4 前進 初めての『また明日』
五月中旬の日曜日。待ちに待った瞬間がやってきた。
「もう骨はくっついてるから大丈夫だけど、動かしたりするのには痛みを伴うだろうね。ボールを持ったりなげたりっていうのはやめたほうがいいかも。」
整形外科の先生は、涼しい顔で僕の右手にささってたワイヤーをぬきながらいった。
するすると僕の手から銀色の長い棒が顔を出していく。意外と、痛くはない。
「わかりました」
先生にお礼を言って、診察室を出る。そして、両手でガッツポーズを作った。
ギブスが外れた。これでようやく、練習にも参加できる。右手でごはんが食べられる。着替えの時間が早くなる。お風呂に全身つかることができる。右手で字や絵がかける。
今回利き腕を怪我したことによる不便さは想像以上で、そのストレスが募っていた(左手で箸を使えるようにはなったけど、これから役に立つことはまずない)。その分、今日ギブスが外れた時の喜びや開放感は大きなものだった。
先生はボールを持ったり投げたりすることを控えた方がいいと言っていたけれど、僕はやる気まんまんだった。骨がくっついているなら、痛くても問題はない。気分は晴れやかだった。右手でグーとパーを交互につくり、手の感覚を確かめた。確かにちょっと痛い。
久しぶりに見た自分の右手は、他の部分より濃い色の古い皮で覆われていた。僕の見えないところで、僕の体が自らを治してくれていた。僕は自分の身体にありがとう、と心の中でお礼を言い、病院をあとにした。
病院からの帰り道、公園の前を通りかかった時、その中に見知った顔を見つけた。あちらも僕に気づき、手をふる。
「たつき兄ちゃん!」
「やあ、かおるくん」
かおる君は近所の子で、今はたしか5歳だったはずだ。お母さん(名前をゆいこさんという)と一緒によくこの公園に遊びに来ていた。僕も、手をふりかえし、公園の中へと入る。
かおるくんは、しゃがみこんでコンクリートのキャンバスにチョークで絵を描いていた。ゆいこさんは、近くのベンチに座ってその様子を見守っている。
こんにちは、と彼女に会釈をしてから、僕は陽だまりの中にいるかおるくんのそばにしゃがみこんだ。日差しが温かい。かおるくんのさらさらとした髪は光を反射して輝いていた。
「なに、かいてるの」
「イルカ。ここぜんぶ、海なの。いま、たつき兄ちゃん海のなかだよ」
「そっかぁ」
ここ、とはこのキャンバスのことだ。この公園の中央にある三メートル四方ほどのコンクリートは、水で落とせるチョークに限り絵を描いてもいいことになっていた。
かおるくんと僕はよく、ここに絵を描いて遊んでいた。海(昼間)、空(夕方)、森(夜中)・・・と、描くものはかおるくんが決める。今日は海だ。メインとなる絵はかおる君が描き、僕は背景を担当した。かおる君は、空の絵のときは白鳥を、森の絵のときは月の中の兎を描いていた。
「じゃあ、お兄ちゃんは、あわをかいて」
「わかった、泡ね。何個くらい描こうか?」
「いっぱい」
よしいっぱいだねと言って水色のチョークを手に取り、かおるくんが大きく描いているイルカの周りに泡を描きはじめる。
描いている時、僕らは決まって無言だった。集中していた。おしゃべりが嫌いなわけではない。ただ、絵を描いている時には必要がなかった。
ふと、視界の右側に影が落ちたのを認め、顔をあげる。ゆいこさんが優しい笑みを浮かべて立っていた。
「立樹くん、右手よくなったんだね」
「はい。さっきギブスがとれたばかりで。はやく絵を描きたいな、って思ってたところなんです」
「タイミングよかったね。この子も、早く立樹くんと描きたいなって言ってたの。いつもありがとね。」
「こちらこそ。かおるくんと一緒にいるの、好きです」
ゆいこさんは、近くの商店街で用事を済ませてからまた迎えにくると言って、公園をあとにした。
僕とかおるくんは、夢中で絵を描き続けた。泡を描き終えると、僕は背景も描いていった。どんどん、色鮮やかにキャンバスが染まっていく。自分の身体が日差しで温まっていくのを感じた。
もうすぐ絵が出来上がるという時だった。また、視界の右側に影が落ちた。
ゆいこさんが帰ってきたのだと思い顔をあげると、僕は二つのことに驚くことになった。
「こんにちは・・・日比野くん」
「かのちゃん!」
一つは、そこに立っていたのがゆいこさんではなく森下さんであったということで、もう一つは、かおるくんがその名前を呼んだことだった。
「日比野くんも、かおる君と知り合いだったんだね」
「うん、こうやって一緒に絵を描くくらいの仲だけど。それにしても驚いたよ。森下さん、ここらへんに住んでるの?」
