴で、特に足が遅かった。徒競走も、いつもビリ。そして、一番の悩みは、大縄跳びだった。
男の子のクラスは、全校による縄跳び大会に向けて練習をしていた。全員で、回っている大縄を次々と飛び越えていく。でも、男の子は、いつも縄に引っかかっていた。
男の子が引っかかる度に、縄を止めざるをえない。その度にクラスメイトは男の子に「ドンマイ」と声をかけていた。しかし、その表情には不安や焦りがあった。
―――跳べない僕は、いない方がクラスにとって、いい。僕は必要じゃ、ない。
それは、「足が遅く、パスもできない、体力もない今の自分はチームにとって必要じゃない」という僕の考えにそっくりだった。
この男の子は、自分だ。
僕は、このシーンの絵を美しい海のシーンとは対照的に、暗めの色を使い、少なからず荒々しいタッチで描いていった。
自分の今の気持ちを吐き出すように。
次のシーンは、また夢の中だった。
夢の中だけが、男の子にとって安心できる場所となっていた。彼女のために絵を描くことが僕の心を保っているのと同じように。そんなところにも、僕は主人公に自分の姿を重ねていた。
『ねえ、僕は君に何をしたの。僕の素晴らしいところって、何?』
海の中で男の子は、目の前の女の子に尋ねた。女の子は、
『あなたは、私にとって最初で、最後の人なの』
『さいしょで、さいご?』
『そう。あなただけが、私のことを助けだそうとしてくれた。あなたの素晴らしいところの一つ目。それはね、「だれかのためにがんばろうとするところ」、よ』
『だれかのためにがんばろうとするところ・・・』
『あれを見て。』
女の子がさす方を向くと、そこには一匹のイルカが泳いでいた。
『あのイルカはね、昔、水族館にいたの。』
いきなりイルカの話が始まって男の子は驚いたけど、だまって女の子の話を聞くことにした。
『小さい水族館だったわ。そこではイルカショーが行われていたの。でも、あのイルカは優秀ではなかった。ジャンプも、ボールを使った芸も、上手くいかない。だからね、多くの飼育員からは、あいつはだめ、役立たずだって言われていたの』
なんだか自分みたいだ、男の子は思った。そして、この物語を読んでいる僕も。
『でも、一人の女性飼育員だけは、そのイルカのことを見捨てなかったわ。君は絶対できるんだよって言いながらイルカを励まして、たくさん愛情を注いだ。イルカも、彼女のことが大好きだった』
その飼育員はすごくいい人だね、と男の子は言う。
『そうね。でも、周りの飼育員は彼女のことをよく思わなかった。彼らからしてみれば、彼女はいくらやっても上手くできないイルカにつきっきりで、無意味なことを続けているようにしか見えてなかったの。
彼女のことをそのイルカと同じように「役立たず」だって陰でいうようになった。ある時イルカは、その言葉を聞いて、ショックを受けたわ』
男の子は、手を握りしめた。イルカの方を向いて話していた女の子は、男の子に身体を向けた。その表情は、険しい。
『ここであなたに聞くわ。あなたがそのイルカだったら、どうする?』
『・・・大好きな飼育員さんのがんばりが、無駄じゃないって証明するよ。その、ショーで一番の人気になるくらい上手になってさ』
男の子は、即答した。それを聞いて女の子は、笑顔になる。
『正解。流石ね。大好きな飼育員さんが悪口を言われていることを知ったイルカは、それまで以上に練習をがんばった。一人でも特訓するようになった。そして、あなたの言う通りになったわ』
『イルカも、飼育員さんも、すごく嬉しかっただろうね。でも、どうしてあのイルカは今、この海にいるの?』
『・・・水族館がつぶれちゃったのよ』
そんな、と男の子は思わず声を漏らした。
『でも、あのイルカは今、不幸だと思う?』
男の子は、もう一度イルカを眺めた。彼は、身体をしならせ、悠々と泳いでいる。
『・・・少なくとも、飼育員さんがひどいことを言われていた時よりは不幸じゃないと思う』
『そうね。でもそれだけじゃないわ。今でも幸せよ。イルカは、誰かのためにがんばる喜びを知ったんだもの。確かに水族館がつぶれて大好きな飼育員さんと会えなくなったのはつらい経験だったかもしれない。でも、あのイルカは自分の生き方を見つけたの』
イルカは、自分の生き方を見つけた。誰かのためにがんばり続けるという生き方を。
男の子は素直に、イルカのことをかっこいいと思った。
『あなたは、私にとって、あのイルカだった。私のために、一生懸命になってくれたわ』
そういえば、と男の子はふと思った。
イルカの話がはじまる前のことをすっかり忘れていた。
『君には悪いんだけど、僕はそのイルカみたいなすごいやつじゃないし、そこまで聞いても僕は君のことを思い出せないんだ。僕は、結局君に何をしたの?』
男の子は、女の子のことを思い出せないのを申し訳なく思っているのだろう。すまなそうに女の子に質問する。しかし、
『まだひみつ』
と彼女は言っただけだった。
その時、無数の泡が男の子の周りを渦巻き、男の子は夢から覚めた。