「うん、そう。」
「はじめて知ったよ」
絵を描き終え、かおるくんは砂場で遊んでいる。僕らは、ベンチに座って話をしていた。いつも隣に座っているとはいえそこまで親しい関係でもないから、少し距離を置いて。
彼女の私服姿を見るのは初めてだった。白色のワンピースに、薄ピンクのカーディガンを羽織っている。あらためて見ると、彼女は細いな、と思った。それに顔も幼いから制服を着ていないと中学生くらいに見える。
森下さんがここらへんに住んでいることを今まで知らなかったのは、僕の通学する時間が極端に早いせいだと思う(僕はだいたい始発に乗り、部活の朝練に参加している)。
「かおる君はね、私の甥っ子なの」
「え、じゃあゆいこさんは・・・」
「わたしのお姉ちゃん」
「へえ、世間はせまいんだね」
僕はかおるくんが3歳の時から二人を知っているので、驚いていた。
でもその反面、納得もしていた。ゆいこさんも、かおるくんも、そして彼女も、きれいな眼をしているからだ。まとっている優しい雰囲気も、似ている。
「日比野くん、絵が上手なんだね」
森下さんは僕とかおるくんが描いた絵を真っ直ぐ見ながら笑顔で言った。学校で、ここまで会話が続いたことはない。少し、緊張する。
「絵ぐらいしか取り柄がないんだ」
「そ、そんなことはないよ!」
森下さんはとっさにこちらを向き、否定した。そしてすぐにハッとした顔になり、顔をさらに赤くして、ごめん知ったようなこと言ってと小さく謝った。
「でも、絵がとくいなのって羨ましい。私ヘタだから」
「そんなの、大したことないよ。おれは、勉強が不得意だし、ラグビーやってるけどパスが苦手だし、走るのは遅いし・・・あと、大事な時期なのに怪我しちゃうし」
不得意なことなんて、いくらでもある。でも、人に言うのは珍しい。森下さんには、何だか言ってもいいと思った。
「でも日比野くんは、苦手なことを補うくらいの努力をしてるよ。授業だって一生懸命受けてるし、休み時間には復習もしてる。部活にも一生懸命なの、伝わってくる」
少し早口で彼女は言った。そんな風に言うのは意外だったけれど、それが偽りの言葉ではないことは分かる。素直に、受け止めることにした。
「ありがとう」
「あと、日比野くんの絵、上手とかいう前に、すごく好きだよ。なんて言うか、すごく綺麗で、幻想的。優しく語りかけてくるみたいな絵だよ」
『好き』という言葉に、反応してしまう。照れくさい。
「あ、ありがとう」
「絵本の世界みたいって思う。小さいころから絵本をたくさん読んでるけど、そのどの絵本の絵より好き。」
「絵本、好きなんだね」
今日の彼女はよくしゃべるなあと思いつつ言葉を返す。すると彼女はこちらに身体を向けて、僕の予想を超える言葉を発した。
「うん、好き。ね、日比野くん。絵本の絵、描いてみない?」
「・・・え?」
とっさに、彼女の方を向く。
「うん、絵。絵本の。絶対に合うよ、日比野くんの絵。絵本に。」
だんだん興奮気味になりながら彼女は話す。心なしか先ほどよりも距離が近い。相変わらず綺麗な瞳は、まっすぐ僕の目に向けられていた。突然のことに、僕の頭は完全に混乱していた。
その日の夜。僕はベッドに寝そべりながら、公園での出来事を思い返していた。
――森下さんの夢。それは、絵本作家になること。しかし、いくら練習しても、絵が上達しないことが悩みらしい。そして、彼女が言うには、僕の絵は彼女が書きたい絵本のイメージにぴったりなのだそうだ。
彼女のあんな積極的な姿は、初めて見た。教室では目立たない方だし、一か月以上となりの席に座っているが、そもそもあんなに会話をしたことがなかった。
僕は突然のお願いに驚きはしたが、彼女には借りがあったし、とてもいい人なので、「僕なんかの絵でよければ」と言って承諾した。右手のいいリハビリにもなるとも思った。
それに、自分が必要とされる経験はめったにないことで、単純にうれしかった。彼女は、出来上がった絵本はコンクールに応募するつもりだとも言っていた。賞を受賞すれば、もれなく出版されるものだ。しかし、本屋で売られたりはしない。子どもに限らず、たくさんの人に読んでもらいたい。それが、彼女の願いだった。
そんな気持ちを聞いて、僕も頑張りたいと思った。必要とされたからには、彼女の力になりたい。
そして早速、どんな物語なのかを彼女に聞いてみた。すると彼女は「ふふっ」と笑って、
「話は、明日学校で渡すね。タイトルは、まだ秘密。」
と言って、公園をあとにした。
この時ぼくらは、初めて『また明日ね』をいいあった。